種子の成熟と休眠は、生育に不適当な環境条件下で発芽を抑制し、再び好ましい環境が訪れるまで種子の生存を可能にする重要な形質の一つである。種子の休眠については、植物ホルモンに着目した生理学的研究が古くから行われている。なかでもアブシジン酸(ABA)と種子休眠の関係については詳細な解析が行われており、現在ではABAの生合成とその受容が休眠を制御する重要な因子の一つであると考えられている。また近年になり、トウモロコシやシロイヌナズナで種子休眠に関与する突然変異体を用いた遺伝学的解析が行われるようになり、さらに、分子生物学的手法の発達により、これらの遺伝子がクローニングされつつある。このように種子休眠と成熟過程の制御についてはトウモロコシやシロイヌナズナを中心に精力的な研究が行われているが、関連遺伝子の詳細な機能については不明な点が多い。一方、イネの種子休眠の機構については、ほとんど明らかにされていない。本研究では、種子成熟及び休眠に関する遺伝的調節機構の解明を目的とし、イネ穂発芽性突然変異体及び種子成熟関遺伝子を用いて分子遺伝学的解析を行った。 1.イネ穂発芽性突然変異体の解析 穂発芽性を示すイネ突然変異体、riv1-1,riv1-2,riv2などを用い、これらの形態及び穂発芽性について解析を行った。riv1-1,riv1-2,riv2は、正常な胚と胚乳、葉、花を形成し、また出穂期や稔性も野生型と同様であった。従って、これらの突然変異の野生型遺伝子は、種子特異的に発現するものであることが示された。次に、無降雨、長時間の人工降雨、自然降雨の条件下での穂発芽率及び穂発芽時期を調査した。その結果、穂発芽の誘導には少量の水分が必要であること、発芽の抑制には胚乳が重要であること、穂発芽は種子成熟の後期に生じることが明らかになった。次に、種子休眠と深く関わっていると考えられているABA感受性について、ABA存在下での発芽率を指標として解析した。野生型のABA感受性は受粉後15日目から徐々に減少し、受粉後40日目にはほぼ完全に失われた。一方、riv1-1,riv2では受粉後15日ですでにABA感受性が大きく低下していた。また感受性の喪失時期も、野生型の受粉後40日に対しriv1-1,riv2では受粉後30日であった。これらの結果から、イネ種子のABA感受性は発生過程で変動すること、穂発芽性変異体riv1-1,riv2ではABA感受性が低下しているとともに感受性を有する期間が短縮していることが明らかになった。 2.種子形成過程におけるOSVP1及びOSEM遺伝子の発現 これまでのトウモロコシ及びシロイヌナズナの解析から、種子の成熟と休眠の制御に非常に重要な働きをする遺伝子として、VP1/ABI3遺伝子が同定されている。この遺伝子の劣性突然変異はABAに対する感受性の低下を引き起こし、穂発芽のみならず、多面的な異常を示すことから、下流の多くの遺伝子の発現を制御していると考えられている。EM遺伝子はその発現がVP1とABAの協調的な作用により制御され、種子成熟過程で発現することが知られている。イネにおいてもこれらの相同遺伝子、OSVP1,OSEMが単離されているが、その機能、詳細な発現パターンは明らかになっていない。本章では、これら2つの遺伝子について、in situ hybridization法及び免疫組織学的手法により種子形成過程での時間的、空間的発現パターンの解析を行った。 (1)OSVP1遺伝子 OSVP1遺伝子の転写は,受粉後2日目の未だ器官分化が認められない球状胚の段階で開始されることが明らかになった。その後、器官分化の進行にともない、幼根、幼芽、維管束で転写産物量の増加が認められ、受粉後20日目には発現が大きく減少した。糊粉層では受粉後6日から発現が始まり、受粉後20日目でも比較的強い発現が認められた。 OSVP1タンパクは、胚では受粉後3日目、すなわち遺伝子の転写直後から蓄積されることが明らかになった。その後,転写産物が検出された組織で同様の発現パターンを示した。また、シグナルは核に局在しており、OSVP1が転写因子であるというこれまでの主張を裏づけた。 (3)OSEM遺伝子 OSEM遺伝子の発現は、OSVP1の発現から約4日遅れて受粉後6日目から認められ、受粉後15日目まで転写産物量が増加したが、20日目には,全体的に減少した。その局在部位は,幼芽,幼根,維管束であり、OSVP1の発現部位とほぼ一致した。 以上、両遺伝子の発現の組織特異性はほぼ一致し、OSVP1がOSEMの発現の組織特異性を決定することを示唆しており、これまでの報告と一致するものであった。さらに、これまでOSVP1は種子の成熟や休眠に関与すると考えられてきたが、その発現開始時期は胚発生のごく初期であることが明らかになり、これまでに報告されていない新たな機能を有している可能性が示された。 3.ABA応答性遺伝子、Rab16A,REG2,OSBZ8の種子形成過程における発現パターン 種子の成熟過程ではABAが重要な制御因子のひとつであると考えられており、イネでもABA応答性の数多くの遺伝子が単離されている。しかしながら,組織レベルでの発現パターンが調べられた例はほとんどない。本研究では、イネのABA応答性遺伝子,Rab16A,REG2,OSBZ8の種子形成過程における発現パターンを解析した。 Rab16AはLEA遺伝子の1つで、ABAの他に乾燥条件でも誘導されることから、種子成熟過程では乾燥耐性の獲得との関係に興味が持たれている遺伝子である。in situ hybridizationの結果、Rab16Aの発現には強い組織特異性は認められなかった。最初の発現は受粉後10日目の鞘葉で確認された。受粉後15日目には発現量の増加が認められ、鞘葉、芽鱗、根鞘で比較的強く、胚盤先端、幼芽、幼根、根冠、維管束で弱く発現していた。受粉後20日目には発現の減少が認められた。糊粉層では胚よりもはやい時期、すなわち受粉後8日目にわずかに発現が認められ、受粉後20日目まで発現が維持されていた。 REG2はイネ貯蔵タンパク質グロブリンをコードしている。in situ hybridizationの結果、REG2の発現には非常に強い組織特異性が認められた。受粉後6日目の胚盤で最初の発現が観察された後、受粉後10日目まで胚全体で比較的弱い発現が認められた。受粉後15日から20日にかけて強い組織特異性が観察されたが、興味深いことに、その発現パターンはOSEMとまったく逆のパターンであった。すなわち、OSEMが幼芽、幼根、維管束で強く発現していたのに対し、REG2は胚盤、芽鱗、根鞘で極めて強く発現していた。糊粉層での発現は受粉後6日目には認められなかったが、受粉後10日目から20日目まで強い発現を維持していた。 OSBZ8はABA応答性の転写因子であり、その発現誘導にde novoのタンパク合成を必要としないことから、ABA情報伝達経路のごく初期の段階で機能すると考えられている。 OSBZ8の発現は受粉後3日目の胚全体で始まることが明らかとなった。その後、受粉後6-8日目にも胚のほぼ全体で発現が認められたが、受粉後10日目には幼芽、幼根、維管束での発現が強まり、受粉後15日目にはより強い特異性を示した。OSEMと同じ組織特異性を示したが、発現開始はOSEMより早く、OSVP1とほぼ同じであった。糊粉層では受粉後8日目に発現が始まり、受粉後20日目まで発現が維持されていた。 このように、REG2、Rab16A、OSBZ8はいずれもABA誘導性であるにも関わらず、時間的空間的に異なる発現パターンを示した。このことは、種子成熟過程におけるABAを介した遺伝子発現制御には複数の機構が存在することを示唆している。また、穂発芽性変異体を用いて、OSEM、REG2、Rab16Aの発現を解析したところ、Rab16Aが穂発芽性変異体の胚盤で比較的強く発現したことを除けば、野生型と同じ発現パターンを示し、これらの遺伝子は穂発芽性変異体の遺伝子とは独立した経路で機能していると考えられる。更に、胚及び器官欠失変異体を用いた解析により、OSEM、Rab16A、REG2の発現は、胚の器官ごとにほぼ独立に制御されていることが明らかになった。 以上、本研究は、種子成熟及び休眠に関する遺伝的調節機構の解明を目的とし、穂発芽性突然変異体の詳細な解析を行うとともに、種子成熟、休眠に関与する遺伝子の時間的空間的発現パターンを明らかにしたものである。 |