学位論文要旨



No 113470
著者(漢字) 姚,水良
著者(英字)
著者(カナ) ヤオ,シュイリャン
標題(和) 高効率無細胞タンパク質合成法の開発
標題(洋)
報告番号 113470
報告番号 甲13470
学位授与日 1998.03.30
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第4188号
研究科 工学系研究科
専攻 化学生命工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 長棟,輝行
 東京大学 教授 渡辺,公綱
 東京大学 助教授 関,実
 東京大学 講師 上田,宏
 (財)地球環境産業技術研究機構 主任研究員 鈴木,栄二
内容要旨

 1961年、Nirenbergらが大腸菌抽出液に鋳型mRNAや、アミノ酸、エネルギー物質などを添加した無細胞タンパク質合成系を用いて遺伝暗号の研究を発表した。以後、小麦胚芽、ウサギ網状赤血球などからの抽出液を用いる多くの無細胞タンパク質合成系が開発された。さらに、DNAからmRNAを転写しながらタンパク質を合成する転写翻訳共役系も開発された。これらの無細胞タンパク質合成系は遺伝学的或いは生化学的研究の手段として広く利用されてきている。

 従来、無細胞タンパク質合成はバッチ方式で行われてきたが、タンパク質合成反応は1-2時間で停止する。得られるタンパク質量がかなり少ないため、多くの場合、タンパク質の検出は放射性同位元素や免疫学的な手段でしかできない。すなわちタンパク質の生産手段としては利用できなかった。また、このことは遺伝子の転写及び翻訳等の研究にも大変不便を与えている。

 1988年、Spirinらは連続方式で高効率のタンパク質合成に成功した。細胞抽出液とmRNAを板状濾過膜反応器へ充填し、タンパク質合成に必要な成分、ATP、GTP、アミノ酸を連続的に供給することで、タンパク質合成反応が数10時間継続するという現象を見いだした。そしてこの条件では従来より大量にタンパク質を得ることができた。しかしこの技術は再現が難しく、追試も難航しており、現在限られたグループしか追試に成功していない。さらに、Spirinらの方法では実験を行う際に、二つの恒温器、ポンプ、膜を装着した反応器、コレクター、タンク、管などの複雑な装置を必要とする

 本研究では従来のバッチ式無細胞タンパク質合成反応の主な停止原因を究明することを第一の目的とした。さらに、その停止原因を解消し、簡便かつ高い合成能力を有する無細胞タンパク質合成法の開発を第二の目的とした。本研究では、まず小麦胚芽抽出液を用いる従来のバッチ式無細胞タンパク質合成系でタンパク質合成反応の主な停止原因を分析した。その結果、タンパク質合成反応の主な停止原因はエネルギーチャージ((│ATP│+│ADP│/2)/(│ATP│+│ADP│+│AMP│))の低下であることが分かった。また、エネルギーチャージの低下はタンパク質合成の有無と関係なく、主に抽出液由来の酸性phosphataseによることを見出した。タンパク質合成速度はエネルギーチャージと深く関係する。エネルギーチャージが低下すると、タンパク質合成速度は急激に下がる。特にエネルギーチャージが0.85以下に下がると、タンパク質合成はほぼ停止する。そこで我々はエネルギーチャージを0.85以上に戻すことによって、タンパク質合成が再開するか否か、検討した。すなわち30℃でタンパク質合成を1時間行った反応液を(1)そのままさらに1時間incubationした場合と(2)遠心濾過でATP、GTPの加水分解物などの低分子成分を除去した後、ATP、GTP等を再添加するエネルギー更新を行い、エネルギーチャージを高めた後、再度30℃でタンパク質合成を1時間行った場合のタンパク質合成能力を比較した。その結果、エネルギー更新を行った場合にはタンパク質合成が再開することを確認した(図1)。さらに、このエネルギー更新を行った後の1時間で得られたタンパク質量が、最初の1時間のincubationで得られたタンパク質合成量より多いことを見い出した。このことから、最初の1時間のincubation過程、或いはエネルギー更新過程で、何らかの原因でタンパク質合成能力が増加するのではないかと考えた。

 次に、タンパク質合成能力の増加方法について検討を行った。従来のバッチ式無細胞タンパク質合成系では、30℃で合成したluciferaseタンパク質がincubation時間20分以降から検出された。タンパク質合成量の増加は1時間で停止することから、30℃でのタンパク質合成反応の継続時間は実質的には40分前後であることが分かった。そこで、タンパク質合成能力の増加には1)合成開始誘導時間を短くする;2)タンパク質合成速度を速くする;3)エネルギー更新によりタンパク質合成を継続させることが有効と考えた。

図1 エネルギー更新の効果。エネルギー更新でエネルギーチャージが回復、タンパク質合成が再開

 タンパク質合成反応は開始、延長、停止の三段階から構成されている。開始過程はアミノ酸とtRNAのaminoacylationから始まり、三重複合体、43S、48S、80S開始複合体の形成を含んでいる。そのうち、48S開始複合体の形成がタンパク質合成反応の律速段階であることがこれまでの研究で分かっている。48S開始複合体は43S開始複合体とmRNAから成る。したがって、43S開始複合体を前もって合成することでタンパク質合成が早く始まると予想された。タンパク質合成開始誘導時間が短ければ、反応系のエネルギーチャージが低下する前に合成反応が進むので、結果的にタンパク質合成能力が増加すると考えられた。また、43S開始複合体の生成速度を高めることができれば、48S開始複合体の生成速度、すなわちタンパク質合成速度を増加させることも可能であると考えられた。

 そこで、本研究ではあらかじめ43S開始複合体を形成させた後、エネルギー更新でエネルギーチャージを高めて、タンパク質合成を行う新しいタンパク質合成方法を考案し、これをPER法(preincubation followed by energy replenishment method)と名付けた(図2)。まず、小麦胚芽抽出液とATP、GTP、CP(creatine phosphate)、アミノ酸などを含むincubation液をpreincubationし、43S開始複合体の形成を行う。この過程ではATP、GTPが加水分解されるので、遠心濾過チューブを用いて、incubation液を遠心濾過し、ATP、GTPの加水分解物等の低分子成分を除く。低分子成分を除去したincubation液に新しいATP、GTP、CP、アミノ酸などを含むreplenishment bufferを濾過液と等量加え、さらに鋳型mRNAを加えて30℃でタンパク質合成を行う。この操作方法により、従来のバッチ式無細胞タンパク質合成と較べ最高10倍のタンパク質合成能力が得られた(図3及び図4)。PER法が高いタンパク質合成能力を有する原因として(1)preincubationによる43S開始複合体の形成;(2)エネルギー更新によるエネルギーチャージの回復;(3)遠心濾過による43S開始複合体の形成の促進などが考えられる。これら3つの考えうる原因のタンパク質合成能力増加への寄与を明らかにするための実験を行った。その結果、以下のことが判明した。Preincubation及びエネルギー更新はタンパク質合成能力増加に大いに貢献する。さらに、preincubation時におけるエネルギー物質の存在がタンパク質合成能力の増加に特に大きい効果を与える。すなわち、preincubation過程でエネルギーを要する三重複合体や43S開始複合体などが予め生成するため、タンパク質合成反応が早く開始し、タンパク質合成速度が増大し、タンパク質合成能力が大幅に増加する。また、エネルギー更新過程ではincubation液が一旦濃縮されるため、三重複合体や43S開始複合体などの生成がさらに促進され、タンパク質合成能力が増加すると考えられる。

 PER法は簡便且つ高効率な無細胞タンパク質合成法としてタンパク質生産に適用できる。また、エネルギー更新が加えられているため、エネルギーチャージ低下の影響を排除しつつ、タンパク質合成機構の研究および鋳型mRNAの分解や第三組成の添加のタンパク質合成への影響の研究ができる。さらに、PER法は遠心濾過チューブを反応器とする回分法のため、複雑なシステムを必要とする連続無細胞タンパク質合成法(Spirinらの方法)よりかなり手軽にエネルギー更新、途中での任意成分の追加、反応器内の反応液のサンプリングなどができる。さらに、PER法で遠心濾過チューブのかわりに膜型反応器を用いることにより工業的規模でのタンパク質生産を周期的に行うシステムの実現が可能になると考えられる。

図2 PER(preincubation followed by energy replenishment)法概念図。図3 PER法と従来のバッチ法の無細胞翻訳特性の比較。PER:開始誘導時間10分短縮、合成速度8倍増加、合成量10±2倍増加図4 PER法におけるpreincubation時間の効果。バッチ法のタンパク質合成量を1としたPER法の合成量
審査要旨

 無細胞タンパク質合成法は、細胞から抽出したリボソーム、tRNA、アミノアシル-tRNA合成酵素、開始因子、延長因子などタンパク質合成に関わる様々な要素に鋳型mRNA、アミノ酸、エネルギー源であるATP、GTPを加えて、細胞外でタンパク質合成を行う方法である。これまで、この方法はmRNAの翻訳機構の解明や、タンパク質合成の素過程とその調節機構の解明などを目的とする研究分野で主に用いられてきた。近年、放射性アミノ酸標識したタンパク質や、非天然アミノ酸を導入したタンパク質、細胞毒性の高いタンパク質など、生細胞で合成するのにコストがかかりすぎたり、生細胞で合成するのが不可能なタンパク質を生産する手段としても利用され始めている。無細胞タンパク質合成は主にバッチ方式で行われてきたが、タンパク質合成反応が1時間程度で停止するため、得られるタンパク質量が少ないという問題点があった。

 本論文は、従来のバッチ式無細胞タンパク質合成反応の主な停止原因を究明し、その停止原因を解消するとともに、簡便かつ高い合成能力を有する無細胞タンパク質合成システムを開発することを目的として行われた研究の成果を述べており、以下の6章より構成されている。

 第一章は緒言であり、本研究の背景と目的を述べている。

 第二章では真核生物のタンパク質合成過程とその制御について述べている。すなわち、タンパク質合成過程は開始過程、延長過程、終止過程から成るが、それぞれの過程の素過程とこれに関係する因子について説明している。また、タンパク質合成過程の制御、特に開始過程における開始因子のリン酸化による複合体形成の制御について、既往の研究結果を整理しまとめている。

 第三章では本研究で用いた小麦胚芽抽出液の調製法および鋳型mRNAのin vitro合成法と精製法について記述している。

 第四章では無細胞タンパク質合成におけるエネルギー関連物質濃度の影響について検討している。まず、無細胞タンパク質合成過程におけるエネルギー物質ATP、GTPの加水分解速度を測定し、これらの物質の加水分解モデルを構築している。次に、エネルギー物質であるATPやクレアチンリン酸の濃度およびエネルギー物質の加水分解産物であるクレアチン、リン酸、ピロリン酸の濃度がタンパク質合成へ及ぼす影響について検討し、ATP濃度の最適値が2mMであること、クレアチンリン酸やクレアチン、リン酸、ピロリン酸の濃度の増加にともなってタンパク質合成が阻害されることを明らかにしている。また、タンパク質合成に有効に利用できるエネルギー量の割合を表すエネルギーチャージとタンパク質合成速度には、細胞抽出液の種類や細胞内タンパク質合成、無細胞タンパク質合成の如何にかかわらず普遍的な相関関係があり、エネルギーチャージの値が0.85以下になるとタンパク質合成が停止することを、実験結果と文献値の比較に基づいて示している。さらに、小麦胚芽抽出液を用いたバッチ式の無細胞タンパク質合成過程では、エネルギー再生系が存在する場合でも、反応開始後約30分でエネルギーチャージは0.85以下になり、その結果、タンパク質合成が停止することを明らかにしている。このエネルギーチャージ低下の主な原因は、タンパク質合成反応に伴うエネルギー消費ではなく、小麦胚芽抽出液中に含まれる酸性ホスファターゼがエネルギー物質を加水分解することにより無駄に消費されるためであることを明らかにし、この酸性ホスファターゼの活性を阻害することにより、エネルギーチャージの低下を抑制し、タンパク質合成速度を高めることができると予測している。また、エネルギー物質の加水分解物を反応系外に除去し、エネルギー物質を反応系に加えてエネルギーチャージを再度高めることにより、タンパク質合成期間を延長することが可能になると結論している。

 第五章では、第四章で得られた知見に基づいて論文提出者が考案した新しい高効率無細胞タンパク質合成法-PER(Preincubation followed by Energy Replenishment)法のタンパク質合成能力を、従来のバッチ式タンパク質合成法と比較検討している。すなわち、小麦胚芽抽出液にエネルギー物質を加えて一定時間プレインキュベーションし、生成したエネルギー物質の加水分解物を遠心濾過により除去し、これに鋳型mRNAとエネルギー物質を加えてタンパク質合成を開始させ、エネルギーチャージが低下した時点で遠心濾過、エネルギー物質の添加によりエネルギーチャージの更新を繰り返すPER法のタンパク質合成能力を評価している。PER法ではバッチ式法と比較してmRNA添加からタンパク質合成開始までの誘導期間が短縮され、また、8〜10倍のタンパク質合成速度、タンパク質合成量が得られることを示し、このように高いタンパク質合成能力が得られた理由について考察している。すなわち、プレインキュベーションおよびその後の遠心濾過操作の過程でタンパク質合成過程の律速段階と考えられている三重複合体、43S複合体などが予め形成され、mRNA添加後直ちに48S複合体が形成されてタンパク質合成が延長過程に移行したため、エネルギーチャージが高い状態でタンパク質合成が行われた可能性を指摘している。さらに、バッチ式法のタンパク質合成反応は約40分で停止するが、このようなPER法を用いてエネルギーチャージを高く維持しても約2時間でタンパク質合成反応が停止すること、その原因がmRNAの分解であり、エネルギーチャージが高いほど分解速度が速いことを明らかにしている。この結果に基づいて、mRNAを適宜添加するPER法を試み、タンパク質合成期間を約6時間まで伸ばすことに成功している。なお、小麦胚芽抽出液中のタンパク質合成に関わる因子の活性低下が、6時間以上タンパク質合成反応を継続できなかった原因であることも明らかにしている。

 第六章では、本論文を総括し、工業的な無細胞タンパク質合成システムとして、PER法とmPNA、小麦胚芽抽出液の適宜添加を組み合わせた周期的タンパク質合成システムを提案し、今後の展望を述べている。

 以上、本論文は無細胞タンパク質合成系におけるタンパク質合成反応の停止原因を究明し、これを明らかにしたものである。また、その停止原因を解消する新規な無細胞タンパク質合成法としてmRNA、小麦胚芽抽出液の適宜添加を伴うPER法を提案し、その有用性を示している。これらの成果は、化学生命工学、特にバイオテクノロジーとしての無細胞タンパク質合成技術の進歩に寄与するところ大である。

 よって本論文は、博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。

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