学位論文要旨



No 113406
著者(漢字) 本田,雄士
著者(英字)
著者(カナ) ホンダ,タケシ
標題(和) エネルギー伝搬の量子模型依存性
標題(洋)
報告番号 113406
報告番号 甲13406
学位授与日 1998.03.30
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第4124号
研究科 工学系研究科
専攻 物理工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 助教授 時弘,哲治
 東京大学 教授 藤原,毅夫
 東京大学 教授 薩摩,順吉
 東京大学 助教授 初貝,安弘
 東京大学 助教授 伊藤,伸泰
内容要旨

 非平衡系の統計力学は多くの未解決の問題を持ち、未だに完成には程遠い状況にある。最も成功を納めているのは、非平衡系からのわずかな揺動に対する応答の理論、すなわち、線形応答理論(いわゆる久保公式)である。しかしながら、その使用に関しても、現実問題として多少混乱している状況がある。

 久保がその原論文の中で初めから注意しているように、線形応答理論は、擾乱に対する系の応答として、「混合性」を仮定している。混合性とは、擾乱を受けると、充分に長い時間が経つと相関が切れる性質のことである。従って、可積分系のような、保存量を無限に持ち、擾乱を受けても変化しうる位相空間が狭く、有限の時間でもとの状態に戻ってくる(再帰性)と考えられる系に対しては、久保公式を適用すると正しい結果が得られない可能性がある。事実、近年量子細線などの系において、電気伝導度の計算で系を可積分系(朝永-Luttinger流体)とみなして久保公式を用いると実験事実と異なる結果が得られる事が指摘されている。可積分系では、通常の熱力学的な仮定が成立せず、特別な注意が必要なのである。

 一方、熱伝導のような非平衡現象を研究する際には、長時間の後に熱平衡状態が実現されることを仮定し、通常熱浴を取り付け、熱浴の大きな自由度の影響をrandom noiseなどで置き換えて議論する。ところが、古典系では熱浴の取りつけはrandom noiseを生成するものとしてある程度正当化できるが、量子系として扱う場合には注意が必要になる。熱浴自身が量子系であり、注目する系の演算子と熱浴の演算子とはもはや非可換であり、熱浴も全量子系の一部として考えなければならない。その場合、どのような熱浴を仮定するべきか、また、どのようにして熱浴の自由度を消去すべきかには十分な注意が必要で、多くの場合、必ずしも厳密に正当化できる方法が取られているわけではない。

 以上のような現状を踏まえ、本研究では、エネルギーの伝搬という非平衡系での代表的な現象を、確率的な揺動を用いず純粋に系の量子力学的な発展のみを用いることで、可能な限り正確に取り扱うモデル・方法を提案し、可積分系・非可積分系でエネルギー伝搬の違いを考察する。したがって、通常の熱伝導を議論するときのような、自由度を消去しうる熱浴を取りつけることはしない。これは、熱浴と系のcouplingの形を仮定し、さらに非可換な変数も消去しなければならず、ここに恣意性が入るからである。

 最初の試みとして、異なる温度で熱平衡状態にある自由ボゾン系(または自由フェルミオン系)熱的に接触させたとき、エネルギーがどのように伝搬するかを解析的に考察した。(可積分系であっても熱平衡状態の統計的な性質は非可積分系と同様にカノニカル分布で記述されることに注意されたい。)その結果、一方の系からのエネルギーの流入およびエネルギーの重心の速度は時間的に一定であり、それゆえ、エネルギーの伝搬速度は時間的に一定であることを見い出した。量子系における熱的非平衡下でのエネルギーの伝搬については、このような簡単な系に対しても現在まで決定的な結論は得られておらず、この結果の意義は大きいと考えられる。

 次に、ランダムネスの影響を議論する。古典系においては、エネルギー拡散が生じるためにはランダムネスの影響及び非線形性の両方が重要であると考えられている。そこで、まず、量子系に関して、ランダムネスの存在のみで拡散現象が生じるかどうか考察した。我々が対象とする系は、同様に相互作用のないボゾン系、フェルミオン系であり、モデルとしてtight-binding modelを採用した。エネルギー伝搬の様子は、同様に、部分系に流れ込んだエネルギーの総量とその重心位置で確認した。様々な温度とランダムネスについてこのエネルギー中心の位置を計算した結果、拡散的な振舞いはみせず、一定の速度で伝搬することがわかった。この振舞いは、ランダムネスを特徴づけるエネルギーの程度が2つの系の温度差をはるかに上回るようになっても質的には変わらず、エネルギーはバリスッティクな伝搬をする。ボゾンの場合は系の温度上昇と共にエネルギー中心の伝速度は上がり、やがて一定値に近付くが、フェルミオンの場合は温度の上昇と共に伝搬速度は下がってっしまう。これは、低温の方がフェルミ面が大きくなり、伝導に寄与できる粒子数が増えるためである。この結果、かなり大きなrandomnessが存在しても、エネルギーは拡散せず、時間的に一定の速度で伝搬することが明らかになった。

 次に、可積分系と非可積分系におけるエネルギー伝搬の相違いについて議論する。しかし、非可積分系を正確に取り扱うという方針のもとでは、考える系は小さくならざるを得ず、前に議論した形でエネルギー伝搬を論じることは困難である。そのため熱的な擾乱に対する再帰性を数値的に研究した。再帰性の存在はエネルギー拡散が生じないことのひとつの証査になる。逆に再帰性が生じないことは、拡散現象が生じる傍証を与える。

 対象としては、スピンレスフェルミオン系とスピン系をとるが、スピンレスフェルミオン系は取り得るシステムサイズの制限が強いので、主にスピン系を考察した。

 その結果、可積分系と非可積分系とでは、再帰現象に大きな差が見られることがわかった。具体的には、再帰時間のシステムサイズ依存性が大きく異なることを見い出した。最も異なる点は、可積分系では系のサイズとともにほぼ線形に再帰時間が増大するが、非可積分系では(確定的なことは言えないが)指数関数的であるように見える点である。

 さらに、この違いを正確に見るために、’dwig norm’(2つの状態の間の「距離」を定義するもの)を可積分系、非可積分系のそれぞれに対して計算し、その比較を試みた。

 また、熱勾配の影響を可積分系と非可積分系とで比較するために、われわれの方法で取り扱い可能な新しいモデルを提案し、振舞いの違いを調べた。従来の手法(マスター方程式を数値的に解く方法)との比較も行なった。

審査要旨

 平衡状態からの揺動に対する線形応答はいわゆる久保理論によって明確な基礎づけを与えられ成功を収めている.しかしながら,平衡状態から遠く離れた非平衡・非定常系における熱・エネルギー伝搬などの輸送現象に対しては量子力学に基づく第1原理的な取り扱いはほとんど不可能であり,従来適当な確率過程モデルを考えたり,適当な熱浴との結合を考えるなどの方法で議論されてきた.本研究では,温度の異なる物体間のエネルギーの伝搬という非平衡系での代表的な現象を,確率的な揺動を用いず純粋に系の量子力学的な発展のみを用い,正確に取り扱うモデル・方法を提案している.そして,従来の熱浴を仮定する方法と比較し,熱浴の自由度をどのように近似的に消去すべきか,また,可積分系と非可積分系での熱的な擾乱に対する応答がどのように異なるのかを明らかにすることを目的としている.

 本論文では,第1章において研究の背景として非平衡系の取り扱いの困難性を歴史的に概観し,古典論でのエネルギー拡散の必要条件であるランダムネスと非線形性の役割について述べ,本研究の目的を述べている.

 第2章の前半では,まず,異なる温度を持つ物体間のエネルギー伝搬を力学的な取り扱いを定式化している.その方法は,ともに熱平衡状態にある二つの系を接触させた後,密度行列に対する力学的なフォンノイマン方程式に従って合成系を時間発展させ,一方の系の全自由エネルギーの時間的な変化とそのエネルギー重心の時間変化を調べるものである.次に,この手法を1次元タイトバインディングモデルに適用し,(i)自由フェルミオン,ボゾン系に対するエネルギー伝搬の解析的な表式,(ii)ランダムネスの効果,(iii)準周期的なモデルでの伝搬,について議論している.その結果,(a)並進対称性のあるモデルおよび準周期モデルではエネルギーの伝搬は二つの系の温度差が有限である限りバリスティックであること,(b)ランダムネスのある系ではランダムネスの特徴的な大きさが温度差程度になるまではバリスティックであり,それを越えるとエネルギーの伝搬が生じないことが数値的に観測され,ランダムネスの程度によるある種の転移が見られること,を示している.また,数値計算を行った系が有限系であることの効果の考察,伝搬速度の温度依存性,化学ポテンシャルの効果などについての考察も行っている.

 第2章の後半では,系に熱浴を取り付け,熱浴の自由度を消去して得られるリウビル方程式を解いて時間発展を記述する従来の方法と,本研究で得られた結果の比較を行っている.まず,系の端に熱浴を取り付け,その自由度を第2ボルン近似で消去した場合の結果について議論している.その結果,等エネルギーモード結合のみを残す近似では,エネルギー伝搬の局所性を記述できず,物理的に正しくない結論を与えること,多モード結合を考慮する近似をとると,物理的に妥当な結果が得られ,本研究の結果とよく一致することを示している.次に,ふたつの系を温度のことなる熱浴と結合させ,等エネルギーモード結合と多モード結合のふたつの近似に対してエネルギーの伝搬を議論し,輸送現象などのように局所性が重要になる現象に対しては,多モード結合の近似を取る必要があることを結論している.

 第3章では,可積分系と非可積分系における熱的な擾乱の影響の相違いを再帰現象によって議論している.対象としては,相互作用のあるスピンレスフェルミオン系と(ランダムネスや長距離相互作用を導入し可積分性を壊せるようにした)ハイゼンベルグスピン系をとっている.その結果,最大振幅を持つ再帰現象の時定数のシステムサイズ依存性を調べると,強磁性スピン系の場合には,可積分系では系のサイズとともに線形に再帰時間が増大するが,非可積分系では指数関数的に増大することを示している.しかしながら,反強磁性スピン系では非可積分系でのこの指数間数的な増大は考察したシステムサイズの範囲では見られていない.この結果を,考察するためにルードヴィッヒノルム(2つの状態の間の「距離」を定義するもの)を可積分系,非可積分系のそれぞれに対して計算し,その比較を試み,熱的な擾乱の影響はこの程度のシステム(12サイト)では,可積分性よりも基底状態の縮重度やギャップの有無が大きく影響する可能性が高いことを議論している.

 第4章は以上の結果を簡潔にまとめ,今後の展望について述べている.

 以上を要約すると,本研究では,強い非平衡・非定常状態での熱エネルギーの伝搬を第1原理的な力学的な発展方程式として記述し,ランダムネスの影響,従来の近似の妥当性,可積分性の有無の効果について解析している.特に,有限温度では,ランダムネスの大きさをパラメータとしてある点で伝搬-局在の転移が見られることを数値的に見い出している.また,従来の熱浴を取り付ける方法と比較し,単純な等モード結合では輸送現象は正しく記述できないこと,多モード結合近似を採用することによって妥当な結論を導けることを示している.さらに,可積分系と非可積分系における熱的な擾乱の影響を議論し,強磁性スピン系での再帰現象の違いを見い出している.このことから,1次元のタイトバインドモデルという簡単化されたモデルで示されたことではあるけれども,短時間にわたる現象ではこのような力学的な方程式に基づく方法が有用であることを提案している.本研究で得られた知見は,応用上たいへん基本的かつ重要な輸送現象に対して新しいアプローチの可能性を与えるものであり,物理工学の基礎,特に非平衡・非定常現象論に対する貢献が大きい.よって,本論文は,博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる.

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