学位論文要旨



No 113350
著者(漢字) 山西,伸宏
著者(英字)
著者(カナ) ヤマニシ,ノブヒロ
標題(和) 壁面に衝突する気体分子の動力学
標題(洋)
報告番号 113350
報告番号 甲13350
学位授与日 1998.03.30
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第4068号
研究科 工学系研究科
専攻 機械工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 松本,洋一郎
 東京大学 教授 松為,宏幸
 東京大学 教授 小林,敏雄
 東京大学 教授 西尾,茂文
 東京大学 助教授 丸山,茂夫
内容要旨

 最近の技術の発達とともに,ナノテクノロジーを始めとして原子操作など微小なスケールでの現象が重要になって来ている.また,微小な領域での流動現象が機器の性能や各種の製造プロセスに大きな影響を及ぼすようになって来ており,微小な領域における流れの理解がますます求められている.そのような流れではもはや流体を連続体として取り扱うことはできず,個々の分子の運動を考慮した解析が必要となる.

 半導体デバイス製造装置内の流れなど微小領域における希薄気体流れでは,固体表面近傍における気体分子の散乱方向,温度,付着確率など固体表面での境界条件が重要となる.このような知見を得るために有効な手法の一つとして分子線による実験が挙げられる.分子線は電子線やイオンビームなどの他のプロープに比べ入射エネルギが低く,表面を破壊することなく表面第一層の情報のみを得ることができるため,気体分子と固体表面との動的過程を解明するには有効な実験手法である.一方,分子動力学法による数値シミュレーションは実験では実現不可能なパラメータの組み合わせについても解析することが可能であり,現象の本質を抽出して理解するには有利な方法である.しかしながら,熱流体現象を解析するにあたってミクロな領域からマクロな領域まで,すべてを分子動力学法によって解くことは現状では不可能であり,マクロな領域は直接シミュレーションモンテカルロ法等で解くことになる.このような場合,固体表面と気体分子の干渉や多原子分子の衝突過程など,メゾスケールのモデルが使われることになる.最近,分子動力学法を用いて固体表面と気体分子の干渉や,多原子分子の衝突過程などの動的問題を明らかにし,メゾスケールのモデルの構築が行われるようになっている.

 希薄気体流れの数値解析における壁面反射モデルとしては,Hard-CubeモデルやCercignani-Lampisモデルなどが提唱されているが,気体分子の内部自由度を全く考慮しておらず,また経験的に定数を決定する必要があるなどの問題点を抱えている.このように,より厳密な信頼性の高い壁面反射モデルの構築が必要とされていることや,多くの工学分野で気体分子-固体表面間相互作用の知見が必要とされていることから,多原子気体分子の表面における散乱過程の解明は重要である.

 本論文では分子線散乱実験およびシミュレーションの一手法である分子動力学法を用いてさまざまな条件における気体分子-固体表面間相互作用を解析し,壁面に衝突する気体分子の動的挙動を決定する支配的な要因を明らかにする.またこれらの結果からその特性値を用いて壁面反射モデルを構築する.最後にこのモデルの妥当性を検証するため,分子線散乱実験との比較や希薄気体流れの数値解析への適用を行う.なお,気体分子としてArおよびO2,壁面は清浄で完全なグラファイトを用いる(図1).

図1:O2/Graphite系

 まず,分子線散乱による気体分子-固体表面間相互作用の実験的解析を行った.速度と方向のそろった流れである分子線は分子線源室で生成され,超高真空下にある主室に入り,マニピュレータに保持された固体試料に照射される.散乱気体分子は回転型質量分析器によって検出されるが,マニピュレータが三軸に回転することから三次元測定が可能となる.散乱気体分子の空間分布は,質量分析器へ飛来する気体分子の流束強度を測定することにより得られる.散乱気体分子の並進運動は飛行時間法によって測定する.なお,気体分子の散乱方向は表面法線となす角度fと,入射方向となす角度fによって定義する.

 まず,散乱気体分子のTOFスペクトルを直接散乱過程(第一成分)および吸着脱離過程(第二成分)に基づく二種類のスペクトルで解析し,f,fの両方向とも鏡面反射方向から離れるほど吸着脱離過程が強くなることがわかった.また,第一成分の平均並進エネルギのf分布は,入射エネルギが約0.4eVと高い場合においてHard-Cubeモデルと良好な一致が確認された.第一成分の平均並進エネルギは,fと負の相関を持つことがわかった.さらに,気体分子の法線方向(接線方向)の並進エネルギ損失は,入射における法線方向(接線方向)の並進エネルギと正の相関を持つことが確認され,散乱気体分子の流束強度分布のf,f方向の広がりは,入射並進エネルギ,入射角度と負の相関,壁面温度と正の相関を持つことがわかった.

 次に,分子動力学シミュレーションによる気体分子-固体表面間相互作用の数値解析を行った.二原子分子の表面散乱を分子動力学法によりシミュレートするにあたり,以下の仮定を置いた.(1)分子の運動は古典的な運動方程式で記述できる.(2)回転エネルギは連続的な値をとる.(3)気体分子は剛体回転子であり,振動及び解離は起きないものとする.

 二原子分子である気体分子の運動は,重心の並進と重心回りの回転に分けて考えた.並進運動はニュートンの運動方程式に従い,加速度は固体原子から気体の各原子に働く力の和より求まる.回転運動は分子座標系において考え,剛体の回転運動に関する運動方程式で表される.空間座標系における分子の配向はEuler角に代わって4元数を用いて行った.時間積分はベルレ法の一つの形式であるかえる-跳び法により,時間刻み0.1fsec.で行った.酸素原子-炭素原子間には式(1)のLennard-Jonesポテンシャル

 ,炭素-炭素間には式(2)のバネ近似のポテンシャルを用いた.

 

 

 気体分子を固体表面に衝突させる前に,まず壁面温度TSの熱平衡状態にあるグラファイトの薄膜を得なければならない.288個の炭素原子を3層に,表面のミラー指数が(0001)となるよう配置し,周期境界条件をかけ無限に広がる薄膜を再現する.20000ステップの温度制御後に20000ステップ自由に炭素原子を運動させて熱平衡状態を実現させる.次に気体分子に並進温度,回転温度および表面法線ベクトルに対する入射角度を与え,固体表面に衝突させる.このとき,気体分子の並進速度の表面接線方向,固体表面との距離および回転方向はランダムに選ばれる.各入射条件につき4000回気体分子を表面に衝突させる.シミュレーションは気体分子が表面より充分離れるか吸着するまで行われる.気体分子の衝突が終わる度に固体表面は衝突前の状態に戻している.

 まず,入射条件を分子線散乱実験に合わせて衝突させた結果,散乱角度分布および速度分布は良好な一致を示した.また,衝突後の気体分子のエネルギ変化を解析した結果,一回目の衝突後の並進エネルギ分布は正規分布に従い,各条件における分布の平均および標準偏差は,楕円体とキューブの衝突の簡単な解析より得られたモデル関係式に従うことがわかった.一回目の衝突後の回転エネルギ分布は,入射回転エネルギが低い場合はボルツマン分布と非ボルツマン分布を合成した分布関数で近似することができ,入射回転エネルギが高い場合はこの非ボルツマン分布で近似できることがわかった.また,分布の特性値はモデル関係式に従うことがわかった.

 最後に,これまで得られた知見をもとに壁面反射モデル(マルチステージモデル)を構築した.本モデルの対象としている系は気体分子がO2またはAr,固体表面が清浄で完全なグラファイトのみであり,気体分子の振動運動は考慮していない.モデルの最大の特徴は気体分子と壁面の毎回の衝突を再現し,それを三つの段階(ステージ)に分けているところにある.

 最初に行われるエネルギ変化のステージでは,入射条件から衝突後の並進エネルギおよび回転エネルギを決定する.これまで得られた知見から衝突による並進エネルギ損失の分布は正規分布に従っており,その平均と標準偏差は入射エネルギの線形結合に従うことが分かったため,これをモデルに取り入れた.衝突後の回転エネルギも同様に決定する.次に行われる反射のステージでは壁面の凹凸などによる気体分子の散乱方向を決定する.壁面の凹凸は等ポテンシャル面の模擬面で近似され,気体分子はそこから鏡面反射する.最後のステージでは気体分子の反射後の挙動を決定する.気体分子の衝突後の並進エネルギから再入射と判定された場合,そのときのエネルギを入射条件とし第1ステージに戻る.

 まず,本モデルの散乱角度分布および速度分布は分子線散乱実験と良好な一致を示し,充分な精度を持つことがわかった.また,本モデルは個々の分子の動的挙動をモデル化したものであるが,その計算結果は気体-壁面間の熱平衡状態を正確に再現し,エネルギバランスについてもモデルの妥当性が示された.

審査要旨

 本論文では,分子線散乱実験および分子動力学シミュレーションを行い,様々な条件における気体分子-固体表面間相互作用を解析し,壁面に衝突する気体分子の動的挙動を決定する因子を特定し,壁面反射モデルを構築することを目的としている.

 気体分子-固体表面間相互作用に関する研究は,半導体デバイス製造装置内の流れなど微小領域における分子流れの解明から重要とされている.気体分子-固体表面間相互作用の研究は,これまで簡単な力学モデルによる解析と分子線を用いた実験が主であった.一方,分子動力学法による数値シミュレーションは実験では実現不可能なパラメータの組み合わせについても解析することが可能であり,現象の本質を抽出して理解するには有利な方法である.

 本論文では,壁面に衝突する気体分子の動的挙動に関する知見を得るために,分子線を用いた超高真空実験と分子動力学法による数値解析が行われている.単原子気体分子としてアルゴン,2原子気体分子として酸素を用い,固体表面は清浄で完全なグラファイトを用いており,得られた知見から気体分子の衝突後の散乱方向と並進,回転エネルギに関するモデル化が行われている.

 本論文は,全5章から構成されている.

 第1章は「序論」であり,研究の目的,関連する研究の概要について述べられている.

 第2章は「分子線散乱による気体分子-固体表面間相互作用の解析」であり,分子線の生成方法,飛行時間法による測定方法について詳しく述べた後,散乱気体分子の並進エネルギや流束強度分布について解析している.まず,散乱気体分子のTOFスペクトルを直接散乱過程(第一成分)および吸着脱離過程(第二成分)に基づく二種類のスペクトルで解析し,f(天頂角),f(方位角)の両方向とも鏡面反射方向から離れるほど吸着脱離過程が強くなることが示されている.また,散乱気体分子の流束強度分布のf,f方向の広がりは,入射並進エネルギ,入射角度と負の相関,壁面温度と正の相関を持つことが示されている.

 第3章は「分子動力学法による気体分子-固体表面間相互作用の解析」であり,分子動力学シミュレーションにおける計算手法について詳しく述べた後,気体分子としてアルゴンおよび酸素,固体表面は清浄で完全なグラファイトを想定した系についてシミュレーションを行っている.まず,入射条件を前章の実験に合わせて衝突させた結果,散乱角度分布と速度分布は良好な一致を示しており,シミュレーションの精度が確認された.また,衝突後の気体分子のエネルギ変化を解析した結果,一回目の衝突後の並進エネルギ分布は正規分布に従い,各条件における分布の平均および標準偏差は,楕円体とキューブの衝突の簡単な解析より得られたモデル関係式に従うことを示している.さらに,一回目の衝突後の回転エネルギ分布は,入射回転エネルギが低い場合はボルツマン分布と非ボルツマン分布を合成した分布関数で近似することができ,入射回転エネルギが高い場合はこの非ボルツマン分布で近似できることを示している.また,分布の特性値はモデル関係式に従うことを示している.このように,前章の結果と併せて壁面に衝突する気体分子の動的挙動を決定する支配的な要因を明らかにしている.

 第4章は「壁面反射モデルの構築」と題され,本論文の最も主要な部分である.ここでは支配的な要因の特性値を用いて壁面反射モデルを構築している.また,このモデルの妥当性を検証するため,分子線散乱実験との比較や希薄気体流れの数値解析への適用を行っている.その結果,本モデルの散乱角度分布および速度分布は分子線散乱実験と良好な一致を示し,充分な精度を持つことが示されている.さらに,本モデルは個々の分子の動的挙動をモデル化したものであるが,その計算結果は気体-壁面間の熱平衡状態を正確に再現し,エネルギバランスについてもモデルの妥当性が示されている.

 そして第5章が「結論」である.

 壁面に衝突する気体分子の散乱の解析とそのモデル化に関しては,過去数多くの研究がされているが,分子線散乱実験および分子動力学シミュレーションの両者を行い,気体分子の動的挙動の解析に基づいて構築された壁面反射モデルは皆無である.特に,本研究は気体分子の動的挙動を決定する因子の特定および定量的評価を行っており,さらに構築された壁面反射モデルが実験結果を再現できる点で特に優れていると認められる.

 よって本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる.

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