学位論文要旨



No 113391
著者(漢字) 岩木,直
著者(英字)
著者(カナ) イワキ,スナオ
標題(和) 脳磁界計測とその逆問題解析に関する研究
標題(洋)
報告番号 113391
報告番号 甲13391
学位授与日 1998.03.30
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第4109号
研究科 工学系研究科
専攻 電子工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 上野,照剛
 東京大学 教授 原島,文雄
 東京大学 教授 羽鳥,光俊
 東京大学 教授 岡部,洋一
 東京大学 教授 廣瀬,啓吉
 東京大学 教授 藤田,博之
 東京大学 助教授 廣瀬,明
内容要旨

 脳の電気的な活動は脳波(Electroencephalogram:EEG)とともに微少な脳磁界(Magnetoencephalogram:MEG)を頭の周りに生成する。脳の神経活動が生成する電気的な信号は,本質的に脳の機能的情報を反映するものであり,EEGおよびMEGの測定は,同様に機能的な情報が得られるPET(Positron Emission Tomography)や機能的MRI(Magnetic Resonance Imaging)と比較して,数ミリ秒オーダの時間的解像度をもつという利点がある。このような理由から,EEGおよびMEGの計測は,脳の機能的な疾患の診断,さらには,意識,認知,記憶等の高次脳機能研究に有用なものとして期待されてきた。

 測定されたEEGおよびMEGデータから脳内の電源分布を推定する,いわゆる逆問題解析は,EEGおよびMEGを用いた脳機能イメージングを実現する上での重要な課題であり,このような脳内の電源分布を高精度かつ高速に再構成するアルゴリズムの開発が必要不可欠である。しかしながら,従来から広く用いられている非線形最適化法を用いた逆問題解析手法には,(a)局在的な電源モデルに限定される,(b)複数の電源が存在する場合良好な最適化が困難,(c)仮定する電源数とその初期値を決定する必要がある,(d)測定データに含まれる時間的情報を積極的に利用できない,等多くの問題点がある。これらの問題点のため,複雑なパターンをもつ高次脳機能関連脳磁界の脳内電源分布の推定は困難であった。

 本研究では,MEGおよびEEG測定データからその時間的かつ空間的な特性を利用して,高次脳機能の解析に必要な脳内各領域間の連繋的な活動を記述できる逆問題解析手法を提案すると同時に,これを認知や記憶等の高次脳機能を反映する測定データの解析に適用して,それらの脳内活動に関する知見を得ることを目的としている。本論文では,まず従来の逆問題解析手法の中でも,測定データの時間的情報を用いて複数の電源の位置推定を安定に行うことができるMUSIC(Multiple Signal Classification)法を,脳磁界実測データの解析に適用して得られた,脳の高次機能に関する新しい知見について論じた。次に,MUSIC法を含めた従来の手法の問題点を改善する新しい手法の提案と,そのコンピュータ・シミュレーションによる検証,および高次脳機能関連脳磁界実測データへの適用結果について考察した。そこではとくに,脳内の活動部位に関する先見情報が非常に少ない高次脳機能関連脳磁界の電源分布を,空間的な解像度を低下させることなく高速に推定する手法,および,空間的に分布した脳内電流分布を,測定データのS/N比が低く,かつ複数の電源の時間的活動が独立でない場合にも,安定して推定することができる手法を提案した。

MUSIC法による高次脳機能関連脳磁界データ解析

 脳の高次情報処理過程では,脳内の広範な部位が協調的に活動しており,神経活動の空間的なパターンが複雑かつ動的に変化していると考えられており,電源分布形状に関する先見情報が極めて少ないことが多い。ここでは,このような場合にも有効なMUSIC法を用いて,文字認知関連脳磁界データおよび,心的回転課題遂行時の脳磁界データの解析を行った。

●文字認知関連脳磁界データの逆問題解析

 被験者に4文字の英単語,意味のない文字列,およびランダムドットパターンを呈示し,英単語呈示の場合のみ日本語に訳するという課題を遂行させ,この課題遂行中の脳磁界を64チャネルSQUIDシステムを用いて測定した。用いた実測データは複雑な空間パターンを有しており,これまで多く用いられてきた非線形最適化手法による逆問題解析では,その脳内電源分布の推定が困難であった。本論文では,このような文字認知関連脳磁界データに対して,時空間データ配列の信号/ノイズ空間分離を基に電源配置最適化の非線形性を回避することができるMUSIC法を用いることで,電源分布を安定に推定できることを示した(図1)。ここで用いた実験例では,英単語の意味認知を反映していると考えられる脳内電源が右側頭部に推定された。

図1:MUSIC法による文字認知関連脳磁界電源分布推定結果。
●心的回転課題遂行中の脳磁界データの逆問題解析

 心的回転(mental rotation)課題では,被験者に回転した文字あるいは図形を呈示し,本来の文字あるいは同時に呈示される標準図形と一致するか,あるいはそれらの鏡像であるかを判定させる。この課題遂行にともなって,脳内では呈示図形の仮想的な回転操作が行われていると考えられている。心的回転にともなう脳内の活動部位に関しては,PETおよびfMRIを用いた実験から,本課題にともなう時間的に重畳された結果として,頭頂葉の活動が報告されている。より時間的な解像度が高いEEGあるいはMEGを用いた実験では,課題遂行中の自発活動の抑圧等が報告されているが,高い時間解像度を生かした活動部位の動的な推定には至っていない。ここでは,心的回転課題にともなう視覚情報処理の早期過程に対応する脳内活動部位の動的な推定を目的として,課題呈示後200ms前後の実測データに対して,MUSIC法を用いた逆問題解析を行った。

 この結果,図2に示すように,後頭葉一次視覚野の活動に続いて,被験者5名中4名で課題呈示後200ms前後における後側頭部の活動源が推定された。これは,サルの脳の電気生理学的な研究で明らかにされている,視覚情報処理の下側頭連合野へ至る経路を反映しているものと考えられる。

図2:心的回転課題遂行中(a)およびそのコントロール課題遂行中(b)の脳内電源分布推定結果。
逆問題解析手法の改善と新しい手法の提案

 上記の高次脳機能関連脳磁界データの逆問題解析に用いたMUSIC法を含めて,現在提案されている逆問題解析手法はそれぞれ利点と問題点をもつ。ここでは,とくに高次脳機能解析へ応用する際の問題点を改善する手法の提案と,シミュレーションによる有効性の確認,および実測データへの適用について述べる。

●逆問題解析手法の高速化の検討

 脳内の活動部位に関する先見情報が非常に少ない高次脳機能関連脳磁界の電源分布推定を行う場合,広い範囲で電源の走査を行う必要があり,計算機資源等の制約を考慮して,その空間的な解像度を制限する必要があった。ここでは,MUSIC法をベースとし,走査グリッドを多重解像度化することにより,電源の分布する空間の近傍における解像度を低下させることなく電源分布走査を高速化する手法を提案した。

 この手法により,電源推定の解像度を低下させることなく,電源分布走査部分の計算量を,電源分布が局在的であったコンピュータ・シミュレーションでは1/60に,高次脳機能関連脳磁界の例として用いた文字認知時の脳磁界実測データへの適用(図3)でも1/20に削減することができた。

図3:走査グリッドの多重解像度化による脳内電源走査の高速化。文字認知関連脳磁界への適用結果。
●逆問題解析手法の高精度化の検討

 ここで提案するMUSIC-wMNE法は,少数個の電流双極子による脳内電源の非常に単純化したモデル化を用いず,電源の形状等に関する先見情報がほとんどない場合にも適用可能であると同時に,測定データに含まれる時間的情報を電流分布推定に反映させることができ,S/N比の低いデータに対しても良好な推定が可能な手法である。この手法では,局在的な電源モデルを必要としない重みづけ最小ノルム(Weighted Minimum Norm Estimation:wMNE)法の重みづけを,データの時間的情報を利用して電源の最適配置を求めるMUSICアルゴリズムによる予備走査結果により変更するものである。この手法を用いることにより,従来のwMNE法では電流分布推定結果に大きな歪みを生じる,S/N比の低い測定データに対しても,適切な電流分布推定ができることを,コンピュータ・シミュレーションで示した。また,MUSICアルゴリズムに基づく逆問題解析で大きな推定誤差を生じる可能性がある,複数の電源が同期して活動している場合にも,電流分布推定結果がややなだらかになる傾向があるものの,reasonableな推定が可能であることを示した(図4)。MUSIC予備走査を付加することによる計算量の増加は,wMNE法で必要な計算量の10%以内であった。

図4:MUSIC-wMNE法による電流分布推定シミュレーション。2個の電源が同期して活動している場合。通常のwMNE法(b)では,S/Nが低いため電流分布推定結果が大きく歪んでいるのに対して,MUSIC-wMNE法では仮定した電流分布の概形が良好に推定されている。

 さらに,心的回転課題遂行中の脳磁界データへの適用の結果,従来のMUSIC法を用いて得られた結果とほぼ一致した電源分布が得られ,同時に脳内各位置における電流の方向を再構成することができた(図5)。また,4名中2名の被験者に関しては,fMRIを用いた実験で得られた部位と類似した領域の活動が推定された。

図5:MUSIC-wMNE法を用いた心的回転課題遂行中の脳内電流分布推定結果。
審査要旨

 本論文は,「脳磁界計測とその逆問題解析に関する研究」と題し,脳磁界計測を用いた高次脳機能に関連する脳内電源分布を高速かつ高精度に推定する手法を提案し,さらにヒトの高次脳機能関連脳磁界を計測して,その脳内電源分布推定を行い,本手法の有用性を検証したもので,全7章から成っている。

 第1章は「序論」であり,本論文の目的を述べている。すなわち,先見的な情報が少なく,かつS/N比(Signal-to-Noise Ratio:SNR)を向上させることの難しい高次脳機能関連脳磁界データから,高速かつ高精度な脳内電源分布の推定を可能にする逆問題解析手法を提案することを述べている。

 第2章は「神経電流が生成する電磁界の順問題と逆問題」と題し,本論文の理論的背景となる脳内神経の電気的活動のモデル化と,それにより生じる脳磁界の定式化,および計測された脳磁界データからの脳内神経電流分布再構成に関する既知の手法についてまとめている。とくに,計測データに含まれる時間的情報を用いて電源位置の推定を比較的高速かつ安定に行うことができるMUSIC(Multiple Signal Classification)法と,少数の一点に局在化した電源という非常に単純化した電源モデルの仮定を用いず電源に関する先見情報が少ない場合にも有効な最小ノルム推定(Minimum Norm Estimation:MNE)法について述べている。

 第3章は「逆問題解析手法の高速化」と題し,MUSIC法を高速化するアルゴリズムの提案と,シミュレーションによる検証を行っている。従来,脳内の活動部位に関する先見情報が非常に少ない高次脳機能関連の脳磁界について電源分布の推定を行う場合,広い範囲で電源の走査を行う必要があり,比較的高速に電源分布を求めることができるMUSIC法を用いる場合にも,計算時間あるいは計算機資源等の制約条件を考慮して,電源分布推定の空間的な解像度を制限する必要があった。本章では,この問題点を改善するため,電源位置推定の際の走査グリッドを多重解像度化することにより,電源走査を高速化するアルゴリズムを提案し,そのシミュレーションによる検討を行った。この結果,電源分布が局在している場合,電源の存在する領域の近傍で走査の解像度を低下させることなく,電源分布走査部分の計算量を1/60以下に削減することができることを示している。

 第4章は「逆問題解析高速化手法の文字認知関連脳磁界実測データへの適用」と題して,第3章で提案した逆問題解析高速化アルゴリズムを,文字認知関連脳磁界実測データへ適用した結果について述べている。その結果,電源が存在すると思われる領域の近傍で,電源分布走査の解像度を低下させることなく電源分布の走査を行う際の計算量を従来の1/20に削減できること,また,この実験例に関しては英単語の意味認知を反映していると考えられる脳内電源が右後側頭部に推定されたことを述べている。

 第5章は「逆問題解析手法の高精度化(MUSIC-WMNE法)」と題し,従来の逆問題解析手法を高精度化するアルゴリズム(MUSIC-WMNE法)の提案と,シミュレーションによる検証について述べている。すなわち,局在的な脳内電源分布の仮定を必要としないMNE法に,MUSICアルゴリズムによる予備走査を用いて計測データの時間的情報を導入し,電源分布の推定精度を向上させるとともに,ノイズの大きなデータに対しても良好な推定を可能にしている。また本手法により,MUSIC法で大きな電流分布推定誤差を生じる可能性がある複数の電源が同期して活動している場合にも,推定結果がややなだらかになる傾向があるものの,良好な推定が可能であること,また,MNE法に対する計算量の増加が10%以内であることなどを述べている。

 第6章は「MUSIC-WMNE法の心的回転(Mental Rotation)課題関連脳磁界実測データへの適用」と題し,第5章で提案したMUSIC-WMNE法を,心的回転課題関連脳磁界実測データの脳内電源分布推定へ適用した結果について述べている。心的回転課題とは,被験者に回転した文字あるいは図形を呈示し,本来の文字あるいは標準図形と一致するかあるいはそれらの鏡像であるかを判定させる課題で,脳内の情報処理過程では呈示図形の仮想的な回転操作が行われていると考えられている。MUSIC-WMNE法を用いた逆問題解析により,心的回転課題遂行中の被験者の脳内各位置における電流分布の再構成を行い,5名中4名で後頭葉一次視覚野の活動に続いて,刺激呈示後200ms前後の活動源を後側頭部に推定している。また,5名中3名で,刺激呈示後200ms前後の活動源を頭頂部に推定している。これらは心的回転課題にともなう視覚情報処理の早期成分を反映していると考えられ,頭頂葉および側頭葉へ向かう二つの視覚情報処理経路への分岐を反映している可能性を,ヒトを用いた非侵襲脳磁界計測では初めて明らかにしたものである。

 第7章は結論であり,本論文のまとめを述べている。

 以上本論文は,脳磁界計測を用いた脳内電源推定を高速かつ高精度に行う新しい手法として,電源走査の多重解像度化による高速化手法,および最小ノルム推定への計測データの時間的情報導入による高精度化手法を提案し,さらに提案手法の高次脳機能関連脳磁界実測データへの適用を行ってその有効性を明らかにしたものであって,電子工学および生体情報工学上貢献するところは少なくない。

 よって本論文は博士(工学)の論文審査に合格と認められる。

UTokyo Repositoryリンク http://hdl.handle.net/2261/1886