本論文は、室内気流のCFD解析(Computational Fluid Dynamics:数値流体力学)に放射熱輸送、湿気輸送解析を連成させて人体表面からの全熱放散性状を詳細に解析し、室内温熱環境・空気質評価の予測手法を開発するものである。本研究ではこのCFD総合解析を実験用サーマルマネキンを利用した実空間環境の温熱評価の物理実験方法と対応し、数値サーマルマネキンと呼称する。 室内温熱環境・空気質評価に関する研究は、建築環境工学分野において極めて重要な課題であり、既に長い歴史を持ち数多くの研究成果が出されている。しかし、これらの従来の研究は、人体を熱負荷源、汚染源として考慮しているが、人体の物理形状及び生理発熱による人体周辺微気象に対する影響を無視したものが多い。また、人体温冷感覚及び室内空気質評価について流れ場、温度場、濃度場の室内均一分布が仮定されるものが多い。一般的に室内に空気流動や温度、熱放射場、湿度、汚染質濃度などは人体自身からの影響もあり、大きな分布が存在し、不均一な温熱環境・空気質が形成されている。これらの室内の温熱環境・空気質を人体影響を考慮して詳細に評価するためには、(1)室内温度及び放射場や気流速度や汚染質濃度場など環境要素がどのように分布しているか、(2)これらの環境要素が人体とどのような相互関係を持つかを解析する必要がある。しかし、室内気流、温度、熱放射などを詳細に測定すること及び理論的に予測することは、気流が非線形現象であり室内で複雑な分布性状を持つため、難しい課題となっている。特に、人体と周囲環境との熱・物質(水蒸気)授受関係を解明することによって、人体の生理的な温冷感覚評価を詳細に解析することは人体が複雑な生理調節機能及び形状をしていることもあって極めて困難な課題となっている。このため、従来の環境設計などにおける室内温熱空気環境の予測段階では、一般に人体と環境の相互関係は汚染源や熱負荷源としての考慮を除けばほとんど無視されている。 近年高速計算機を用いた数値シミュレーション手法が急速に発展し、数値シミュレーションにより、室内流れ場や放射場の解析が、実測や模型実験などに比べ簡易に、また詳細に行われるようになってきた。これに合わせて数値シミュレーションによる室内温熱環境評価を行った例も少なからず見られるようになってきた。しかしこれらの解析は、人体に関しては空調熱負荷源として簡易な扱いをしたものが多く、人体を明示的に解析に組み込んだものに関しても、複雑な温熱生理特性および複雑な人体形状に対し、大幅な簡略化を行っており、その解析結果は必ずしも十分なものではない。特にこれらの解析は気流対流熱伝達解析において標準k-モデルを使っているものが殆どであり、人体表面における対流熱伝達解析に関しては検討の余地を多く残したものとなっている。 この様な状況に対して、本研究は、低レイノルズ数型k-モデルを用いて対流熱伝達を高精度で解析する室内の温熱環境シミュレーションに人体モデル(人体の温熱生理特性及び人体の複雑形状を再現するもの)を組み込み、人体と環境場の相互で行われる熱・物質輸送を詳細にかつ高精度に解析し、人体の温冷感覚及び呼吸空気質を含む室内の温熱環境・空気質を総合的に予測・評価する数値解析手法を開発し、その有用性を検証するものである。 本論文は以下の5編により構成されている。 序編は本研究開発の目的と概観を4章に分けて説明している。第1章では、本研究の背景と目的、数値サーマルマネキンの意義および研究内容の概要を述べている。第2章では、人体温熱生理モデルについて紹介している。人体-環境系の熱交換に関して、本研究で活用するFangerの熱的中立モデル、及びGaggeらのtwo-node modelを解説している。また近年開発されている比較的精密な人体温熱生理モデルに注目し、これらの温熱生理モデルについて簡潔にレビューしている。第3章では、数値シミュレーション手法について概説している。まず流体の数値シミュレーション手法について簡単に示している。次に放射熱伝達の数値シミュレーション手法の紹介を、放射熱伝達解析の基礎、モンテカルロ法により形態係数の算出方法を解説し、その精度に関する検討を行っている。これらの検討を踏まえてGebhartの吸収係数による灰色体壁面間の放射熱伝達量の算出方法を示している。最後に本研究で用いているCFD・放射連成解析手法、人体温熱生理モデルに基づいたCFD・湿気輸送・放射の連成解析手法について検討を行っている。第4章では、序編のまとめを示す。 第1編は数値サーマルマネキンの開発に関する実験編として2章より成る。第1章では、本研究で用いた実験用サーマルマネキンの構造、加熱、制御方式等について述べている。第2章では、序編で示した数値シミュレーション手法により数値サーマルマネキンを開発するに当たり、その解析精度の検証のために行った実験サーマルマネキン及び実人体を用いた人体周辺微気象の検討をまとめている。人体周辺熱上昇流の可視化実験及びこの熱上昇流により生じた頭上風速・温度分布に関する測定結果を示している。また既往の実験との対応を明らかにしている。 第2編は数値サーマルマネキンの開発に関する数値解析編として3章より成る。第1章では、CFD解析による人体表面の対流熱伝達特性に関する検討をまとめている。本研究では複雑人体形状を表現するため、BFC(Boundary Fitted Coordinate:境界適合座標)を使っており、人体表面における対流熱伝達を正確に解析するため、低Reynolds数型k-モデルを用いている。この数値サーマルマネキン開発の第1段階における温熱環境解析として、様々な室内気流場(気流の平均風速、気流の乱れの強さ及び気流の方向等)が人体表面の対流熱伝達特性に与える影響に関して検討を行っている。これらの検討では人体表面における対流熱伝達率の平均値及び局部分布性状に関して既往の実験結果との対応を確認している。第2章では、対流・放射連成解析による人体表面の顕熱伝達特性に関する検討をまとめている。対流解析のみを行った場合と対流・放射連成解析を行った場合の両ケースに対する比較検討を行い、放射解析の効果及び精度を確認している。次に1編の実験対象と対応する対流・放射連成解析を行い、実験結果と良い対応が得られることを確認している。第3章では、人体の温熱生理モデルに基づいた対流・放射・湿気輸送連成解析による人体表面の全熱伝達特性を検討している。まず、人体温熱生理モデルに基づいた対流・放射・湿気輸送連成解析手法を述べている。次に、Fangerの熱的中立モデル及びGaggeらのtwo-node modelという二つの生理モデルを用いた場合、人体の発汗生理機能を含んだ人体表面の全熱放散性状に関する解析結果を比較検討している。これにより両モデルの特徴および適用範囲について考察している。また解析結果に関して実現象との対応を明らかにしている。 第3編は数値サーマルマネキンの適用編として3章より成る。第1章では、数値サーマルマネキンを室内温熱環境評価に適用した例を示している。ここでは、Gaggeらのtwo-node modelを使って得られた人体表面の全熱伝達特性に基づき、SET*及びPMV等温熱環境評価指標を算出し、その温熱性状を評価している。この解析により数値サーマルマネキンを室内温熱環境評価に適用する際の有用性を明らかにしている。第2章では、数値サーマルマネキンを室内空気質評価に適用している。即ち換気効率の観点から静穏環境下における人体周囲の汚染質濃度分布に関して検討を行っている。空気齢、空気余命の算出により人体周辺空気の換気性状を検討している。更に、汚染質発生源が床面、天井面及び人体皮膚表面にある場合、この人体周辺上昇流が人体呼吸空気質に大きな影響を与えることを確認している。この影響を定量的明らかにするため、人体熱上昇流による人体呼吸空気質に対する誘引効率の導入及び拡張を行っている。第3章では、数値サーマルマネキンの室内空気質評価適用例として受動喫煙の性状を解析している。ここでは静穏環境下において、人体の受動喫煙現象について2体の数値サーマルマネキンを用いてその気流・汚染質拡散性状を検討し、タバコの主流煙、副流煙が隣接する人体呼吸空気質に及ぼす影響を明らかにしている。 第4編では、全体のまとめを行うと共に、本研究の成果と今後の課題を総括している。 |