学位論文要旨



No 113402
著者(漢字) 井戸,哲也
著者(英字)
著者(カナ) イド,テツヤ
標題(和) 光格子中の原子のダイナミクスに関する研究
標題(洋)
報告番号 113402
報告番号 甲13402
学位授与日 1998.03.30
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第4120号
研究科 工学系研究科
専攻 物理工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 清水,富士夫
 東京大学 教授 伊藤,良一
 東京大学 教授 渡部,俊太郎
 東京大学 教授 櫻井,捷海
 東京大学 助教授 五神,真
 東京大学 助教授 三尾,典克
内容要旨

 今世紀最大の発明とさえ言われるレーザーの物理学への貢献は計り知れない.20年程前から実用となった狭帯域連続発振レーザーから得られる光はほぼ完全にコヒーレント状態の光といって良く,我々は干渉・回折等の波動現象特有の現象をごく簡単に非常にきれいな形で見えるようになった.例えば単色平面波を同一領域に複数本入射すると,光電場は干渉効果によりその強度及び偏光において光の波長オーダーの周期的構造を作る.この周期的構造はレーザー光のコヒーレント長のオーダーでは欠陥等が存在しない理想的なものである.

 このような光によって出来た周期的構造の中に輻射場と相互作用をする中性原子を入れたものが本論文のテーマである光格子である.原子は近共鳴光が存在する時ACシュタルクシフトによってエネルギー準位がシフトする.シフト量は光強度及び偏光によって大きく変化する為,単色平面波の交差している領域では光の干渉に応じて原子は周期ポテンシャルを感じる.そして原子の運動エネルギーが周期ポテンシャル障壁よりも低い場合は原子は1つのサイトにトラップされ,原子も光の波長オーダーの秩序を形成することになるのである.むろん光格子を形成する為にはACシュタルクシフトと同程度迄に原子の運動エネルギーを下げる,つまり冷却する必要がある.ACシュタルクシフトは温度にして高々数mK程度であるため,その実現にはレーザー冷却技術の発展を待たねばならなかった.

 レーザー冷却は1985年にS.Chuらの発明したモラセスによるナトリウム原子の3次元冷却法に端を発した技術である.彼らは原子の共鳴周波数から負に離調した3次元のレーザー定在波中で,ナトリウム原子を密度106cm-3,温度240Kに冷却し,0.1sにわたって空間的に保持できることを示した.1987年には,E.L.Raabらはモラセスを四重極磁場中に置き,磁場中での原子の共鳴周波数のゼーマンンシフトと光吸収の偏光選択性を巧妙に利用することで原子の運動に復元力を生じさせる磁気光学トラップを開発し,2分間もの長時間原子をトラップ出来ることを示した.さらに1988年には,モラセスによる冷却温度が今まで知られていた2準位原子に対する理論限界温度(ドップラー温度)を大幅に下回っていることが発見され,その後まもなくC.Cohen-Tannoudjiらにより提案された偏光勾配冷却理論によって,冷却遷移の下準位に磁気縮退のある系ではモラセスによって1光子の反跳エネルギーの数倍,数Kまで冷却可能であることが示され,実際にCsの冷却において達成された.これらここ十数年のレーザー冷却技術の発展の功績に対して,1997年ノーベル物理学賞が贈られたことは記憶に新しい.そして近年ではレーザー冷却によって得られた極低温原子をさらに冷却してボーズアインシュタイン凝縮を実現するに至っている.

 レーザー冷却によって得られる原子気体は量子縮退領域に達していなくても,原子物理における今までにない理想的な実験環境であり,その利用価値は非常に高く種々の実験がなされてきた.基礎的な部分では,中性原子間の衝突における散乱長の測定や,極低温原子間の衝突過程の探求,原子の高次の干渉効果,数十秒に及ぶ準安定状態の寿命測定等がある.また,実用を目指した研究としては,冷却原子線による原子波干渉計,ジャイロスコープや原子波ホログラフィー,時間標準の飛躍的精度向上を狙った原子泉による超微細遷移のラムゼイ分光などがある.こうした数々の極低温原子気体を用いた実験の一つに本論文の主題である光格子がある.

 光格子はレーザー冷却の観点からは,偏光勾配冷却過程の解明に大きな役割を果たす.偏光勾配冷却理論は「複数本の輻射場による空間的な偏光勾配の存在により冷却過程が生じる」としているため,偏光勾配が厳密に定義されている光格子はその妥当性を探るには好適である.また一般物理学的には周期ポテンシャル中での粒子のダイナミクスを詳しく調べられる特徴がある.現代社会を支える半導体技術は固体物理学をその基礎としているが,固体物理とはつまり固体結晶構造中の電子の性質を調べることであり,光格子とは固体物理学における固体結晶を輻射場に,電子を中性原子に置き換えたものと見ることが出来る.そのため光格子で得られる知見は固体物理への貢献も大である.固体結晶においては,格子欠陥が避けられないため長距離オーダーでの秩序を維持できないことや電子同士の相互作用によって周期ポテンシャルとの相互作用が乱されること等の原因で,周期ポテンシャル中のダイナミクスを抽出することが難しい.これらの点は光格子にはなく,周期ポテンシャル中での粒子のダイナミクスのみを純粋に調べることができるのである.その他,応用的にも光シフトポテンシャルによる局在化で衝突を抑制し極低温気体の高密度化を実現すること等が期待されている.これは希薄原子気体においては高密度領域で原子間の非弾性衝突によるロスが高密度化を妨げるからである.

 さて,一般にレーザー冷却に用いる原子種は主にアルカリ金属であり,これは,光格子においても同じである.一方我々は準安定状態希ガス原子のクリプトン・アルゴンを採用した.準安定状態希ガス原子でのレーザー冷却は1989年にF.Shimizuらが準安定状態ネオン原子をトラップして以来,彼を筆頭とした我々のグループが世界をリードしてきた.準安定状態希ガス原子ではアルカリ金属では不可能な実験が可能であり,これまで我々が成し遂げた数多くの成果はレーザー冷却の分野に大きく貢献してきた.光格子においても準安定状態希ガス原子ゆえの特色を生かした実験が可能であり,我々はクリプトン・アルゴン原子において本邦初の光格子を生成し,数々の興味ある知見を得た.本論文はその実験及び結果の解析を詳細に記したものである.

 我々が用いた準安定状態希ガス原子クリプトン・アルゴンでの光格子の特徴は以下の点である.

 1.支配的な衝突過程がペニングイオン化過程であるため,衝突の検出が容易である.

 2.核スピンがなく超微細構造による近接準位が存在しないため,離調や光強度のパラメーターのダイナミックレンジを大きく取れる.

 3.クリプトンとアルゴンでは遷移準位,遷移波長,遷移強度が殆ど変わらないため,質量依存性が明快に見られる.

 これらの特徴を生かして,実験においてはペニングイオン化衝突によって生じる希ガスイオンをカウントすることにより衝突レートを算出し,そこから次のような実験結果を得た.

 1.クリプトン原子において離調を自然幅の1000倍程度離した領域で光シフトポテンシャル障壁による衝突抑制効果を初めて観測した.

 2.光格子中の原子の二体衝突レートはポテンシャルの深さには依存せず,励起レートのみに1/2乗で依存することが分かった.

 3.光格子の秩序形成に到達するまでの必要な光子反跳数がポテンシャルの深さや励起レートに依らないことを確認した.

 従来,原子が確かにサイトにトラップされていることは分光学的手法によって確認されてきたが,衝突抑制効果の確認はより直接的に原子が空間的に束縛されていることを証明したといえよう.

 次に本論文では,良く定義された光シフトポテンシャルの中での原子のダイナミクスを外部自由度に関しては古典的に取り扱い,原子のホッピングの軌跡をモンテカルロシミュレーションによって追跡し,その結果から衝突レートを算出して実験結果と比較検討した.その結果次のような知見が得られた.

 1.ポテンシャル障壁がリコイルエネルギーの100倍以上の領域では原子を質点とみなし,外部自由度に関して古典的に扱っても問題がない.

 2.ポテンシャル障壁がリコイルエネルギーの80倍以下の浅い光格子では原子の拡散が拡散的から弾道的へとその性質を変え始める.

 3.衝突の抑制のためには励起レートを下げることが必要だが,それは一旦ホッピングを始めた原子が長い距離を動いてしまうことを意味し,従って劇的な衝突の抑制は不可能である.

 光格子とはポテンシャルが良く定義された偏光勾配冷却過程ということが出来る.偏光勾配冷却理論は原子集団の温度がポテンシャルの深さに比例すること等によってその正当性が認められてきたが,本質である多数サイト間にわたる原子の輸送現象等のダイナミクスに関しては確認されていない.これは,従来のアルカリ金属を用いた実験ではサイトにトラップされている原子については分光学的手法を用いて詳細に調べられるが,サイト間を移動する原子についてはそれを見るための適当なプローブがないからである.一方で準安定状態希ガス原子ならばホッピング過程が原子の二体衝突という形で検出できるのであり,シミュレーションの結果を実験と比較検討できる.二体衝突レートが両者において良い一致をみたことは光格子における原子のホッピング過程を明らかにすることが出来たといえよう.

 また,一般に周期ポテンシャル中の粒子はポテンシャルが十分深い場合はt=0からの変位の絶対値が時間の平方根で増加するが,ポテンシャルが浅くなってくると平方根からリニアへと依存性が変化する.その変化の様子が近年理論家によって1次元光格子において予測されてきた.本論文において行った古典的シミュレーションは単純な軌跡追跡の手法で完全3次元においてもそれを予測しており,我々の実験によって得られた衝突レートはそれを裏付けた.完全三次元での計算は量子力学的に行うのは複雑すぎて困難であるだけに単純なシミュレーションによって実験結果を説明できたことは価値があると思われる.

 一方,光格子には希薄原子原子気体の量子縮退領域到達のための道具になりうるのではないか,という応用上の期待があった.ボーズアインシュタイン凝縮はアルカリ金属においては蒸発冷却によって達せられているが,準安定状態希ガス原子ではぺニングイオン化過程が支配的な二体衝突過程であり,弾性衝突を利用した蒸発冷却は不可能である.従って高密度化のためには衝突を抑制することが必要である.光格子において原子がポテンシャル障壁にトラップされてしまえば衝突は抑制可能であり,高密度化を狙える可能性がある.本論文での実験及びシミュレーションは残念ながらその可能性を否定することになったが,原子を完全に束縛できない原因が自発放出による断熱ポテンシャルの乗り換えにあることをつきとめた.

 1995年に実現されたボーズアインシュタイン凝縮の実現以来,レーザー冷却の分野では量子縮退原子を用いた物理へとそのテーマを移しつつあり,光格子は既に過去のものとなりつつある.本論文で得られた一連の知見は,レーザー冷却の発明以来十年あまりその主役の座にあった偏光勾配冷却過程を明らかにすると同時に,量子縮退領域への冷却技術の応用という観点からは光格子及び偏光勾配冷却に引導を渡したといえるかもしれない.

審査要旨

 光格子とは定在波光が作る原子に対する周期的なポテンシャルのことである。原子は通常の結晶における電子と同じような周期的なポテンシャルを感じ、光格子は中性原子が電子の役割をする新しい形態の結晶ともいえる。光格子の研究はレーザー冷却の研究が進展した際に付随的に発生したものであるが、新しい物性として種々の研究がなされる一方、高密度の極低温原子気体を作る手段としても注目されている。この論文は、後者の目標に重点を置いた研究の報告である。実際の光格子中で原子がどのように運動し、緩和していくかを、準安定状態希ガス原子を使った実験と3次元シミュレーションを用いて初めて明らかにした研究結果を述べている。

 論文は8章から成っている。第1章は序論で、レーザー冷却研究全体の流れの中で捕らえた本研究の意義が述べられている。第2章はレーザー冷却のレビューであり、光格子中の原子の振る舞いを理解するのに必要な、ドプラー冷却、偏向勾配冷却、磁気光学トラップについて解説している。第3章は光格子中での原子の振る舞いを記述し、後章の解析に利用できるように冷却遷移の磁気副準位まで正確に取り入れたブロッホ方程式を導出している。第4章はこの研究に用いたアルゴンおよびクリプトン原子の準安定状態について、レーザー冷却、光格子ポテンシャル、極低温原子の衝突過程などの特質について解説している。

 5章と6章はこの研究の実験に関係した部分に関する記述である。色々な条件下で光格子中原子の衝突による散逸速度を調べることは、光格子中の原子のダイナミクスを調べる有力な手段である。光格子の研究は今までもっばらアルカリ原子を対象にして行われてきたが、アルカリ原子の衝突過程は複雑なため、散逸速度の測定をダイナミクスに結び付けるのは困難である。これに対して、著者等が選んだ希ガス原子では、散逸に寄与する衝突がペニングイオン化ただ一つに限られ非常に簡単であるため、結果の解釈は比較的容易である。さらに、ペニングイオン化過程の計測は、生成した希ガスイオンを検出すればよいので極めて高感度である。

 実験手順は放電によって作り出した準安定状態の希ガス原子をゼーマン同調法で減速し、磁気光学トラップ中でドプラー冷却を作用させ冷却しながらトラップする。次に冷却用レーザーの強度と周波数を変えて偏向勾配冷却法により、さらに10マイクロケルビン程度まで冷却する。最後に冷却用のレーザーと磁気光学トラップ用の磁場を切り、代わりに光格子用のレーザービームを照射して希ガス原子を光格子ポテンシャルの極小点に束縛する。このプロセスを行なうために、原子線、トラップ用の真空装置のほか、冷却と光格子用の2種類のレーザー光線、時間シークエンスを制御するためのデバイス、トラップの磁場を高速に遮断する回路、イオン測定とデータ収集装置などを組み上げる必要がある。著者等はこの装置を用いて生成したアルゴン、およびクリプトン光格子中の原子の散逸速度を、自由空間での値をレファランス、光格子用レーザーの強度と周波数(共鳴からの離調)をパラメーターとして測定した。光格子中では各原子が一つづつポテンシャルの極小値にトラップされているにもかかわらず、大抵の条件下で自由空間中の原子より衝突係数が大きいという不思議な結果を得た。さらに、その大きさは原子が光格子レーザーによって励起状態に励起される速度の1/2乗に比例していることを見つけた。この実験結果は光格子を作れば高密度の極低温原子気体が出来るという期待を裏切るものである。

 第7章は上記の一見不思議な実験結果を説明するために行なった計算機シミュレーションに関する記述である。著者は、光格子ポテンシャル中の原子の3次元的な運動を、ポテンシャル面が磁気副準位の数と同じ5枚あることまで考慮して古典的運動方程式を解いて求めた。この際、レーザー光による励起および副準位ポテンシャル面間の遷移はランダムな過程として取り扱っている。光格子中の原子の運動を完全な形で追いかけたおかげで、著者は、その解から散逸速度のみならず光格子のすべてのパラメータが決定できた。著者は散逸速度はもちろんのこと光格子の温度も第6章の実験結果と定量的に良い一致を示すことを示した。これにより、期待されたように光格子中で原子衝突が減少しない物理的理由も明らかになった。第8章はまとめと今後の展望である。光格子を利用して高密度の原子気体を生成することは、物理的に興味があるだけでなく、そこから得られる極めて大きな非線型光学効果を利用した量子通信や実時間ホログラフィーなどの技術的応用も期待されている。著者等の結果はこの期待に対して肯定的な答を与えているわけではないが、今後、光格子の技術的研究を進める際の指針としての有用な情報を提供している。

 よって本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。

UTokyo Repositoryリンク http://hdl.handle.net/2261/54633