学位論文要旨



No 113454
著者(漢字) 河村,敏行
著者(英字)
著者(カナ) カワムラ,トシユキ
標題(和) 気相スモークラジカルの発生挙動と機構に関する研究
標題(洋)
報告番号 113454
報告番号 甲13454
学位授与日 1998.03.30
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第4172号
研究科 工学系研究科
専攻 化学システム工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 田村,昌三
 東京大学 教授 越,光男
 東京大学 教授 澤田,嗣郎
 東京大学 助教授 新井,充
 東京大学 助教授 辰巳,敬
内容要旨

 火災の際に発生する有害生成物としては,一酸化炭素や窒素酸化物などが広く知られている.しかしながら,これらが致死濃度に達していないと考えられる火災の初期段階においても犠牲者が存在することから,新たな有害生成物として気相スモークラジカルの存在が指摘されるようになった.有機可燃物の燃焼スモークから検出される気相スモークラジカルは,その主成分が高反応性の酸素中心ラジカルであることから生体内に取り込まれるとラジカル反応を引き起こして生体に損傷を与える可能性が高いことが予測されている.実規模を想定した火災実験により気相スモークラジカルの生成が確認され,火災の初期段階において最高濃度に達することが報告されている.気相スモークラジカルは高反応性の酸素中心ラジカルであるにもかかわらず見かけ上長寿命の性質を持つ.このことを説明するために,燃焼スモーク中には準安定な中間体が存在し,それが分解することでラジカルを生成することが提案されている.また,準安定な中間体として,ジアルキルトリオキシドの可能性が指摘されている.可燃物試料としてポリマーを用いた一連の研究により,燃焼条件が気相スモークラジカルの生成挙動に影響を与えることが報告されている.

 しかしながら,気相スモークラジカルの生成機構は解明されておらず,また生体に与える影響に関する研究例もわずかである.そこで本論文では,気相スモークラジカルの生成機構および生体へ与える影響を明らかにすることを目的とする.

 可燃物試料としてポリマーを用いた一連の研究により,気相スモークラジカルの生成は燃焼条件に依存することが明らかとなっている.しかし,気相スモークラジカルの生成過程に対して燃焼条件が与える因子は明らかとなっておらず,また,気相スモークラジカルの生成を説明するものとして提案されているトリオキシドのような準安定な中間体の生成過程も不明である.そこで燃焼条件が生成物挙動に与える影響を検討し気相スモークラジカル生成挙動との関係を調べることで,生成機構に関する知見を得ようとした.その結果,可燃物試料として使用したポリプロピレン(PP)およびポリメタクリル酸メチル(PMMA)いずれの場合も燃焼生成物のうち,含酸素化合物との間に相関が認められることがわかった.図1から気相スモークラジカルが多く検出される条件では,含酸素化合物の生成量も増加していることがわかる.また,含酸素化合物の一つであるアセトンの燃焼スモークからは気相スモークラジカルの生成が確認された.これらのことから気相スモークラジカルの生成を説明するものとして提案されているトリオキシドのような準安定中間体は含酸素化合物の燃焼を経て生成するルートが示唆される.すなわち,アセトンの燃焼からは図2のような機構によって気相スモークラジカルが生成する可能性が考えられる.アセトンの燃焼スモーク中からはメトキシラジカルおよびメチルラジカルと考えられるラジカルが検出されており,この機構を支持する.

図1.気相スモークラジカルと含酸素化合物の関係.PPおよびPMMAの燃焼スモークから検出された結果を示してある.気相スモークラジカルはESRスピントラッピング法を,含酸素化合物はGCにより検出した.イタリック体の数字は燃焼条件を示す.カッコ内の左側の数字は炉温を,右側の数字は酸素濃度を示す.図2.アセトンの燃焼から推定される気相スモークラジカルの生成機構.

 次に加熱時間による気相スモークラジカルの生成プロファイルを得るため新たに密閉型の熱分解装置を作成した.PMMAの一次分解生成物であるメタクリル酸メチル(MMA)を試料として使用した結果,300℃では加熱初期に誘導期が見られ,最大値に到達したのちは一定濃度に保たれることがわかった.この条件では最も多く検出されるのは未反応のMMAであり,主分解生成物としてはn-ヘキサンが,また含酸素化合物としてはアセトンが検出され,アセトンの生成量がほぼ一定になったのち気相スモークラジカルが生成することがわかった.そこで,SENKINを用いた反応計算により熱分解反応から気相スモークラジカルの生成をシミュレートして生成機構を明らかにすることを試みた.しかしながら,MMAの熱分解機構は不明であるため生成量が一定であるアセトンに着目して,アセトンの熱分解反応モデルを作成した.計算は実験と同様に等体積条件下で行った.実験では反応初期に温度上昇が見られることから,計算では反応温度を実験値よりも高く設定した.結果を図3に示す.計算では過酢酸の生成量を求めているが,これは図2に示したように気相スモークラジカルの生成ルートとして過酢酸を経ることが予想されるからである.実験値と同様,誘導期を経て一定濃度になるプロファイルを示すことから,本モデルで気相スモークラジカルの生成をシミュレートできると考えられる.ただし,生成量には隔たりがあるため定性的な議論にとどまる.次に感度計算により過酢酸の生成に寄与する反応を調べた.ただし,過酢酸からの気相スモークラジカル生成は確認されていないため,気相スモークラジカル生成機構に関しては推定の範囲にある.反応時間内において重要な反応は図4に示すとおりである.アセトンからメチルラジカルが脱離して生成したアセチルラジカルが酸素と反応してアセチルペルオキシラジカルとなり,さらに水素引き抜きにより過酢酸となる.この過酢酸が図2に示した反応に従うことで気相スモークラジカルを生成すると考えられる.またアセトンの熱分解から生成するメタンの寄与も示されている.

図3.実験値と計算値の比較.実験値はMMAの熱分解によって発生する気相スモークラジカルの生成量を,同様に発生するアセトンの生成量に対する比で表した.計算はアセトンの熱分解反応モデルを作成して等体積条件下で行い,過酢酸の生成量を,アセトンの初期濃度に対する変換率で表した.図4.過酢酸の生成メカニズム.

 次に気相スモークラジカルの生体へ与える影響を明らかにするため,生体内で広範囲の代謝反応に関与する補酵素Aの活性部分であるシステアミン(2-アミノエタンチオール)をモデル化合物として選び,気相スモークとの反応性を検討した.図5に各種ポリマーの燃焼スモークによる結果を示す.本条件下(600℃,空気雰囲気)で得られる気相スモークラジカル量はPP,ポリエチレン(PE)<<PMMA<ポリエチレングリコール(PEG)となる.気相スモークラジカルが多く検出されている燃焼スモークほどシステアミンの急激な減少を引き起こすことがわかった.

図5.可燃物の燃焼スモークによるシステアミンの減少.各種ポリマーを炉温600℃で燃焼させ,発生した気相スモークの一部をシステアミン溶液に導入して37℃で反応させた.エルマン法によりシステアミンを定量している.controlsはスモークを導入しなかった場合.

 表1に抑制剤の効果を示す.抑制剤は特定の化学種を捕捉する機能を持つことから,気相スモークによるシステアミンの減少反応に対して効果を発揮する抑制剤が明らかとなれば,活性種に関する情報を得ることができる.その結果,ラジカル捕捉剤であるアスコルビン酸に顕著な抑制効果が認められた.また,燃焼スモークを導入したアスコルビン酸溶液からアスコルビン酸ラジカルが検出された.これは気相スモークラジカルが捕捉されたことを示すことから,活性種として気相スモークラジカルの可能性が示唆される.

表1 システアミン酸化に対する抑制剤の抑制効果*

 図6に気相スモークラジカルによって引き起こされるシステアミンの酸化機構を示す.気相スモークラジカルがシステアミンから水素を引き抜くことでチイールラジカルが生成する.チイールラジカルは溶存酸素と反応することでチイールペルオキシラジカルとなる.チイールペルオキシラジカルがシステアミンから水素を引き抜くことでチイールラジカルが生成し,これが連鎖担体となってラジカル連鎖反応が進行すると考えられる.

図6.気相スモークラジカルによるシステアミン酸化機構.

 定常状態法によればk1<k2のとき,システアミンの減少速度式は以下のように表される.

 

 図7および8に示すようにシステアミンの減少速度はそれぞれ気相スモークラジカル量およびシステアミンの初期濃度の1/2乗にほぼ比例している.これは提示した反応機構の妥当性を示すものと考えられる.

図7.[気相スモークラジカル]1/2と減少速度の関係.異なる炉温で燃焼させたPMMAのスモークをシステアミン溶液に導入した場合の結果.PMMAの燃焼スモーク中から検出される気相スモークラジカル量は炉温に依存する.図8.[システアミン初濃度]1/2と減少速度の関係.炉温600℃におけるPMMAの燃焼スモークを濃度の異なるシステアミン溶液に導入した場合の結果.

 気相スモークラジカルが生体内の代謝反応に関与するシステアミンを酸化する可能性を明らかにした.したがって,気相スモークラジカルの抑制法を見出すことは重要であるといえる.そこで気相スモークラジカルの捕捉による抑制を検討する目的で,ラジカル捕捉剤の適用を試みた.しかしながら,アミン系ラジカル捕捉剤であるジフェニルアミン(DPA)は条件によっては新たなラジカル生成を引き起こし,ラジカル量を逆に増加させた.これは,燃焼スモーク中の過酸化物と反応したためと考えられる.本研究ではESRスピントラッピング法により目的とするラジカルをラジカル付加物に変換して検出している.このため新たに発生したラジカル付加物のスペクトルが気相スモークラジカル由来のものと重なってしまい,捕捉効果の評価ができない問題があった.そこで,DPAのラジカル付加物に及ぼす影響を検討することで捕捉効果に関する知見を得ることを試みた.図9に示すように気相スモークラジカル由来のラジカル付加物はDPAによって約40%が消失する.一方,DPAをあらかじめ添加した場合に得られるラジカル付加物はほぼ全量が消失することがわかった(図10).これは気相スモークラジカル由来のラジカル付加物が存在していないことを示しており,DPAによって気相スモークラジカルが捕捉されたためと考えられる.

図9.気相スモークラジカル由来のラジカル付加物に対するDPAの影響.PMMAを燃焼させ発生した気相スモークをスピントラップ溶液に導入した(a)直後(b)DPAを添加して2時間後のESRスペクトル.ラジカル付加物は6本線として検出される.Amplitudeはいずれも500.図10.DPA存在下で得られるラジカル付加物に対するDPAの影響.DPAを含むスピントラップ溶液にPMMAの燃焼から発生する気相スモークを導入した(a)直後(b)2時間後のESRスペクトル.(b)ではラジカル付加物(6本線)は検出されず,他のアミノキシラジカルが検出された.Amplitudeは(a)40,(b)1000.

 本論文では,気相スモークラジカルの生成機構の解明,生体へ及ぼす影響および抑制法の探索を行った.その結果,含酸素化合物が気相スモークラジカルの生成に関与することを見出し,反応計算による生成機構の推定を行った.また,生体モデル化合物としてシステアミンを選び気相スモークとの反応性を検討し,気相スモークラジカルによって自動酸化が引き起こされることを示した.最後に抑制法を見出す目的で,ラジカル捕捉剤による捕捉を試みた結果,ジフェニルアミンに捕捉効果が認められたものの,条件によっては新たなラジカル生成を引き起こすことがわかった.

審査要旨

 本論文は,「気相スモークラジカルの発生挙動と機構に関する研究」と題し,可燃物の燃焼から生成する気相スモークラジカルについて,その生成機構と生体に及ぼす影響を明らかにすることを目的として行った研究成果をまとめたもので,7章から成る.

 第1章は序論であり,本論文の研究の背景と既往の研究について述べ,本論文の目的と方針を明らかにしている.

 第2章は,燃焼により気相スモークラジカルが生成することが知られているポリマーについて,燃焼生成物分析を行った結果をまとめている.種々の燃焼条件下での気相スモークラジカルの生成挙動について,燃焼生成物との関係を調べた結果,含酸素化合物の生成挙動との間に相関が認められることを見出している.また,含酸素化合物の一つであるアセトンの燃焼スモークからも気相スモークラジカルが検出されたことから,高反応性で見かけ上長寿命の気相スモークラジカルの生成を説明するものとして提案されている準安定な中間体は,含酸素化合物の酸化により生成した過酢酸を経て生じる可能性を示唆している.

 第3章は,空気雰囲気下で熱分解実験を行い,気相スモークラジカルの生成機構について検討した結果を述べている.加熱時間による影響を検討した結果,第2章で気相スモークラジカル生成への寄与が考えられたアセトンの生成量が一定濃度に到達したのち気相スモークラジカルが生成することを見出し,アセトンの反応モデルを作成して気相スモークラジカルの生成挙動をシミュレートすることを試みている.過酢酸を経て気相スモークラジカルが生成するという仮説を基に,過酢酸の生成量を計算した結果,この機構が気相スモークラジカルの生成挙動をシミュレートすることが可能であることを示している.

 第4章は,気相スモークラジカルの生体に及ぼす影響を明らかにするため,生体モデル化合物との反応について検討した結果を述べている.生体内の代謝反応に関与する補酵素Aの活性部分であるシステアミンは気相スモークによって酸化されることを見出しており,また,ラジカル捕捉剤であるアスコルビン酸に酸化反応に対する顕著な抑制効果が認められたことから,生体モデル化合物との反応の活性種として気相スモークラジカルが関与することを見出すとともに,気相スモークラジカルによるシステアミンの酸化機構を提案している.

 第5章は,気相スモークとラジカル捕捉剤との反応について検討した結果について述べている.気相スモークラジカルの抑制方法としてラジカル捕捉剤を用いた結果,アミン系ラジカル捕捉剤であるジフェニルアミンは気相スモーク中の成分と反応して新たなラジカルを生成することを見出し,その成分として,過酸化物の可能性を指摘している.

 第6章は,ジフェニルアミンが,ラジカル付加物に及ぼす影響を検討することにより,気相スモークラジカルの捕捉効果について検討した結果をまとめている.本研究ではESRスピントラッピング法により気相スモークラジカルをラジカル付加物として検出している.このため,アミン系ラジカル捕捉剤であるジフェニルアミンによって新たに生成したラジカル付加物のスペクトルが,気相スモークラジカル由来のものと重なり,捕捉効果の評価ができないという問題があった.そこで,ジフェニルアミンのラジカル付加物に及ぼす影響を検討した結果,気相スモークラジカル由来のラジカル付加物は安定であるが,ジフェニルアミンを添加した場合に得られる新たなラジカル付加物は不安定で時間とともに消失することから,ジフェニルアミンによって気相スモークラジカルは捕捉されることを確認している.

 第7章は,総括であり,本論文により得られた成果をまとめている.

 以上要するに,本論文は可燃物の燃焼によって生じる気相スモークラジカルの生成機構を明らかにし,生体に及ぼす影響に関して新たな知見を加えたものであり,環境安全工学および化学システム工学の発展に寄与するところが少なくない.

 よって,本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる.

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