学位論文要旨



No 113467
著者(漢字) 山下,聡
著者(英字)
著者(カナ) ヤマシタ,サトシ
標題(和) 酸化ストレスマーカーとしての血漿ユビキノール
標題(洋)
報告番号 113467
報告番号 甲13467
学位授与日 1998.03.30
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第4185号
研究科 工学系研究科
専攻 化学生命工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 二木,鋭雄
 東京大学 教授 渡辺,公綱
 東京大学 教授 小宮山,真
 東京大学 教授 長棟,輝行
 東京大学 助教授 山本,順寛
内容要旨

 酸化ストレス(oxidative stress)は,「生体内の酸化反応と抗酸化反応のバランスがくずれて前者に傾き,生体にとって好ましくない状態」と定義されている[H.Sies(1985)in"Oxidative Stress"Academic Press,London.pp.1-8].酸化ストレスは,虚血・再灌流障害,各種炎症性疾患,運動,加齢などにより誘発され,酸化ストレスの亢進は,生体恒常性破綻をもたらし,疾病の悪性化や老化にも関与すると考えられている.そのため酸化ストレス測定のためのよいマーカーが望まれていた.これまで,脂質や蛋白質,DNAの酸化生成物が主にとりあげられてきたが,分析法の感度,特異性,操作性に問題があって,ヒトの疾患サンプルに応用できるものは少なかった.

 ユビキノールは,coenzymeQの酸化型であるユビキノンの2電子還元体である.coenzyme Qはミトコンドリア膜の呼吸鎖電子伝達系で重要な役割を果たしており,ATP合成に貢献しているが,生体内に広く分布しているcoenzymeQの役割として,最近,ユビキノールの抗酸化作用が注目を浴びている.血漿やLDLを銅イオンもしくは水溶性酸化開始剤で酸化させると,ビタミンCに次いでユビキノールが減少し,その間脂質過酸化物の生成が抑制される.その間代表的な脂溶性抗酸化剤であるビタミンEは減少しない.また,ユビキノールはビタミンCと同様にビタミンEラジカルを還元し,ビタミンEラジカルを連鎖担体とする脂質酸化反応を抑制する.これらの結果を基に,ユビキノールは酸素ラジカルに対する反応性に富み,ビタミンCと共に酸化ストレスに対して最も敏感な抗酸化剤と考えられている.生体内の酸化還元物質の酸化型と還元型の比率はその定義から酸化ストレスの度合いを反映しているといえる.従って,ユビキノールとユビキノンの比は酸化ストレスのよいマーカーになると考えられる.

 そこで本研究では,血漿中のユビキノールとユビキノンの簡便かつ正確な同時定量分析法の開発を目指した.そして開発した方法を酸化ストレスと関連があると考えられる病態のサンプル等に応用した.

 生体内ユビキノールとユビキノンの同時定量法として,高速液体クロマトグラフィー(HPLC)が広く用いられている.ユビキノールの検出には超高感度で還元物質に特異的な電気化学検出器(ECD)が有用である.ユビキノンの検出には275nmの強い紫外吸収が利用されていたが,血漿中のユビキノンの分析には感度が不十分である.そこで最近になって,逆相カラムでユビキノールとユビキノンを分離後,還元触媒カラムまたはクーロメトリック電極を用いてon-lineでユビキノールをユビキノンに還元して高感度なECDで定量する方法が考案された.

 その一方で、有機溶媒による抽出後のユビキノールは非常に酸化されやすい.血漿のヘキサン抽出物の安定性を調べた結果,-20℃でも不安定で,特に室温では分単位の実験操作が定量結果に大きな影響を与えることがわかった.また,血漿のヘキサン抽出物を窒素気流下で溶媒除去し,同量のヘキサンで再溶解して分析に供した結果,ユビキノールが酸化して,ユビキノール/総ユビキノン(総ユビキノン=ユビキノール+ユビキノン)は平均93.7%から78.4%に変化した.これらの結果は,これまで多用されていた抽出後の濃縮・溶媒置換操作に問題があることを示すものであり,この問題点を最大限念頭に置いた分析システムの確立が必要であった.本研究では,この問題を抽出溶液を濃縮および溶媒置換操作なしに直接HPLCに注入することにより克服し,還元触媒カラムと電気化学検出器,紫外分光検出器を組み合わせたHPLCシステムによるユビキノールとユビキノンの同時定量法を開発した.

 図1にHPLCシステムの概念図を示した.ユビキノンは分離カラムで分離された後に,還元触媒カラムによりユビキノールに還元され,酸化電圧600mVの電気化学検出器で検出される.血漿50lに冷却した5倍量のメタノール,10倍量のヘキサンを加えて激しく振とうして抽出し,濃縮および溶媒置換操作を行わないで速やかにヘキサン層5lをHPLCに注入して分析した.本分析法ではユビキノール,ユビキノンの他に,ビタミンE,-カロテン,リコペンが,紫外分光検出器(210nm)によりコレステロール,コレステロールエステルの同時定量も可能である.

図1 ユビキノール,ユビキノン同時分析HPLCシステム

 クロマトグラムの各ピークは,保持時間および電気化学検出器の酸化電圧を変化させた時の応答変化率が標準サンプルと一致することにより同定確認した.検出限界は約2fmolであった.血漿からの抽出における有機溶媒の比率を変化させた結果,1:5:10(sample:methanol:n-hexane)がトコフェロール,ユビキノール,ユビキノンともによく抽出されたのでこの比率を採用した.抽出時に標準サンプルを加え,回収率を測定した結果,良好な結果を得た.再現性について調べた結果,同じサンプルを別の日に複数回分析した結果は統計的に一致した.血漿を2回凍結解凍した前後の分析結果についても比較したところ,定量結果は統計的に一致し,血漿サンプルを凍結保存(-80℃)して分析時に解凍することについても正当性が得られた.以上の検討の結果,本分析法による分析結果の再現性および安定性は,定量分析に十分耐えうるものと判断した.

 健常成人の血漿について本分析法を応用した結果を表1に示す.これまでの報告では,健常成人の血漿中のコエンザイムQの酸化型の比率,即ち%CoQ値=ユビキノン/総ユビキノン(%)は,分析処理方法が適切でないため,大きな値が報告されていたが,%CoQ値=4であり,血漿中では本分析法を用いると,ほとんどが還元体で存在していることがわかった.次に肝炎,肝硬変,肝癌患者に応用し,比較した.サンプルは京都府立医大の小倉先生,吉川先生に提供していただいた.比較に際しては,対象年齢を40才〜85才とした.結果は,図2に示すように,肝障害を持つ患者の血漿における%CoQ値は,健常人のものと比べて有意に高いものであった.ビタミンE値においては健常人と患者との間に有意な差はなかった.さらに遺伝的な肝炎・肝癌自然発症モデルとして注目されるLECラットの血漿を分析した.サンプルは国立がんセンターの曽根先生,長尾先生に提供していただいた.分析の結果,肝炎を発症する18週齢以後の24週齢において%CoQ値が上昇すること,また銅のキレート剤であるトリエンチンの投与により肝炎の発症および%CoQ値の上昇が抑制できることがわかった.以上の結果は肝炎による酸化ストレスの亢進を示唆するものである.

表1 健常人血漿の分析結果図2 健常人と肝障害患者の比較

 心筋梗塞の治療法として経皮的冠動脈形成術(PTCA)がある.この症例においては血流を停止して再開するときにいわゆる虚血再灌流障害がおきることがあることが知られており,その原因として再灌流時の酸化ストレスの亢進が考えられている.しかし,実験動物の例はあってもヒトで再灌流時に酸化ストレスが亢進していることを示した例はない.心筋梗塞・PTCAにおいて,術処理前後に経時的に採血した血漿を本分析法により分析した.サンプルは鳴門病院の田村先生に提供していただいた.その結果,%CoQ値は術直後では変動はほとんどなく,その後上昇して術後20〜48時間で最大になり,回復傾向に転じて,1週間で術前の値に回復することがわかった.この結果は,in vivoにおいて再灌流後タイムラグをおいて多核白血球の活性化が起こりスーパーオキサイドが産生するとされていることに対応している.

 近年,身体運動により,体内で活性酸素の産生が増大し,酸化ストレスが亢進することによってむしろ種々の疾病の原因となる可能性が指摘されているが,現状ではこれを裏付けるデータに乏しい.そこで長時間運動のモデルとしてトライアスロン競技をとりあげ,競技前日,直後,翌日,1週間後の計4回採血して血清を分析に供した.サンプルは東京医科大学の高波先生,川合先生,勝村先生,岩根先生に提供していただいた.その結果,%CoQ値が,トライアスロン競技直後に有意に増加していた(平均6.4%→11.1%).そして競技1週間後に競技直前の水準に回復することがわかった.これまでに酸化ストレスの亢進を示すものとしてとりあげられた現象として,血清ビタミンEやビタミンCの減少,リン脂質ヒドロペルオキシドの生成,TBARSの上昇があるが,本検討では,いずれの現象も競技直後には観測されなかった.%CoQ値が競技直後に有意に増加していることは,身体運動により,酸化ストレスが亢進することを示唆している.しかし,%CoQ値の増加量はわずかであり,トライアスロン競技における酸化ストレスの亢進の程度は,これまで考えられていたほど大きいものではないと推定される.

結論

 1.還元触媒カラムと電気化学検出器を組み合わせたHPLCシステムによる簡便かつ正確なユビキノールとユビキノンの同時定量分析法を開発した.

 2.肝障害,LECラット,心筋梗塞・経皮的冠動脈形成術,長時間運動の各系における%CoQ値を測定した.その結果は,各系における酸化ストレスの亢進と,%CoQ値の酸化ストレスのマーカーとしての有用性を示唆するものであった.

 3.他の疾病患者や疾病モデル系における本方法の応用が期待される.

審査要旨

 酸化ストレス(oxidative stress)は,「生体内の酸化反応と抗酸化反応のバランスがくずれて前者に傾き,生体にとって好ましくない状態」と定義されている.酸化ストレスは,虚血-再灌流障害,各種炎症性疾患,運動,加齢などにより誘発され,酸化ストレスの亢進は,生体恒常性破綻をもたらし,疾病の悪性化や老化にも関与すると考えられている.そのため酸化ストレス測定のためのよいマーカーが望まれていた.これまで,脂質や蛋白質,DNAの酸化生成物が主にとりあげられてきたが,分析法の感度,選択性,操作性に問題があって,ヒトの疾患サンプルに応用できるものは少なかった.

 論文提出者は,coenzymeQの還元型であるユビキノールが,酸素ラジカルに対する反応性に富み,ビタミンCと共に酸化ストレスに対して最も敏感な抗酸化剤であることに着目した.そして本論文において,ユビキノールとその酸化体であるユビキノンの比が酸化ストレスのよいマーカーになり得ると提唱し,血漿ユビキノールおよびユビキノンの高感度かつ簡便で信頼性の高い分析システムを構築することを第一の目的とした.さらに,開発した定量法を種々の症例に応用し,各症例における酸化ストレスの亢進について検討することを第二の目的とした.

 第1章においては,生体内での活性酸素の発生,酸化ストレスの定義と酸化ストレスマーカー,抗酸化物質としてのユビキノールについて概論が述べられている.

 第2章においては,高速液体クロマトグラフィー(HPLC)による血漿ユビキノールとユビキノンの同時定量分析法が開発されている.血漿中のユビキノンは濃度が低いため,高感度分析もしくは濃縮操作が必要である.しかし,酸化型であるユビキノンは直接電気化学検出器(ECD)で分析できないこと,濃縮操作中にユビキノールが酸化してユビキノンに変換すること,から正確な定量は困難であった.論文提出者は,有機溶媒から抽出した後のユビキノールが不安定であること,溶媒置換操作中にもユビキノールが酸化することを明らかにした.そして血漿からのユビキノールおよびユビキノンの抽出方法を再検討し,血漿から抽出後,濃縮および溶媒置換操作を行わないで速やかに分析に供することで,ユビキノールの酸化を最小限に抑えた.さらにHPLCに還元触媒カラムを接続してユビキノンを分離カラムで分離された後に,ユビキノールに還元して,ECDで検出する方法を用いて,HPLC分析システムを構築した.この分析法は,血漿ユビキノールおよびユビキノンの信頼性の高い定量を可能にしたのみならず,従来法と比較して簡便で,ユビキノール,ユビキノンの他に,ビタミンE,-カロテン,リコペンが,紫外分光検出器の併用によりコレステロール,コレステロールエステルも同時定量可能であるという特徴を持っている.論文提出者は,この分析法の正当性に関して綿密な実験を行っており,分析結果の再現性および安定性は,定量分析に十分耐えうるものと結論している.そして,健常人血漿の分析を行い,健常人の血漿%CoQ値(=ユビキノン/(ユビキノール+ユビキノン))が約4であることを示している.

 第3章から第6章では,上記の定量法を種々の症例に応用した結果が示されている.第3章では,慢性活動性肝炎,肝硬変,肝癌患者の血漿を分析し,肝硬変,肝癌のみならず,肝炎患者において,血漿%CoQ値が健常人と比較して有意に高く,血漿ビタミンCが健常人と比較して有意に低いこともあわせて,肝炎発症時に患者が酸化ストレスに曝されていることを示した.第4章では,遺伝的な肝炎,肝癌自然発症モデル動物LECラット血漿を分析し,肝炎発症時に%CoQ値が上昇し,酸化ストレスが亢進していることを示した.以上の結果は,フリーラジカルあるいは活性酸素が肝炎の進行とその後の肝癌の発症に重要な役割を果たしていることを示唆していると結論されている.第5章では,急性心筋梗塞患者の経皮的冠動脈形成術症例において,血漿%CoQ値が,術後数時間〜48時間でかなり上昇して,その後回復傾向に転じ,術後1週間で術前の水準に回復することを示した.この血漿%CoQの変動は,虚血-再灌流後の酸化ストレス亢進を強く示唆するものであると考察している.第6章では,長時間運動における酸化ストレスの亢進が検討されている.過激な長時間運動として知られているトライアスロン競技者の血漿を分析した結果,血漿%CoQ値が,トライアスロン競技直後にわずかながら有意に増加し,競技1週間後に競技直前の水準に回復したことを示した.この結果は長時間運動による酸化ストレスの亢進を示唆していると結論されている.

 第7章では上記の結果をまとめた結論が述べられている.

 論文提出者はユビキノールとその酸化体であるユビキノンの比が酸化ストレスのよいマーカーになり得ると提唱し,本論文において,血漿中のユビキノールとユビキノンの簡便かつ信頼性の高い同時定量分析法を開発した.そして肝炎,肝硬変,肝癌患者,LECラット,急性心筋梗塞患者の経皮的冠動脈形成術症例,トライアスロン競技における酸化ストレスの亢進を示唆した.

 本分析法は酸化ストレス研究において非常に有用であると考えられる.本分析法を応用することにより,治療法や薬剤の効果の判定,各種酵素欠損症サンプルなどを用いた酸化ストレスの亢進と疾患の関連についてのメカニズム解明が期待されるものであり,本論文はその先鞭をつけたものといえよう.

 よって本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる.

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