学位論文要旨



No 113361
著者(漢字) 苗村,潔
著者(英字)
著者(カナ) ナエムラ,キヨシ
標題(和) 僧帽弁位における機械式心臓代用弁の閉鎖運動解析と設計
標題(洋)
報告番号 113361
報告番号 甲13361
学位授与日 1998.03.30
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第4079号
研究科 工学系研究科
専攻 精密機械工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 土肥,健純
 東京大学 教授 松本,博志
 東京大学 教授 板生,清
 東京大学 教授 井街,宏
 東京大学 講師 鈴木,真
内容要旨 1.序論

 ヒトの心臓の内部構造は左右心房、左右心室の4つの部屋から成り立ち、心房と心室の境及び心室の出口部分にはそれぞれ弁があり、流れを一方向にする働きをする。リュウマチ熱や細菌感染が原因で、弁膜どうしがくっつき合って血液の流路を狭めたり、弁膜の石灰化によりそのしなやかで耐久性に富む特性が失われた場合に、弁機能を代行させる人工的に作製した弁(心臓代用弁)への置換手術が実施されている。本研究で対象とする僧帽弁は左心房と左心室の間にある弁で、僧帽弁位心臓代用弁は臨床上満足的に受け入れられているが、血栓、溶血、閉鎖音などの問題から100%安全な医療ではない。

 従来の機械式心臓代用弁(機械弁)は弁全開時の圧力損失、流れの乱れを小さくすることにおいて改良されているが、溶血や閉鎖音に関係する閉鎖運動解析を行なうことが安全な機械弁の設計に必要である。機械弁の閉鎖運動は生体僧帽弁と比べると閉鎖開始が遅いので、機械弁の要求仕様に「左心室収縮前に閉鎖運動を開始すること」を追加する。生体僧帽弁が左心室収縮前に閉鎖を開始するのは左心房収縮の閉鎖補助効果のためであり、臨床報告や工学的研究から機械弁についても同様に左心房収縮による閉鎖補助効果は期待できるが、僧帽弁置換患者のほとんどは左心房収縮が消失しているので、機械弁自体に閉鎖開始機能を付加する必要がある。

 また、運動解析を行なう上で必要な弁運動計測装置について、弁置換患者と拍動流回路に共通して使用可能な装置は存在せず、上記の要求仕様を満たす機械弁を設計する上でも新しい計測装置の導入が求められる。

2.目的

 本研究は僧帽弁位機械弁の閉鎖運動解析による設計を行ない、拍動流回路を用いて評価を行なうことを目的とする。

 具体的には

 ・ X線シネ撮影より高速撮影が可能な弁運動計測装置の提案、導入および評価

 ・ 閉鎖開始機能を備えた機械弁の概念設計

 ・ 運動解析および拍動流回路実験による閉鎖開始機能の評価

 ・ 運動を考慮した設計方針の提示と二葉弁オクルーダの設計

 の4項目である。

3.X線シネ撮影より高速撮影が可能な弁運動計測装置

 機械式心臓代用弁の運動解析を行なう上で、既存のX線シネ撮影や超音波エコー、可視光による高速ビデオカメラ撮影では不十分な点から必要とされる運動計測装置の要求仕様として、

 ・オクルーダの開放角度を定量的に測定可能でX線シネ撮影より高速(毎秒200コマ以上)

 ・拍動流回路に対する計測の際に可視光を用いないこと

 ・弁置換患者の術後検査装置および拍動流回路を用いた実験に共通して使用可能

 ・得られる画像データがデジタルで解像度0.17[mm/画素]

 を挙げた。

 上記の要求仕様を満たす具体的な弁運動計測装置として、X線透過像を高速ビデオカメラで記録するX線高速ビデオカメラを新たに提案し導入した(図1)。人体ファントムを用いた撮影実験などの結果、表1のようにX線高速ビデオカメラは画像の解像度以外の点において要求仕様を満足する弁運動計測装置であることが明らかとなった。得られた解像度は運動開始の時期を特定するには十分と考えられる。

図1 X線高速ビデオカメラの構成図表1 弁運動計測装置の要求仕様とX線高速ビデオカメラの性能比較
4.閉鎖開始機能を備えた機械弁の概念設計

 機械弁の構成要素と従来の設計についてまとめ、本研究ではオクルーダ(開閉運動部分)を設計対象とすることとした。弁置換患者の僧帽弁位流速パターンは左心室収縮前に流れが全くない状態が生じることから、閉鎖のためのアクチュエータが必ずしも必要ないことや移植手術の簡便性と製作の容易さを考慮して、「オクルーダの重心をずらして閉鎖状態で静止する弁(以下、重心ずれ弁)」を概念設計として選択した(図2)。

図2 重心ずれ弁の概念図
5.運動解析および拍動流回路実験による閉鎖開始機能の評価

 概念設計で提示した重心ずれ弁の閉鎖開始機能を評価するために、運動方程式の計算による運動解析と拍動流回路を用いた実験を行なった。

運動解析

 過去の研究を参照して機械弁の閉鎖運動方程式を導き、傾斜ディスク弁をモデルに運動解析を行なった。その結果、オクルーダ重心をずらすことにより閉鎖開始機能が働くが、弁の取り付け方向により閉鎖完了までにかかる時間が変化した。開放角度に内輪で近い角度に取り付けたときが最も短時間で閉鎖した。また、左心室収縮の圧力較差によるモーメントは重力モーメントの2桁から3桁大きく、左心室が収縮する限りオクルーダ重心をずらしても弁は確実に閉鎖することがわかった。

拍動流回路実験

 (方法) 重心ずれ弁のモデルとして、二葉弁オクルーダに鉛片を貼り付ける方法を提案し数式モデルを導いた。鉛の貼り方と弁取り付け方向に対して閉鎖運動に要する時間を計算して、拍動流回路による実験条件を考察した。その結果、鉛直下方と弁口輪がなす角度を50[°]以上に設定することでオクルーダ重心をずらすことによる閉鎖開始機能が顕著に現れることと、貼りつける鉛片の縦の長さを一定にし質量を変えてモーメントの腕の長さを調節することとした。

 拍動流回路を用いた運動計測実験では作動流体に血液と粘度を合わせ37[℃]に加温した40[%]グリセリン水溶液(粘度:3.6[cP])を使用し、拍動数60[bpm]、左心室拡張期時間0.8[s]の条件下、左心室圧力、左心房圧力、僧帽弁位流量とX線高速ビデオカメラによるオクルーダ運動を500[Hz]で計測した。臨床使用されている二葉弁(CarboMedics弁)のオクルーダに鉛片を2[g]貼り、閉鎖開始機能とともに開放運動への影響を検討した。オクルーダ運動の連続する画像データから運動開始のタイミングを特定した。

 (結果) 重心ずれ弁は弁を通過する流量が減速中またはほぼゼロのとき閉鎖開始機能を持つとともに、拍出流量0.5×10-4[m3/s](3[L/min])、一回拍出量50[mL]の条件下では、開放運動への影響は無視しえた。また、左心室収縮前から閉鎖を開始することで緩閉鎖となり、従来の弁に見られた急峻な逆流が消失するなど溶血、閉鎖音低減に効果があること、オクルーダ重心と回転軸の間の距離を長くし重力による閉鎖トルクを大きくする程、オクルーダの閉鎖運動時間が短いことが明らかとなった(図3)。

図3 二葉弁を用いたオクルーダ重心をずらすことによる閉鎖開始機能の評価実験結果(拍動数:60[bpm]、拡張期時間:0.8[s]、平均流量:0.5×10-4[m3/s](3[L/min]))
6.運動を考慮した設計方針の提示と二葉弁オクルーダの設計

 拍動流回路を用いた実験結果などから、オクルーダ重心と回転軸の位置の設計方針として以下を提示した(図4)。

 ・重心位置はオクルーダを閉鎖位置の方向に動かす場所とすること

 ・回転軸により2つに分割されるオクルーダの投影面積は重心を置く側の方を小さくすること

 次に、二葉弁オクルーダを半円と長方形を組み合わせた形状でモデル化して、上記の設計方針に従い形状を決定した。半円部分(半径:R)の断面形状を二等辺三角形とし、長方形部分縦の長さのRに対する比kの範囲として、

 0.524<k<0.785

 を得た。以上より、モデリングワックスを用いて二葉弁オクルーダのプロトタイプを製作した。臨床使用されている二葉弁(St.Jude Medical弁)のヒンジにオクルーダを挿入したとき、閉鎖角度の位置で静止したので閉鎖開始機能を備えた機械弁であると考えられる。

図4 運動を考慮したオクルーダ重心と回転軸の位置の設計方針
7.考察重心ずれ弁の閉鎖開始機能以外の特性

 設計した重心ずれ弁のオクルーダは既存の弁(St.Jude Medical弁)に比べて、厚さが3倍、長さが1.2倍となった。その結果、弁高が4〜8[mm]大きくなり、弁口輪内面積が83[%]に減少した。これは左心室内に流れの停滞域を生じやすくさせ、流体抵抗が大きいことを意味するので、オクルーダ材質を不均一にするなどして長さを短く設計することが今後の課題である。一方、閉鎖角度は既存の弁より30〜40[°]大きいので、逆流量が減少し心臓への負担の少ない弁になりうると考えられる。

拍動流回路による評価の意義

 拍動流回路による実験と動物実験の中間に位置する実験系として、拍動流回路に血液を流して実験することが考えられる。使用する血液は大量に入手できることから牛血が適当であるが、血液は血管から流れ出た瞬間から凝固しやすくなる。凝固防止の薬剤(クエン酸など)を添加しても、個々の牛血により粘性などが時間で変化する。実験数を増やして傾向をつかむ以外に方法はないが、グリセリン水溶液を扱うのに比べて牛血には細心の注意が必要とされ、データの再現性も保証されない。したがって、一定性能の流体を用いた拍動流回路による評価も第1段階として十分意義がある。また、将来的に血液を使用して実験をする場合でも、本研究で提案したX線高速ビデオカメラを用いて運動計測が可能である。

8.結論

 X線高速ビデオカメラを用いた運動解析により設計した閉鎖開始機能を備える重心ずれ弁は、僧帽弁位機械弁を左心室収縮前から閉鎖開始させることで、溶血、閉鎖音の低下が得られ、より安全な弁置換手術の実現を工学的に支援することが明らかとなった。

審査要旨

 本論文は、心臓弁機能不全の治療において重要である機械式心臓代用弁について、弁閉鎖運動を解析するための高速度の弁運動計測装置の構築し、閉鎖開始機能付加による新しい機械弁を設計、評価し、溶血や閉鎖音の解消における閉鎖開始機能の有効性を明らかにしたものである.

 機械式心臓代用弁は1960年代より臨床に用いられてきているが、血栓や溶血の発生、閉鎖音などに課題を残している.従来の心臓代用弁は弁全開時の圧力損失や乱流の最小化を目標として改良を重ねてきたが、溶血や閉鎖音には弁の閉鎖運動が関係しておりその解析が重要となっている.特に機械弁は生体弁に比べ閉鎖開始が遅いことから、閉鎖開始を早める機能を付加することで、溶血や閉鎖音を解消できる可能性がある.そこで本論文では、機械弁の閉鎖運動を解析するための計測装置の構築と、閉鎖開始機能を備えた機械弁の設計と評価を目的としている.

 本論文では、まず従来より高速度の弁運動解析装置として、X線テレビジョンと高速ビデオカメラを組み合わせた装置について述べている.X線透過像をイメージインテンシファイアにより受け、増倍されたX線映像を高速CCDビデオカメラにより撮影する.これにより、解像度0.35mm/画素、最高撮影速度1000コマ/秒の性能が得られた.閉鎖運動開始時の特定が目標であるため、解像度は十分であり、また撮影速度は毎秒500コマとして画像の鮮明度を上げた.以上により、拍動流回路による機械弁評価実験および弁置換患者の術後検査に共通して利用可能なX線高速ビデオカメラ装置が得られた.以降の拍動流回路での実験ではこの装置を使用している.

 次に機械弁に対して閉鎖開始機能を付与する方法について述べている.アクチュエータを用いず容易に製作可能で弁置換手術が簡便に行えるように、オクルーダ(開閉運動部分)を改良し閉鎖状態で静止するものとした.具体的には弁置換患者では左心室収縮前に流れが全く無い状態が生じることから、オクルーダの重心を偏位させることで実現した.これは既存の機械弁の形状をそのまま利用しているため圧力損失や耐久性については保証されている.以上のように、オクルーダ重心を偏位させて閉鎖開始機能を備えた機械弁を「self-closing valve」として概念設計した.

 提案した機械弁の有効性を評価するために、まず運動方程式による解析を行った.鉛直下方と弁口輪の角度の影響を変えて通常の機械弁とオクルーダ重心を偏位させた弁について比較したところ、圧力較差によるモーメントが重力によるモーメントをはるかに上回り、重心をずらしても弁の開放、閉鎖運動は確実に行われることが明らかとなった.次いで既存の二葉弁に鉛片を張り付け重心の偏位した弁を試作し、拍動流を発生する流体回路を用いて閉鎖運動を評価した.その結果、重心を偏位させることによって、左心室収縮前から閉鎖を開始しており、生体弁と同様に緩やかな閉鎖運動が行われていた.また従来の機械弁に見られた閉鎖時の急峻な逆流が消失したため、開放時間が短縮したにも関わらず正味の流入容積は従来の弁なみに得られていた.以上からオクルーダの重心を偏位することによる閉鎖運動性能の向上が明らかとなった.

 得られた結果に基づき、重心を偏位させた二葉弁オクルーダを設計した.具体的には長方形と半円を組み合わせ、その境界を回転軸とした形状を用いた.設計方針に従って寸法を決定し、プロトタイプを試作した.その動作を拍動流回路により計測したところ、予測した左心室収縮前での閉鎖開始運動が行われており、重心を偏位させた弁の設計が有効であることを示した.

 考察では、機械弁が左心室収縮前から閉鎖を開始することの溶血や閉鎖音への効果を述べている.重心を偏位させた弁では閉鎖時の急峻な逆流が減少していたことから、閉鎖直前の弁速度が低下し、その結果としてキャビテーションが抑制されると論じている.実際に生体弁、従来機械弁、重心偏位弁について、超音波画像およびX線高速ビデオカメラ装置により閉鎖直前の弁速度を計測し比較したところ、生体弁に対して従来の機械弁では約17倍であったのに対し、重心偏位弁では3.1倍と生体弁に近い結果が得られた.以上から、重心を偏位させた弁はより生体の弁に近い閉鎖運動が実現され、溶血の発生が減少し、閉鎖音も小さく抑えられると論じている.

 以上から本論文では、閉鎖開始機能を備えた機械式心臓代用弁の実現について、重心を偏位させることによる具体的な設計手法を述べた.この手法を用いた機械弁は、従来の機械弁に比べて、流入量や圧力損失などの面において十分であるだけでなく、左心室収縮前から閉鎖を開始するより緩やかな閉鎖運動となること、またオクルーダの閉鎖直前速度が減少し生体弁により近くなることから溶血や閉鎖音の低下につながり、安全な機械式心臓代用弁の実現に貢献することを明らかにした.

 よって本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる.

UTokyo Repositoryリンク http://hdl.handle.net/2261/54629