単位葉面積当たり光合成速度(LPS)を向上させることは、作物の生産性を上げるための一つの要素として重要である。C3植物の炭酸固定酵素であるリプロースー1.5-ビスフォスフェートカルボキシラーゼ/オキシゲナーゼ(RubisCO)の基質となる無機炭素は、大気中から気孔、葉肉細胞間隙を通り、葉緑体内ストロマの炭酸固定部位にまで輸送される。こうした無機炭素の輸送は、濃度勾配に従った受動的拡散によって行われる。したがって、無機炭素の葉肉細胞内における移動抵抗(Rr)は、RubisCOの炭酸固定能と並んで、LPSを律速する要因となっている。 ところで、細胞内の溶媒は水であるため、無機炭素は細胞内において,CO2、HCO3-、CO32-のいずれかの形で存在している。飽和光下の葉肉細胞細胞質に存在する無機炭素は、そのほとんどがHCO3-で存在している。しかし、細胞膜・葉緑体包膜のような膜系を通過できるのはCO2のみである。今回導入を試みたカーボニックアンヒドラーゼ(E.C.4.2.1.1以下CA)は、CO2とHCO3-の変換反応を触媒する酵素であるが、C3植物の葉肉細胞細胞質にはほとんど存在しないと言われている。もし、このCAを何らかの方法によって葉肉細胞細胞質に特異的に発現させることができれば、無機炭素の生体膜透過性を容易にし、その細胞質内移動速度が促進される可能性がある。本研究は、マウスのCA活性を遺伝子導入技術によりタバコの葉肉細胞細胞質に特異的に発現させ、無機炭素の細胞質内移動速度を促進させることによって、LPS、および、生長速度が促進されるかどうかを調べたものである。得られた結果の概要は次の通りである。 1.アグロバクテリウムのリーフディスク法により、マウスCAII型のcDNAを含む遺伝子カセットを、カリフラワーモザイクウイルス(CaMV)35Sプロモーターを有するベクターpBfCA010を介してタバコ葉へ導入した。得られたカナマイシン耐性株の解析により、導入遺伝子カセットが安定して後代に遺伝されていることが確認された。また、動物CAに特異的に結合する抗体を用いたウエスタン解析により、マウスCAタンパクがこれらの植物葉内に発現していることが確認された。さらに、自殖第1代種子を用いたカナマイシン耐性試験によって、これらの植物には、遺伝子カセットが1または2コピー導入されていることが推測された。 2.導入遺伝子により発現する外来CA活性を、植物葉内の内生CA活性と区別して測定する方法を検討した。そして、葉抽出液の酸化処理、およびacetazolamideによる動物由来CAの特異的阻害効果を利用することにより、外来CAと内生CAの活性を分別測定する方法を確立した。この方法を利用して、得られた形質転換体(Foreign CA植物、以下fCA植物とする)の葉内での外来CA活性を測定したところ、発現している外来CA活性は、最高で全CA活性の約1%であった。 3.また、外来CAタンパクの局在性について調べるために、葉肉細胞を葉緑体とその他のフラクションに分けてCAタンパク量を解析した。その結果、外来CAは、内生CAの大部分が局在する葉緑体フラクションからは検出できなかった。このことに加え、用いた遺伝子カセットに、発現タンパクを他のオルガネラに運ぶようなトランジットペプチドがコードされていなかったことを考慮すると、外来CAは、fCA植物葉肉細胞の細胞質に局在していると推定された。 4.播種後7週目におけるfCA植物の葉と野生株の葉とで、クロロフィル、およびRubisCO含量を比較したところ、それらについては、両者の間に差が認められなかった。さらに、飽和光条件下におけるLPSは、外来CAの発現レベルが高い個体群(High CA個体)においてさえ、通常のCO2濃度条件下では、野生株より高い値を示さなかった。しかし、CO2濃度がLPSの強い律速要因となっている低CO2濃度条件においては、High CA個体のLPSは、野生株より有意に高い値を示していた。 5.葉内の外来CAの発現量を増加させる目的で、より高い遺伝子発現ポテンシャルを有する改良型プロモーターを有するベクターpBffCA010を用い、別の形質転換体(ffCA植物)を作出した。播種後6週目における最上位展開葉で比較した場合、ffCA植物の中の1株(ffCA・3株)では、fCA植物のHigh CA個体より約3.2倍もの高い外来CAタンパクの発現レベルを示していた。また、播種後9週目における外来CAの活性についても、ffCA・3株は、High CA株より、約1.63倍の高い活性を示していた。 6.播種後8および9週目におけるffCA・3株の強光下LPSを野性株と比較したところ、低CO2条件のみならず、fCA植物では促進効果が見られなかった通常の大気条件においても、LPSの促進が見られた。しかしながら、低CO2濃度条件において観察されたLPSの促進率は、fCA植物においてみられた率とほぼ同じであった。したがって、CA活性の発現レベルをffCA植物以上に増加させても、観察された率以上の促進効果は期待できないと考えられた。 7.前記6のLPSの測定は、強光下(1000E/m2s)で行われたものである。これに対し、LPSの測定を弱光下(500E/m2s)で行った場合には、ffCA・3株と野性株との間で有意な差は認められなかった。この理由として次のようなことが考えられた。すなわち、強光下でのLPSの律速要因はCO2濃度であるのに対し、弱光下でのLPSの律速要因は光強度である。したがって、無機炭素の葉肉細胞内拡散速度を促進する外来CAを導入したffCA・3株のLPSは、強光下では促進されても、弱光下では促進されなかったと考えられた。 8.LPSの測定とクロロフィル蛍光解析とを併用して、無機炭素の葉肉細胞内移動抵抗(Rr)を算出した。その結果、ffCA・3株では、Rrが、野生株に比べ有意に低下していることが明らかになった。この時、気孔抵抗(Rs)、葉肉細胞内固定抵抗(Rx)については、両植物間で有意な差が見られなかった。このことから、外来CAは、葉肉細胞内での無機炭素の移動を特異的に促進していると考えられた。 9.生育途中の植物体について非破壊的葉面積測定を行い、葉面積の同じ植物体のみを選別して自然光下において17日間栽培し、その生長速度を調べた。その結果、ffCA・3株では、葉面積、草丈、乾物重のいずれにおいても、野生株よりその値が大きく勝っていた。これにより、CA活性の導入は、LPSと同時に生長速度をも促進することが明らかとなった。このとき、野性株に対するffCA・3株の生長促進率は、LPSにおける促進率よりも、はるかに大きなものであった。これは、LPSの増加に加え、葉面積の拡大による個体レベルでの受光量の増加が貢献しているものと考えられた。すなわち、ffCA・3株では、生長の初期からLPSが促進されており、その光合成産物が葉面積の拡大に回されたため、LPSの促進と葉面積の拡大が、相加的に生長の促進に貢献したものと考えられた。このことから、LPSの小さな促進も、生長には大きな貢献をすると考えられた。 10.これに対し、50%の遮光条件下で生育させた場合には、生長速度の促進は見られず、むしろffCA・3株の生長が悪くなった。これは、ffCA-3株におけるLPSが、弱光条件下では促進されなかった7の結果に由来すると考えられた。しかし、その生長が阻害される機作については明らかにすることはできなかった。 遺伝子導入を初めとする、いわゆるバイオテクノロジーの諸技術は、最先端の育種技術として昨今注目を集めている。しかしながら、これらの技術を用いて、作物のポテンシャルイールドを向上させた例は現在のところ極めて少ない。これは、収量や生産性といった量的形質が、1つの遺伝子ではなく、多数の遺伝子群によって決定されているためである。こうした状況の中で、本研究は遺伝子導入技術により作物の物質生産性の改善を企図したものであり、ある一定の成果が得られたと考えている。今後こうした方向で、作物生産の向上を目指していきたい。 |