学位論文要旨



No 113347
著者(漢字) 大宮司,啓文
著者(英字)
著者(カナ) ダイグウジ,ヒロフミ
標題(和) 分子動力学法による電解質水溶液への水蒸気吸収過程に関する研究
標題(洋)
報告番号 113347
報告番号 甲13347
学位授与日 1998.03.30
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第4065号
研究科 工学系研究科
専攻 機械工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 助教授 飛原,英治
 東京大学 教授 松為,宏幸
 東京大学 教授 庄司,正弘
 東京大学 教授 松本,洋一郎
 東京大学 助教授 丸山,茂夫
内容要旨

 成層圏内のオゾン層破壊や地球温暖化現象が,科学技術の研究開発動向に重要な影響を与えるようになった現在,クロロフルオロカーボン(CFC)を用いず,排熱や自然エネルギーを有効に利用できる吸収冷凍機は,今後ますますの発展が期待されている。効率を高めることが普及のための命題であるが,最近の臭化リチウム(LiBr)/水系吸収冷凍機の研究開発における技術的課題は,空冷化技術に関連しての「水溶液からの結晶析出の緩和」と「吸収器の高性能化」である。技術的課題の克服のために,伝熱板形状の改良等,従来の熱工学的手法に加えて,さまざまな新作動媒体の開発がされているが,現在のところ溶解度,蒸気圧,表面張力といったマクロな物性に注目した研究が主流である。しかし,新しい問題解決の提案をするためには物理化学的な視点に立った基礎的な研究が一層重要になると思われる。

 電解質水溶液への水蒸気吸収過程は,吸収冷凍機においては吸収器内で見られ,冷凍機全体の性能を決定する最も重要な過程である。マクロな視点からこの吸収過程を考察すると,水溶液の物質拡散が全体の輸送過程を律速していることがわかる。したがって吸収を促進する方法の一つとして界面活性剤を添加し,マランゴニ効果による界面撹乱を利用することが考えられる。この方法は実際の吸収冷凍機にも応用され,成果を上げている。この現象をマクロな系で解析する場合には気液界面に物理モデルを仮定する必要があるが,適切なモデルを仮定すれば,定性的には,合理的に現象の説明を行うことができる。しかし,「界面活性剤として具体的にどのような物質が最適であるか」,あるいは「その場合にどの程度の吸収促進が見込まれるか」という問題に対しては,マクロな系の解析だけでは満足のいく解答は得られない。また,一般に気液界面での吸着や熱・物質輸送現象は界面での分子挙動が支配的な要因になると考えられるが,各種の問題に対して明確な分子論的描像は得られていない。非平衡度が小さい場合の吸収においては「蒸発係数・凝縮係数」が問題になると考えられるが,その値がどのようにして決まるかは依然として未解決の問題であるし,一方,著しい非平衡下での吸収過程はどのように記述されるべきかという問題についても明らかではない。エネルギー,運動量,物質の伝達,輸送過程は本質的には分子の運動に基づくものであり,特に気液界面を通しての熱,物質輸送過程の場合,界面での分子挙動が支配的な要因になると考えられる。今までの多くの研究では,この分子運動に確率論的な仮定をするか,あるいは何らかのモデルを用いてその運動を記述し,あとはマクロ的にエネルギー,運動量,物質の輸送収支が合うように,それらの輸送過程を決めている。したがって,この方法では,もともとの分子運動の仮定のところに問題がある場合はこれらの輸送過程の保証はできない。気液界面を通しての熱,物質移動を正確に予測したり,制御および促進を図るためには,この現象の分子論的描像を得て,分子運動を理解することが第一歩となる。

 本研究の目的は「電解質水溶液への水蒸気吸収過程」の分子動力学計算を行い,この過程の分子運動と水蒸気輸送量から分子論的描像を明らかにすることである。相変化過程の分子論的描像を得るためには,個々の分子のトラジェクトリーを理解することも重要であるが,相界面の分子集団の挙動を適切に理解することも同様に重要になる。そこで本研究においては,分子間相互作用を詳細に検討するよりもむしろ,分子間相互作用については簡単な2体ポテンシャルによって記述し,分子集団の挙動を検討することを中心の課題とした。そこで簡単な2体ポテンシャルによって電解質水溶液を表現した。本論文は5章から構成される。第1章で序論を述べた後,第2章では電解質水溶液のバルクを計算対象とし,簡単な2体ポテンシャルを用いた分子動力学計算から求められる構造的性質や動的性質を評価した。第3章では計算対象を気液界面に拡張し,電解質水溶液の気液界面の性質(密度分布,イオン分布,表面張力等)について検討した。第4章では第2章,第3章の結果を踏まえて,水溶液の濃度や非平衡度を変化させて電解質水溶液への水蒸気吸収過程の分子動力学計算を行い,その分子論的描像について検討した。第5章で全体を総括し結論をまとめた。以下,第2章以降の内容を簡単に述べる。

 第2章では,臭化リチウム水溶液のバルクを計算対象とし,簡単な2体ポテンシャルを用いた分子動力学計算を行った。水溶液の濃度を希薄溶液から溶解度付近まで連続的に変化させた場合と,異種の陽イオンを添加した場合について構造的性質,動的性質について検討した。また計算と同じ条件の水溶液について,臭素イオン周りの水分子の配位構造についてEXAFS(広域X線吸収微細構造)測定並びに解析を行い,分子動力学計算との比較検討を行った。臭化リチウム水溶液の濃度を変化させた場合と異種の陽イオンを添加した場合の両方において,臭素イオン周りの水分子の配位数,および臭素-酸素の最隣接原子間距離に関する実験結果と計算結果は良好に一致することを確認した。臭素イオン周りの水分子の配位数はイオン周りの水和構造のような近視眼的な構造のみならず,イオン同士の位置関係等のより広範囲の構造を適切に理解することにより合理的に解釈することができる。電解質水溶液を古典的な分子動力学の問題として扱うことは一般にはかなり粗い近似であると考えられるが,平均構造,特にイオンと水分子の相対的な位置関係については簡単な2体ポテンシャルを用いた分子動力学計算によってもかなり妥当な結果が得られることを確認した。動的性質については自己拡散係数,並進運動および水分子の回転運動のスペクトル等について解析した。計算から求められる動的性質は計算に用いるポテンシャル関数にかなり強く依存するため,評価を与えることはかなり難しいが,水溶液の濃度等の計算条件を変化させて各種の動的性質を求めると,その結果はおおよそ妥当なものであった。

 第3章では,計算を気液界面系に拡張し,電解質水溶液の気液界面の特徴を捉えた。まず構造的性質として密度分布,イオン分布,局所的な表面張力分布を求めた。イオンは負吸着(脱着)という性質を持つため,気液界面から液相側に偏って分布すると考えられるが,計算によってその状況が捉えられた。イオンの種類や水溶液の濃度を変化させると気液界面のイオン分布は変化するが,分子間の相互作用が強く,水溶液の濃度が低い場合に負吸着という性質が明確に捉えられた。気液界面系においては,バルク系で考察された構造的特徴に加えて,系の非等方性に起因するより広範囲の構造的特徴をもつが,その特徴が捉えられた。また,蒸気圧低下,溶解度に関して分子シミュレーションから考察した。蒸気圧,溶解度が本来巨視的な物理量であり,またそれらの概念には巨視的な事象も含まれることから,分子シミュレーションによって定量的な値を示すことは非常に難しい。しかし,定性的にはかなり妥当な結果が導かれた。分子間相互作用だけを既知の量として,飽和蒸気圧や溶解度について考察できる可能性を示した。

 第4章では,電解質水溶液への水蒸気吸収過程の分子シミュレーションを行い,水溶液の濃度と非平衡度の違いによる吸収過程の違いを明らかにした。飽和蒸気圧が等しくなるように温度と濃度を定めた電解質水溶液に等しい温度の水蒸気を吸収させる分子動力学計算を行い,一定時間の水蒸気輸送量と分子運動について考察した。吸収側が水の場合と71%臭化リチウム水溶液の場合を比較した結果,水の場合はその非平衡依存性がおよそ線形に近いものであったが,71%臭化リチウム水溶液の場合は,水蒸気輸送量は非平衡度が小さい場合はかなり小さく,非平衡度が大きい場合はかなり多くなり,非平衡依存性が水の場合と異なることが示された。この結果を以下のように解釈した。非平衡度が小さい場合は個々の吸収された水分子が緩和する時間は十分にある。しかし高濃度の水溶液においては,吸収された水分子が水溶液表面を拡散したり,凝縮熱が拡散し気液界面が統計的に一様な状態(局所平衡状態)になることは非常に困難である。その結果,吸収された水分子は吸収された地点付近の狭い領域内で熱,物質のバランスをとる。即ちバルクに拡散することが非常に困難であることから,再び蒸発したり,周囲の分子が蒸発することによって緩和することになる。一方,非平衡度が大きい場合は,水溶液表面において,吸収された水分子が緩和される前に次の水分子が吸収されるようなことが起こり,一時的に水溶液表面に過剰に水分子が輸送される。その結果,かなり多くの水分子が輸送されたものと考えられる。このような場合の輸送過程は準静的過程とはかなり異なったものになると予想されるが,現状では未解決の問題であり,今後の課題である。

審査要旨

 クロロフルオロカーボン(CFC)を用いず,排熱や自然エネルギーを有効に利用できる吸収冷凍機は,今後ますますの発展が期待されている。その技術的課題の克服のために,伝熱板形状の改良等,従来の熱工学的手法に加えて,さまざまな新作動媒体の開発がされているが,問題解決の提案をするためには物理化学的な視点に立った基礎的な研究が一層重要になる。電解質水溶液への水蒸気吸収過程は,吸収冷凍機においては吸収器内で見られ,冷凍機全体の性能を決定する最も重要な過程である。本研究の目的は「電解質水溶液への水蒸気吸収過程」の分子動力学計算を行い,この過程の分子運動と水蒸気輸送量から分子論的描像を明らかにすることである。本研究においては,分子間相互作用を詳細に検討するよりもむしろ,分子間相互作用については簡単な2体ポテンシャルによって記述し,分子集団の挙動を検討することを中心の課題としている。そこで簡単な2体ポテンシャルによって電解質水溶液を表現している。本論文は5章から構成されている。

 第1章で序論を述べた後,第2章では電解質水溶液のバルクを計算対象とし,簡単な2体ポテンシャルを用いた分子動力学計算から求められる構造的性質や動的性質を評価している。第3章では計算対象を気液界面に拡張し,電解質水溶液の気液界面の性質(密度分布,イオン分布,表面張力等)について検討している。第4章では第2章,第3章の結果を踏まえて,水溶液の濃度や非平衡度を変化させて電解質水溶液への水蒸気吸収過程の分子動力学計算を行い,その分子論的描像について検討している。第5章で全体を総括し結論をまとめている。

 第2章では,臭化リチウム水溶液のバルクを計算対象とし,簡単な2体ポテンシャルを用いた分子動力学計算を行っている。臭化リチウム水溶液の濃度を変化させた場合と異種の陽イオンを添加した場合の両方において,臭素イオン周りの水分子の配位数,および臭素-酸素の最隣接原子間距離に関する実験結果と計算結果は良好に一致することを確認している。電解質水溶液の平均構造,特にイオンと水分子の相対的な位置関係については簡単な2体ポテンシャルを用いた分子動力学計算によってもかなり妥当な結果が得られることを確認しし,動的性質については自己拡散係数,並進運動および水分子の回転運動のスペクトル等について解析したところ,その結果は概ね妥当なものであった。

 第3章では,計算を気液界面系に拡張し,電解質水溶液の気液界面の特徴を捉えている。まず構造的性質として密度分布,イオン分布,局所的な表面張力分布を求め,イオンは負吸着(脱着)という性質を持つことを,計算によってその状況が捉えられた。イオンの種類や水溶液の濃度を変化させると気液界面のイオン分布は変化するが,分子間の相互作用が強く,水溶液の濃度が低い場合に負吸着という性質が明確に捉えられた。気液界面系においては,バルク系で考察された構造的特徴に加えて,系の非等方性に起因するより広範囲の構造的特徴をもつが,その特徴が捉えられた。また,蒸気圧低下,溶解度に関して分子シミュレーションから考察した。蒸気圧,溶解度が本来巨視的な物理量であり,またそれらの概念には巨視的な事象も含まれることから,分子シミュレーションによって定量的な値を示すことは非常に難しい。しかし,定性的にはかなり妥当な結果が導かれた。分子間相互作用だけを既知の量として,飽和蒸気圧や溶解度について考察できる可能性を示している。

 第4章では,電解質水溶液への水蒸気吸収過程の分子シミュレーションを行い,水溶液の濃度と非平衡度の違いによる吸収過程の違いを明らかにしている。飽和蒸気圧が等しくなるように温度と濃度を定めた電解質水溶液に等しい温度の水蒸気を吸収させる分子動力学計算を行い,一定時間の水蒸気輸送量と分子運動について考察している。吸収側が水の場合と71%臭化リチウム水溶液の場合を比較した結果,水の場合はその非平衡依存性がおよそ線形に近いものであったが,71%臭化リチウム水溶液の場合は,水蒸気輸送量は非平衡度が小さい場合はかなり小さく,非平衡度が大きい場合はかなり多くなり,非平衡依存性が水の場合と異なることが示している。

 第5章では,結論を述べている。

 以上,要するに,本論文では,高濃度電解質水溶液(臭化リチウム水溶液)のバルクおよび気液界面の分子構造を分子動力学法により模擬することに成功し,電解質水溶液への水蒸気吸収における非平衡度の違いによる水蒸気の吸収特性が異なることを明らかにしている。これらの知見は工学および工業技術の進展に寄与するところが大きい。

 よって,本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。

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