本論文は、様々な応用可能性のある、前期遷移金属及び化合物と過酸化水素との反応で生成する金属酸化物分子について、今までほとんど解明されていなかった、この物質の構造及び生成するまでに経由する化学種、起きている反応についての検討を行った研究であり、プロトン伝導機能との関連についても述べている。 第一章は序論であり、本研究の背景を詳述するとともに、研究の意義について、応用面からばかりでなく、無機化学の基礎面からも述べ、研究の目的を明らかにしている。また、関連して知っておくべき事項として、出発物質の遷移金属化合物、遷移金属ペルオキソ錯体、及び遷移金属多核酸化物分子、いわゆる「ポリ酸」についても概説した。 第二章では、前期遷移金属及びその化合物と過酸化水素とが反応して生成する化学種について述べた。 第1節では、この反応中の溶液の状態についての観察を行った。この反応のpHの経時変化を測定した結果、pHは過酸化水素添加直後に急激に低下し、pH<0の強酸性になった後激しい酸素の発生が起こり、金属の溶解が進行した。 第2節では、反応で生成した、タングステン、モリブデンなどの金属原子化学種の挙動について検討を行った。最初に、タングステン系について検討した。タングステン及び炭化物、窒化物の溶液の183W NMRスペクトルを測定した。いずれの場合も、タングステン1原子当たりに配位するペルオキソ基(以下、O-O/W)が2個の単核及び2核錯体、[WO2(O2)2]2-/[WO2(O2)2]2-H+、[W2O3(O2)4(H2O)2]2-が観測された。また、タングステン及びモリブデンペルオキソ錯体についてO-O/M(M=W,Mo)と化学シフトとの比例関係が成立することを示し、これより金属及び炭化タングステンの場合、O-O/W=1の、単核及び2核錯体の生成を推定した。多核酸化物分子に帰属されるシグナルは観測されなかった。 ラマンスペクトルも測定した。いずれの場合も、W-O-W伸縮振動に帰属される吸収は観測されなかった。従ってこの溶液中のタングステン化学種は、単核または対称性の高い2核錯体のみであることが示唆される。この結果は、NMRで行った化学種の解釈を支持する。 モリブデン及びその炭化物、窒化物と過酸化水素との反応についても、溶液の95Mo NMRより、生成したモリブデン化学種はペルオキソ2核錯体であった。これらの結果より、タングステン、モリブデン及びそれらの化合物と過酸化水素との反応で生成する化学種は、いずれの場合も、2核または単核のペルオキソ錯体であることが示された。この段階では、多核酸化物分子は生成していない。これらの化学種の構造や存在比は、pHには依存するが、原料物質の結晶構造には依存しない。 また、W化学種のpH、[W]及び[H2O2]依存性についても検討した。pHが低くなるにつれ、O-O/W=2の2核錯体が、加水分解を受け単核錯体になったり、ペルオキソ基がprotonationを受けO-O/W=1になったりする傾向が確認された。しかし、この反応は、単純な式で表される平衡では説明はできなかった。 第3節では、炭素、窒素などの非金属原子化学種の挙動について述べた。 炭化タングステンと過酸化水素との反応開始1時間後の溶液の13C NMRより、溶液中の炭素化学種はシュウ酸のみであった。この反応で発生した気体の分析より、気相の炭素化学種は、CO、CO2のみであり、CH4、C2H6などの炭素の還元された化学種は生成しないことがわかった。また、気相にO2が多量に検出されたことより、この反応は炭化タングステンの反応とH2O2の分解が並行して起きていることが示唆された。 窒化タングステン及び窒化モリブデンと過酸化水素との反応後の溶液の14N NMRより、どちらの場合もNH4+とNO3-の両方が生成していることがわかった。過酸化水素は強力な酸化剤にもかかわらず、窒素が最低酸化数をとる化学種が生成している。 これらの結果より、炭素は酸化反応のみが起こるのに対し、窒素は酸化反応と加水分解反応の両方が起こることが示された。この反応性の違いの要因の一つに、金属-非金属原子間の結合のイオン性の違いが考えられる。タングステン及びその炭化物、窒化物のXPSデータの文献値によると、WCのW-C結合は比較的イオン性が低いのに対し、WxNのW-N結合はイオン性が高い。この反応ではH-が生成するが、WxNの場合は、Nの塩基性が高いため、H+が結合しやすく、N-H結合が生成するのに対し、WCのCの塩基性は高くないので、H+との反応は進行しないと考えられる。 第三章では、溶液中の過酸化水素の分解による化学種の変化及び得られた固体の性質について述べた。 反応溶液中の過酸化水素を白金網で分解した溶液の183W NMRは、過酸化水素の分解前に見られたシグナルは見られず、過酸化水素の分解によって化学種は変化していることを示す。このNMRは既知の化学種とも一致しなかった。これらの溶液のRamanスペクトルは、W、WCの場合、W-O-W伸縮振動に帰属される吸収が観測され、化学種にW-O-W結合、すなわちWが重合した多核酸化物分子クラスターが生成していることを示唆している。 溶液を蒸発固化して得られた固体の性質は以下のように検討された。この固体や、固体の水溶液にK+、Cs+、Ba2+などを入れて得られた沈殿はいずれも非晶質であった。この固体のTOF massスペクトルでは、タングステン6核、12核に相当する分子量のシグナルが観測された。W、WCから得た固体は、再び水に溶かした溶液の183W NMRが固化前の溶液と同じであり、また、固化前の溶液と固体のRamanも類似している。これより、溶液中と固体の構造の類似性が明らかになった。また、固体を再び15%過酸化水素水に溶かした溶液の183W NMRより、化学種の構造は過酸化水素濃度に対して可逆的であることが示された。 過酸化水素分解後の化学種の構造は、溶液のpHに依存する。NMR、TOF massの結果などより、強酸性溶液のタングステン、炭化タングステン系の場合、以下のように推定された。溶液中の過酸化水素濃度の低下につれてこれらの化学種は、より平均のO22-/Wの小さいペルオキソ錯体、例えば[W3O7(O2)2(OH)]-のような3核錯体や、これが脱水縮合して2量化した6核錯体になる。蒸発固化の段階では6核錯体がさらに2量化し、12核の化学種も生成することが推定された。この12核化学種について、新規なモデルを提出し、過去に提出されたモデルと比べ、本モデルのほうがNMR、TOF massの結果との整合性がより高いことを示した。また、この金属酸化物分子アニオンのカチオンとの相互配列、いわゆる二次構造については、例えば、各ポリアニオン(多核金属酸化物分子)間を、水分子またはオキソニウムイオンが、水素結合などで緩やかにつないでいるモデルが考えられる。 モリブデン系の場合、過酸化水素分解後の溶液の95Mo NMR、Ramanより、やはり単核、2核錯体はなくなっている。非金属原子は、炭素化学種、窒素化学種とも、過酸化水素の分解による変化は見られなかった。 第四章では、上述の手法で得られた酸化物分子薄膜のプロトン導電性について検討した。 上記で得られた試料はアモルファスであり、回転塗布することにより薄膜化が可能である。複素インピーダンスプロットは、タングステン及びその化合物から得られた薄膜のいずれも、低周波数側にtan =1の直線領域が見られた。これからこれらの試料はすべてプロトン導電性を示すことがわかった。導電率は25℃、湿度40%でいずれも約10-2〜10-4S cm-1のオーダーで、比較的高い導電性を示す。WC、WxNから得た固体は、80℃で熱処理することにより、導電率こそ低下するものの、熱処理前の薄膜と異なり、乾燥雰囲気での導電率の低下も小さく、導電体の安定性は向上した。これは、IRのW=OとW-O-Wの強度の比較より、C2O42-配位子や、NH4+、NO3-イオンにより、この酸化物分子の熱による重合が妨げられるためと推定される。 また、材料への応用として、以下のような特徴が考えられる。第一に、出発物質が金属タングステンであり、アルカリ金属が入らないこと、物質収支の見積もりに有利であること、が考えられる。第二に、本実験で得られた固体は、溶液の構造との連続性が高く、構造の自由度が大きい。結晶性の固体よりは、はるかにH+の運動性は高いことが期待される。溶液は強酸性なので、H+の電離度も高く、Carrierも多いと考えられる。また、溶液の濃度も自由に変えられるので、スピンコート法での薄膜化も容易である。第三に、この系は、シュウ酸、マロン酸など、外部からの物質添加が容易であり、物質添加による性質の向上も見込まれやすいことも特徴である。前述のように、より酸性度の強い配位子を導入すれば、よりプロトン導電性の高い物質が得られる可能性がある。また、シュウ酸配位子などは、熱重合の進行を抑える働きもあることが示された。 第五章は総括であり、本研究で得られた結果からの総合的な知見について記述した。 |