X線光電子回折(XPED)は、固体表面に照射したX線によって内殻軌道から叩き出された光電子が周囲の原子により弾性散乱され干渉し合って生じる回折パターンを光電子強度の角度分布として観測する手法である。たとえば、エネルギーが一定なAl K特性X線をCaF2(111)表面に照射すると、Caの2p軌道にあった電子は約1140eVの運動エネルギーをもって放出される。この一定の運動エネルギーをもつ光電子のみを各方向で検出することでCa2pのXPEDパターンが得られる。 回折パターンは光電子の波数の関数として与えられるが、これから表面の原子構造を決定するのには二通りの方法がある。一つは、確からしい構造モデルの原子位置を少しずつ変化させた理論的な回折パターンを計算し、実測と比較して誤差の最も小さいモデルを最適構造とする試行錯誤的な方法である。もう一つは、回折パターンになんらかの数学的な操作を施してモデルを経ないで直接最適構造にたどり着く方法である。X線と異なり電子は固体との相互作用が大きく多重散乱が起こるので、試行錯誤的に理論計算を繰り返す方法は時間とお金(計算機の課金)がかかる。本研究では、XPEDによって試行錯誤的および直接的に表面・界面構造を決定する新しい方法を一つずつ考えた。 まず、原子レベルで制御された表面構造を作り真空中でそのままXPED測定ができる装置を製作し、次のような系をXPEDで研究した; (1)InP(100)硫黄処理面の吸着構造およびその上に成長させたCaF2エピタキシャル薄膜1、 (2)InP(100)基板とCaF2薄膜との間に埋もれた硫黄層の界面構造2、 (3)CaF2(111)清浄面3-6およびその酸化表面7、 (4)Ge(111)-c(2x8)清浄面とその上に成長させたSrF2エピタキシャル薄膜8. このように吸着系からエピタキシャル薄膜まで幅広くXPEDを測定できるようになると、それを解析するための理論計算が必要になる。そこで多重散乱の理論計算プログラムを作った。図1にGe(111)からのGe3d(Ek=1456eV)のXPEDパターンと一回散乱および多重散乱の計算結果8を示す。多重散乱を考慮すると実測をよく再現できることが分かる。このプログラムを使って、吸着原子と基板との距離および基板と薄膜の格子不整合によって引き起こされる格子歪みなどの決定をおこなった1。 図1.Ge(111)からのGe3dのXPEDパターン;(a)実験、(b)一回散乱理論(SSC)、(c)多重散乱理論(MSC)、(d)結晶軸と結晶面の位置。 しかし、そのような試行錯誤的な構造解析には時間がかかるので、スピードを上げるために低速電子線回折(LEED)で開発されたテンソル近似をXPEDの計算にも取り入れることにした。ある原子構造から一つの原子が0.1Åだけずれたとしても、多重散乱計算をやり直さなくてはならない。テンソル近似では、原子がずれても原子構造は不変で、その代わりにその原子の散乱ポテンシャルが変形すると考える。これは数学的には、変位の影響を衝突の遷移演算子の変化tに押し付けるということである。このtを摂動として扱って光電子がつくる波動場の変化を与えるのがテンソル近似である。この方法によると、いったんある構造に対して波動場を計算しておけば、原子の変位に対する摂動項をすばやく計算してもとの波動場に足すだけでよい。XPEDの波動場に対してもLEEDと同様の定式化ができることが分かったので、それに基づいて高速の構造解析プログラムを開発した。 図2.CaF2(111)からの(a)Ca2p、(b)FlsのXPEDパターン、(c)結晶面の位置。 一方、XPEDにおける直接法として菊池バンド解析による構造因子決定法を考案した4,6。この研究の動機は次のようなことである。図2にCaF2(111)からのCa2p(Ek=1140eV)とFls(Ek=801eV)のXPEDパターンを示す。表面から深いところから放出される光電子は結晶面でブラッグ反射されて菊池バンドを生じる。しかし、Ca2pのパターンでは(111)バンドがはっきり見えているのに対して、Flsのパターンではそれが完全に消滅している。この原因を考えるために、XPEDにおける菊池バンド形成の定式化をおこない、以下のことが分かった。 通常のブラッグ反射の消滅則は次のように与えられる; ここで左辺は構造因子であり、fjは単位格子内の原子の散乱振幅、hklは反射のミラー指数、xyzは単位格子内での原子の座標を表す。(111)反射の構造因子はゼロでないので、これではFlsの(111)バンドの異常消滅は説明できない。これ以外に、XPEDのような固体内の原子を点光源とする回折法のブラッグ反射では次のような消滅則が存在することが分かった; ここでは構造因子の位相角であり、xyzは光電子放出原子の座標である。単位格子中の非等価な光電子放出原子が全てこの式を満たすとき、菊池バンドは構造因子がゼロでなくても消滅する。Flsの(111)バンドの異常消滅はこの消滅則で説明できた5。またこれは蛍光X線のブラッグ反射で生じるコッセル線にもあてはまるきわめて一般的なルールである。 さらに、菊池バンドの強度はcosに比例し、かつ極大位置とブラッグ角との差は構造因子の振幅に比例することが分かった6。したがって菊池バンドから構造因子の振幅と位相をともに決定することができる。 膜厚が小さくなると菊池バンドは弱くなっていきやがて見えなくなるが、弱い菊池バンドも薄膜のドメインの大きさを見積もるのに利用することができる。菊池バンドはブラッグ反射に由来し、系の長距離秩序を反映するからである。Ge(111)上にSrF2を0.9及び2.0原子層相当蒸着した薄膜のXPEDパターンを解析すると、どちらも平均膜厚は約二原子層であり、SrF2は二原子層を単位として島状成長することが分かった。にもかかわらず二つ蒸着量でのパターンは大きく異なる。0.9原子層蒸着のとき、パターンは結晶軸の方向に生じる前方散乱ピークと散漫なバックグランドのみから成るが、2.0原子層蒸着では(110)面に沿った弱い菊池バンドが見える。この理由は、蒸着量0.9原子層相当のときは個々のSrF2のアイランドが占める面積は小さくその中ではブラック反射が起こらないが、蒸着量の増加とともに小さいアイランドが集まって比較的大きなドメインを形成し、そのドメイン内で光電子の(弱い)ブラッグ反射が起こるからである。ドメインの大きさを変化させた理論計算から、0.9原子層の蒸着ではドメインの大きさは半径約5Åで、それが凝集して最終的には15Å以上になることが分かった8。 まとめると、本研究ではXPEDによる表面・界面構造決定のために新しいXPED測定システムを製作し、原子レベルで制御されたエピタキシャル薄膜および界面系のXPEDを測定した。理論的には、多重散乱の計算プログラムを作成し、実験データの解析に有効に用いた。さらに、新しい構造解析法として、テンソル近似による高速な試行錯誤法と菊池バンドを利用した直接法とを考案し、後者については実験的に検証した。これらの方法は表面・界面構造決定の新しい手段を与えるものである。 発表論文 1S.Omori,H.Ishii and Y.Nihei,Surf.Sci.,381,165-173(1997). 2S.Omori,H.Ishii and Y.Nihei,Appl.Surf.Sci.,121/122,241-244(1997). 3U.Bardi,M.Torrini,Y.Ichinohe,S.Omori,H.Ishii,M.Owari and Y.Nihei,Surf.Sci.,in press. 4S.Omori,H.Ishii and Y.Nihei,J.Electron Spectrosc.Relat.Phenom.,in press. 5S.Omori,H.Ishii and Y.Nihei,Jpn.J.Appl.Phys.,36,L1689-L1691(1997). 6S.Omori,H.Ishii and Y.Nihei,in preparation. 7H.Ishii,S.Tanigawa,S.Shiraki,T.Nakama,S.Omori,H.Shimada,M.Imamura,N.Matsubayashi,A.Nishijima and Y.Nihei,J.Electron Spectrosc.Relat.Phenom.,in press. 8S.Omori,H.Ishii and Y.Nihei,Appl.Surf.Sci.,in press. |