学位論文要旨



No 113446
著者(漢字) 吉久,寛
著者(英字)
著者(カナ) ヨシヒサ,ヒロシ
標題(和) 非線形振動現象の解析及び応用に関する研究
標題(洋)
報告番号 113446
報告番号 甲13446
学位授与日 1998.03.30
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第4164号
研究科 工学系研究科
専攻 応用化学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 合志,陽一
 東京大学 教授 澤田,嗣郎
 東京大学 教授 安井,至
 東京大学 教授 橋本,和仁
 東京大学 講師 宮村,一夫
内容要旨 <目的>

 非線形・非平衡な化学反応を解析することにより、同様に非線形・非平衡現象である生体現象などを人工系に於いて再現する試みがなされている。界面活性剤を含む3相液膜系(図1)は、自発的に非線形電位パルス振動を発生する。その応答特性が生体の神経・感覚系に類似することに注目し、この液膜系を応用し、生体情報を数値化する「人工神経」を構築することを目的とする。

 具体的には、(1)現象の再現性・安定性の向上、得られる情報の質的向上。(2)振動発生機構の解析。(3)生体関連情報など新しい化学情報を分析する、いわゆる「人工神経」への応用。の3点を目標として研究を進める。

<実験系>

 図1のように、セチルトリメチルアンモニウム(CTA)ブロマイド(界面活性剤)及びアルコール水溶液-ピクリン酸ニトロベンゼン溶液-グルコース水溶液の3相系を形成させ、各相の電位を測定する。装置中のチューブを有機相中深く挿入すると界面間距離が大きく振動は観測されないが、浅くすると界面間距離が小さくなり振動が開始される。この簡素化により、従来のU字管の固定構造より導液が容易になり、現象の再現性の向上をみた。

図1:装置図W1:CTAB(surfactant)and alcohol aq.sol.W2:glucose aq.sol.NB:picric acid nitrobenzene sol.V:potentiometer E:Pt electrode
<結果及び考察>界面形状への依存性・振動モード:

 目視では、振動が界面の外縁から始まるように見える。従って外縁に接する装置の材質が振動に影響する可能性を考え、材質を変更してみた。従来の硝子(親水性で、界面が曲がる)とテフロン(界面は真っ直ぐ)で比較すると、振動の安定性が大きく変化し、振動の持続時間が、硝子の40分程度から、テフロンでは4時間程度と著しく延伸・安定化した(図2)。このことから、界面の外縁部が振動の発生に重要な役割を果たしていることを明らかにした。以降の測定は安定性の高いテフロンの装置で行う。

 テフロンでの安定化により、従来見いだされなかった異なる種類の振動を観測した。振動開始当初(第1期と呼ぶ)は鋭いパルス、40分後以降(第2期と呼ぶ)は鋸様のジグザグ振動、の2つに大別される振動モードが観測される(図3)。第1期から第2期への変化は連続的に起こり、第1期パルスが衰退→第2期ジグザグ振動が出現→第2期ジグザグ振動は大きく成長、の順で進行する。従って、振幅の時間変化には、モードの境界点としての分岐が出現する(図4)。

図2:材質による振動の変化(a)ガラス、(b)テフロン図3:観測される振動モード(a)第1期、(b)第2期図4:振幅の時間変化(矢印は分岐の位置)

 振動の発生に界面の外縁部が影響することから、界面の形状によって振動の発生を制御することが出来ると考え、さまざまに界面形状の異なる系で測定を試みた。

 界面を縮小したり、界面に特異点を設ける(境界材質に傷を付ける)と、周波数が大きく振幅の小さい振動が観測される。とりわけ、特異点を設けた系に於いては、24時間(通常の場合の6倍)以上に亘り安定して持続することが判った(図5)。

図5:界面に特異点がある場合の振動
現象の化学状態依存性:

 この系ではモード毎にH+の移動が変化し、第1期にはW2相(試料相)に、第2期にはW1相(界面活性剤相)にH+が流入すること、また、W2相を撤去したW1/NBの2相系で測定を試みたが、振動は起こらず、W1へのH+の移動が遅くなることが同じ研究室の須藤の研究により判っている。

 即ち、W2相は水素イオンの解離を制御すると考えられる。そこで、W2相のpHを変えてみると、pHにより各モードの発現しやすさが変化し、モード分岐の位置はpHに依存して変化する(図6)ことが判った。従って分岐の位置はpH情報を与えることが明らかになった。pH以外にも全く新しい手法としてこの分岐を指標とした試料情報の数値化が可能であると考えている。

図6:分岐(振幅の時間変化)のpH依存性
現象のシミュレーション:

 以上の結果より、H+の界面間移動が振動を制御することが確認された。そこで、イオンチャンネルと同様に、界面部分へのイオンの脱着がH+の移動を制御し振動を引き起こすという振動機構を提案し、コンピュータでシミュレートした。予想したW1/NB界面の振動機構は以下の通り。

 (1)界面にCTAが吸着し吸着相を形成。H+の移動は極小に、従ってW1相の電位低下。

 (2)そこでH+が移動しやすくなり、NB相の電位が下降し、CTAの吸着相からの拡散が促進。CTA吸着相が弱まり、H+の移動は最大に、結果、W1電位は最高に到達。

 (3)電位の上昇によりH+は移動しにくくなり、また破損した吸着相を補充するべく、CTAの界面への流入が開始。

 (4)結果、水相電位は低下、元に戻る。

 以上(1)-(4)を繰りかえすというものである。

 この機構に従うよう、物質移動方程式を立てて計算を行ったところ、条件によって電位が振動する場合が見いだされた(図7)。この計算では、界面が破損する限界値(閾値)を仮定しておらず、膜電位とイオン量のみにより自発的な振動が生成できることが判った。この機構は神経膜応答の場合によく類似している。

 また、各相のpH変化測定によると、NB相のピクリン酸の解離は、第1期にはW2相、第2期はW1で起こっているが、CTAの界面吸着が物質移動を妨害すると考えて計算を行ったところ、実験結果によく似た結果を得た(図8)。この機構で実験結果を説明できる。初期にはCTA吸着相の妨害のないW2相で、時間が経つと吸着相の妨害が緩和されたW1相で解離が起こると推測される。

図7:振動のシミュレート結果図8:水素イオン濃度のシミュレート結果
振動の伝達現象:

 振動発生の場であるW1/NB界面を複数設けることで、パルスの相互関与を測定した。結果、界面間でパルスが伝達することを観測した(図9)。

図9:電位パルスの伝達(矢印は伝達、*は伝わらず)

 ビデオ観察の結果及び、界面間距離を変えて行った測定結果から、物質の物理的な流れが振動を伝達させていることが判った。これは神経細胞間のアセチルコリンによる信号伝達に極めて類似している。今後、応用として生体の神経伝達を再現する「人工神経系」の構築が期待される。

審査要旨

 本論文は7章より構成されており、非線形非平衡現象の現象論的把握、機構解明の観点から、水-ニトロベンゼン-水3相液膜振動系の解析を行い、今後の応用に向けた検討がなされている。

 第1章は序論であり、非線形非平衡現象の基礎について述べている。部分の協同現象により全体が分子集合体として機能し、時間的・空間的な振動現象が観測されることが、生物系・化学反応系の例を挙げて概説され、また膜による非線形反応の研究について概説されている。

 第2章では、実験装置系について概説されている。従来の装置の問題点について検討され、本研究でチューブを使った実験系を採用した理由について述べられている。

 第3章では、振動現象の界面形状依存性について検討した結果が記述されている。界面の外縁を形成するチューブの材質によって約6倍もの安定性の向上が見いだされた。これはチューブのぬれやすさの変化による効果と考察されている。また、チューブ先端に特異点を設けて界面外縁部の形状を変更することにより、約5倍以上の安定性の向上が観測された。これらの界面外縁部の改良により、併せて従来と比較して約30倍以上もの大幅な安定性の向上に成功した。このことは現象と界面外縁部とが密接に関与していることを示しており、実際ビデオ観察から界面外縁部より振動が開始されることを明らかにしている。また安定性の向上は現象から得られる情報の質的向上をもたらし、複数の振動モードの存在など、新事実が発見された。モード変化は反応進行中に現象が突然変化することを意味しており、モード変化時に非線形反応に特有の分岐現象が観測された。

 第4章では、振動現象の溶液状態に対する依存性について検討されている。pH依存性測定により振動モード間の移行がpHに明確に依存することや、モード毎にpH変化の様子が異なることが見いだされている。この結果から水素イオンが振動を制御する機構を提案し、イオンの流れが振動モードを決定していることを結論している。

 第5章では、第3章・第4章の結果を受け、提案した機構の妥当性を検証することを目的として現象のコンピュータシミュレーションを行っている。実験結果から予想される振動機構を数式化し、計算により、電位・イオン濃度による振動の再現に成功している。この機構は神経系の興奮機構とよく類似しており、この系を神経系の人工モデルとして用いることが可能であると結論されている。また、この機構による各相のイオン濃度変化の計算により、振動モード間の変化を再現することに成功している。計算結果が実験結果を極めてよく再現することから、マクロな振動現象をミクロな物質移動により説明できることを結論している。

 第6章では、現象の界面間相互作用について検討されている。チューブを増やし系を多相化することにより、界面間に於いて神経伝達に似たパルス伝達が観測される全く新しい系の開発がなされた。界面間距離依存性の確認によって、この系に於いては、電気的な流れが化学情報に変換され、物質の流れとして界面間を伝達され、界面を刺激して再度電気的な流れに戻ることによって伝達されることが明らかになった。実際、外的な電気的刺激により、振動が起きない界面に於いても界面振動が観測された。これらの結果は、神経細胞間の情報伝達機構と全く同様であり、人工の神経系として神経伝達機構の解明に寄与することができると結論されている。

 第7章では、以上の内容が総括され、今後の展望について述べられている。

 以上述べた様に、本論文では液膜の化学振動反応に対して、特に振動発現機構についての詳細な検討がなされ、その過程で従来知られていなかった新現象の発見や、装置系の工夫により振動現象の安定性の飛躍的向上と、新しいパルス伝達系の開発に成功している。これらの成果は生体などで広く観測される非線形リズム現象の理解を深め、生物現象の利用に新しい途を拓く点で、生体関連化学及び、工業物理化学の分野での今後の発展に貢献するものであると認められる。

 よって本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。

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