学位論文要旨



No 113423
著者(漢字) 渡辺,正峰
著者(英字)
著者(カナ) ワタナベ,マサタカ
標題(和) 脳の機能的結合に関する研究 : テンポラルコーディングにおける動的ニューロン間相互作用
標題(洋) A Study on Functional Connectivity of the Brain : Dynamic Neuronal Interactions in Temporal Pulse Coding
報告番号 113423
報告番号 甲13423
学位授与日 1998.03.30
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第4141号
研究科 工学系研究科
専攻 システム量子工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 近藤,駿介
 東京大学 教授 中沢,正治
 東京大学 教授 大橋,弘忠
 東京大学 助教授 合原,一幸
 東京大学 助教授 古田,一雄
 東京大学 助教授 越塚,誠一
内容要旨

 近年,脳に関する基礎研究が実験と理論の両面から盛んに行われているが,脳の中で何が情報のキャリアとなっているかという基本的かつ重要な問いに対して,未だ明確な答えが得られていないのが実情である.現在,大きく分けて二つの仮説が存在し,一方がニューロンの発火頻度を情報のキャリアとする発火率コーディング仮説,もう一方が一つ一つの発火パルスが情報を符号化しているとするテンポラルコーディング仮説である.抹消神経系などで刺激の強度と発火頻度の間にある種の比例関係が確認されていることから,これまで発火率コーディング仮説が広く支持され,実験結果の解釈や理論の構築などもそれを基に行われることが多かった.しかし最近になって,発火率コーディングでは説明することのできない現象が脳の中で発見されるようになり,テンポラルコーディング仮説が注目を集めるようになった.

 このような背景で我々の研究グループは,テンポラルコーディングの枠組みの中で"機能的結合"によって結ばれたニューロンが情報を表現しているとする「ダイナミカルセルアセンブリ仮説」を提案している.ここで簡単に機能的結合について,発火率コーディングと対比させながら説明する.まず発火率コーディングでは,ニューロンは入力パルスの時間的な重ね合わせを行い,パルスが到達したタイミングに依存せずいつでも同じ効果をニューロンにもたらすため,ニューロン相互作用はシナプス結合強度に固定された静的なものとなる.一方テンポラルコーディングでは,ニューロンの内部状態の時間減衰が速く,パルスのニューロンへ与える効果は他のパルスとの到着タイミングによって異なるため,ネットワークのダイナミクスに応じてニューロン間相互作用が動的に変化する.このテンポラルコーディングに特有の動的な結合が機能的結合である.

図1:発火率コーディングではニューロンは時間積分器として働きニューロン間相互作用はシナプス結合のみに依存し静的.テンポラルコーディングにおけるニューロンはcoincidence detectorとして働き,ニューロン間相互作用はネットワークダイナミクスにも依存し動的:"機能的結合"

 本研究は機能的結合を実現する理論モデルを提案し,脳におけるテンポラルコーディングの可能性を探索するものである.ここでは,モデル化している対象や簡単化の度合いの異なる3つの理論モデルについて説明し,様々な角度から機能的結合の特性について見ていく.

相互結合型ランダムディレイモデル:

 まず第一のモデルは,脳の局所部分をモデル化したものであり,次式に示されるように単層で全てのニューロンが互いに結合する相互結合型モデルである.

 

 

 

 

 

 ここでa(t)は時刻tにおける内部状態,は減衰時定数,tpはニューロンがパルスを受けとる時間,Sはパルスによる内部状態の増分,(t)およびgはグローバルフィードバックの大きさとその時定数である.またNはニューロン数,ijおよびdijはそれぞれニューロンjからニューロンiへのシナプス結合強度およびパルス伝達時間である.

図2:パターン入力とプログラム入力を持つ全結合ランダムディレイネットワーク

 本モデルの特徴は,先に述べた機能的結合のみを抽出するために,シナプス結合強度ijを全て一定としている点である.通常の発火率コーディングの枠組みでは,全てのニューロンが発火するただ一つの記憶パターンが埋め込まれたことに相当する.しかし本モデルでは,正規分布に従ってランダムに決められたパルス伝搬ディレイdijによって,ネットワーク中の一部のニューロンに与えられる外部入力パルス列の時間パターンに応じて機能的結合が動的に切り替わり,様々な時空間出力パターンが得られる.このモデルより二つの興味深い結果を得ている.一つは,一部のニューロンへの外部パルス入力を,ノイマン型コンピュータで言うところのソフトウェアとみなし,さらにデータ入力としてネットワーク全体への空間的な抑制パターンを与えることによって,全く同一のハードウェアであるネットワークによって複数のタスクをこなすというものである.従来の発火率コーディングを基調としたモデルでは,ニューロン間相互作用がシナプス結合のみの関数であるため,同一のパターン入力に対しては,いつでも同じ出力になり,機能はハードウェアに固定されてしまっている.近年,実際の脳の中にも文脈に応じて異なる処理をする部位の存在が言われており,本モデルは機能的結合によってそのメカニズムの一つを示唆していると考えられる.

図3:二つのプログラム入力によるパターン分類の変化

 第2の結果は本モデルにおいて"パルス世代"を定義することによって得られた.パルス世代とは,外部入力より始まる機能的結合の連鎖の長さを表す特徴量であり,この値が有限のときにはネットワークの時空間出力は周期的となり,無限となるときにはカオス的となることが示されている(図4).さらに先のソフトウェア入力を与えた結果についても,パルス世代が長いほどネットワークへ複雑な文脈情報を与えたことに相当し,データ入力のより細かい分類が可能となった.

図4:左図:有効パルスとパルス世代の定義.右図:閾値の変化によるニューロン発火間隔の変化と最大パルス世代
差分型テンポラルコーディングモデル:

 本モデルは前モデルで得られたテンポラルコーディングモデルのダイナミクスについてより深い理解を得るために、幾つかの仮定を置いて簡単化を行い,数学的な解析を可能にしたものである。初めのモデルと同様,シナプス結合強度は一定とし,パルス伝搬ディレイをランダムに定めている.まず第一の仮定は,伝搬ディレイの分散を小さくすることにより,前のニューロンの発火に起因するパルス列が時間的に広がらないようにして,いつでも次の段階で最小ディレイより短い時間間隔の中で発火するようにしたことである.これによりパルスは時間的にまとまってニューロンに到着することになる.ここではこれを"パルス集団"と呼ぶ.また,第2の仮定としては,これらのパルス集団の中で発火できるニューロンの数を固定して,受け取ったパルス間隔IPI(incident pulse interval)が小さいものからnf個だけ発火できるものとした.以上の仮定によりネットワークのダイナミクスをk番目のパルス集団における発火状態からからk+1番目のパルス集団の発火状態へと差分方程式として書き下すことが可能となる.簡単のため,一つのパルス集団の中で発火するニューロンの数をnfとすると次のような差分方程式となる.

 

 

 

 ここで△tf(k)はk番目のパルス集団の中のニューロン発火の相対時間差,(i,k)(i=1,…,nf)はk番目のパルス集団の中でi番目に発火したニューロンのインデックス,dijはプレニューロンiからポストニューロンjへのパルスの伝搬ディレイである.またaおよびはニューロンのパルスを受け取ってからの発火遅れを特徴づけるパラメータであり,特にaはネットワークダイナミクスに多大な影響を与える重要なパラメータである.またダイナミクスが離散的に1階の差分方程式で与えられるため、ネットワーク状態S(k)をニューロン発火の相対時間△tfおよび発火した二つのニューロンのインデックス(1,k),(2,k)を用いてスカラー量で表すことができる.

 

 

図5:2次元リターンマップとラスター図:周期的挙動a=0.5とカオス的挙動

 以上よりネットワークダイナミクスを2次元のリターンマップとして表現することが可能となる.次にこのモデルによって得られた結果を紹介する.図5はパラメータaによるニューロンの時空間発火パターンの変化を表している.aは式(7)を見て分かるように区分非線型なリターンマップの平均傾きを与えるのでaが小さいときには周期的な挙動,大きいときにはカオス的な挙動が出現する.

 次の図6はパラメータaを連続的に変化させたときのネットワーク状態の分岐図およびリヤプノフ指数を示したものである.

 

 ここでは確かにaが増加するにつれ、ネットワークダイナミクスが周期的からカオス的な挙動へと変化し,それとともにリヤプノフ指数も負から正へと転じている様子が観察できる.

図6:ネットワークの状態分岐図とリヤプノフ指数
脳の結び付け問題に関するモデル:

 第3のモデルは前の二つとは異なり,よりグローバルな視点に立ったモデルとなっている.脳における視覚系の情報処理をモデル化しており,網膜からの入力を受け取る低次領野と二つの高次領野によって構成されている.

図7:双方向性結合における発火率コーディングにおける信号の干渉と機能的結合によるその抑制

 本モデルの目的は機能的結合を用いて「脳の結び付け問題」を解くことである.ここでまず結び付け問題について簡単に説明する.脳が並列的に情報を処理していることは実験的に確かめられており,視覚を例にとれば,網膜から入った信号はまずV1野と呼ばれる低次領野に送られた後に「形」,「色」、「動き」といった視覚的特徴により別の径路を辿って異なる高次領野にて処理される.このように分解された視覚特徴を,一つの対象物として認識するために如何にして再統合しているのかというのが結び付け問題である.川人らは解剖学的にその存在が否定されている高次側の統合マップの代わりに,V1野などの低次領野を介して結び付けが行われているという「双方向性理論」を提案している.この双方性理論に対して我々は,図7に示される問題点を指摘している。それは,高次になって特徴抽出度が上昇するに従って空間分解能が低くなることにより,シナプス結合のみに依存した静的なニューロン間相互作用では,双方向の結合によって信号の干渉を起こしてしまうという点である.我々の提案は発火率コーディングの枠組みで生じるこの問題点をテンポラルコーディングによる機能的結合によって解決しようというものである.これはV1などの低次領野を介して高次領野にまたがるグローバルなダイナミカルセルアセンブリによって対象物がコーディングされているという主張である.

 本モデルのシミュレーションにより,機能的結合によって双方向結合時の信号の干渉を取り除くことが可能であることが示された.図8は見ている対象物の特徴Yが変化していくときのニューロンの同期の様子を示すものである.◇は二つのニューロンが同期して発火することの多かった点を示している.つまり時間を追うにつれ,特徴に合わせてアセンブリを構成するニューロンは変化するが,時間情報によってグローバルダイナミカルセルアセンブリは保たれている.

図8:3次元JPSTH:特徴が変化していく対象を同一のものとして認識し続けるグローバルダイナミカルセルアセンブリ
まとめ:

 以上簡単ではあるが,脳の機能的結合に関するモデルとそのシミュレーション結果を3つ紹介した.まず初めのモデルによって,シナプス結合に固定されない動的な機能的結合によりニューラルネットワークにおいてソフトウェアとハードウェアの分離が可能であることを示した.次に第2のモデルでは,より大胆な簡単化を行うことによって、テンポラルコーディングニューラルネットワークの基本ダイナミクスを数学的に解明することができた.また第3のグローバルなモデルによって,機能的結合が脳の結び付け問題を解く鍵になり得ることを示した.今後,機能的結合をキーワードに脳の理解がより一層深まることが期待される.

審査要旨

 近年、脳に関する基礎研究が精力的に進められているが、高等動物を用いる生理学的実験の困難さもあって、脳における情報伝達機構は何かという最も基本的かつ重要な問いに対してもなお明確な回答が得られていない。"A Study on Functional Connectivity of the Brain:Dynamic Neuronal Interactions in Temporal Pulse Coding"と題する本論文は英文で書かれたものであるが、この情報キャリアをニューロンの発火頻度に求める従来の発火率コーディング仮説に対して、様々なニューロンからのパルス入力が時間的に重なったときにニューロンが発火するテンポラルコーディングネットワークに生じるニューロン間のダイナミックな結合である機能的結合が情報処理に関与しているとするダイナミカルセルアセンブリ仮説に基づき、脳におけるテンポラルコーディングに基づく情報処理の蓋然性を巧妙なモデリングとシミュレーションを用いて探索しているものである。

 第1章は序論で、本研究の対象とする中心概念である機能的結合を発火率コーディングにおける静的なニューロン間相互作用と対比させながら紹介している。

 第2章は、すべてのニューロンがランダムなパルス伝搬遅れを有するが一定のシナプス強度で結合している単層相互結合型テンポラルコーディングニューラルネットワークについて、1)一部のニューロンに与える外部入力パルス列の時間パターンに応じて機能的結合が動的に切り替わり、様々な時空間パターンの出力が得られること、2)外部入力パルス列が異なると、このネットワーク全体に対する空間的抑制パターンに対する応答プログラムが異なること、3)このネットワークの出力は機能的結合の連鎖の長さを特徴づけるパルス世代が有限であれば周期的であるのに対して、これが無限になるとカオス的になること、を見い出している。

 さらに平均的な機能的結合強度を定義して調査した結果、ネットワークが周期的な挙動を示すときは機能的結合関係にあるニューロンの空間分布が鋭いピークを持つのに対して、カオス的挙動を示すときには全てのニューロンが互いに弱い機能的結合によって結ばれていること、ニューロン閾値が下がって発火連鎖が長くなるにつれ、機能的結合の分布が連続的に複雑になるという結果を得て、機能的結合がネットワークのダイナミックスに依存することが明確に示されたとしている。

 第3章は第2章で導入したモデルの伝搬遅れの分散を小さくしてパルスを集団として取り扱えるようにし、さらにこの集団で発火できるニューロン数を受け取るパルス間隔が小さい有限個に限定することによりパルス集団の発火状態に関する差分方程式を導き、このようにして簡単化されたネットワークのダイナミックスを2次元リターンマップとして表現して、このテンポラルコーディングニューラルネットワークの基本的なダイナミックスの解析を可能にしている。そして、特にニューロンの発火遅れパラメータに注目し、このパラメータの増加によってリヤプノフ指数が負から正へと転じ、挙動が周期的→複雑→カオスへと転じることを示し、またネットワークの状態の定義が可能であるという本モデルの特徴を用いて機能的結合がシナプス結合強度とダイナミックスの両方に依存することを数学的に証明している。

 第4章は脳の結びつけ問題に関して提案されている双方向理論における機能的結合の有用性を考察している。すなわち視覚系の情報処理モデルを双方向理論に基づき網膜からの入力を受け取る低次領野と二つの高次領野に対応するネットワークを用いて発火率コーディングにより組み立てると、低次領野は高い空間解像度を持ち高次領野は特徴抽出度が高いことから、複数の物体の空間的もしくは特徴的距離が小さいときにはこれらの物体を表現するニューラルアセンブリ間でニューロンの共有が起きて干渉が起きるが、テンポラルコーディングによる機能的結合を用いると時間情報を有効に活用できるのでこの干渉が抑制できることを、計算結果を用いて示している。

 第5章は結論で、機能的結合が高い自由度を持ち、それにより従来の発火率コーディングの枠組みでは不可能であるような情報処理が可能となることがいくつかの例を用いて示されたとし、さらに今後、機能的結合の自己組織化の問題、生理実験との対応の問題などが考究されるべきとしている。

 以上を要すれば、本論文は、脳の情報処理概念として提出された機能的結合を実現できるモデルとそれに基づくシミュレーションを通じてその有用性を示して微視的な面から人間の情報処理機構に関する理解を進めることに成功しており、より優れた人と機械の関係を追求するシステム量子工学の発展に寄与するところが少なくない。

 よって本論文は博士(工学)の学位論文として合格と認める。

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