学位論文要旨



No 113492
著者(漢字) 苅部,冬紀
著者(英字)
著者(カナ) カルベ,フユキ
標題(和) 交尾によるカイコ雌蛾の生殖行動の変化に関する研究
標題(洋)
報告番号 113492
報告番号 甲13492
学位授与日 1998.03.30
学位種別 課程博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 博農第1851号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 生産・環境生物学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 小林,正彦
 東京大学 教授 菅野,茂
 東京大学 教授 田付,貞洋
 東京大学 助教授 永田,昌男
 東京大学 助教授 石川,幸男
内容要旨

 昆虫の行動は、交尾の前後で大きく変化する。特に雌個体の生殖行動の変化は顕著で、産卵の活性化や性フェロモン生産の停止などが鱗翅目昆虫では良く知られている。現在までに数種の昆虫において、行動の変化をもたらす要因やその機構などが研究されてきており、複雑性と多様性が認識されてきている。カイコでは、多くの遺伝学的・生理学的な知見が蓄積されており、またフェロモン生産の過程が詳細に研究されていることから、こうした現象の機構を明らかにする上で極めて好適な昆虫である。

 本研究の概要は以下の通りである。

1.産卵の活性化をもたらす刺激について

 カイコにおける産卵活性化刺激については、多くの研究にもかかわらずいまだに不明確であった。本研究では、雌蛾の内部生殖器官に対する実験形態学的な処置によって、以下のようなことを明らかにした。交尾嚢除去の実験から、交尾嚢によって受容されるいかなる刺激も関与していないことが強く示唆された。また、交尾嚢・交尾嚢管に由来する内分泌的な刺激もこれと関わらないことが示された。去勢雄を用いた交尾実験から、雄蛾内部生殖器付属腺の分泌物や有核精子が雌蛾体内へ輸送されてもそれだけでは産卵の活性化が起きないことが分かった。産卵の活性化を起こすには、受精嚢以降へ成熟した有核精子が移行することが必須であることが明らかになった。また、受精嚢そのものへの精子による刺激だけでは産卵を促進できないことが、結紮や精子除去実験などから明らかになった。これらの結果を総合するに、産卵の活性化を起こすにあたって必要とされる刺激は前庭へ成熟を終えた精子が到達することであることが強く示唆された。

 さらに、この刺激は腹部最終神経節(TAG)から派出する第4神経束(N4)によって上位中枢に伝達されていることが明らかとなった。電気生理学的方法を用いてインパルスを測定したところ、交尾蛾においてN4感覚神経のインパルス頻度が特異的に上昇することが観察された。インパルスは、交尾嚢への伸展刺激や交尾自体の刺激によっては誘導されず、交尾開始からある程度の時間を経ると初めて計測されたことからも、精子の十分な進行によって誘導されていることが支持された。

2.性フェロモン生産を抑制する刺激

 カイコの雌蛾は交尾によってその性フェロモンであるボンビコールの生産を停止する。この現象についても生理学的な研究がなされ、雄由来の物質の作用が示唆されていたが、実際の機構については明らかでなかった。そこで、産卵刺激に関する研究と同様の方法を用いて実験を行なった結果、産卵活性化とは異なる刺激が用いられていることが明らかとなった。すなわち、産卵活性化には十分な刺激となった人工受精では、フェロモン生産は全く影響を受けなかった、一方、交尾による機械的な刺激を去勢雄によって与えたところ、若干の抑制効果が認められた。正常雄蛾と同程度の強い抑制刺激となったのは、この二つの刺激を同時に与えた時だけであった。さらに、人工受精が失敗し不受精に終わった時には抑制は認められないことや精包抽出物や交尾嚢移植によって化学的刺激を代替した場合にはフェロモン生産の強い抑制が起きなかったことから、化学的刺激は産卵行動の活性化と同様に受精嚢以降における精子の到達にあると考えられた。

3.ストレスによるフェロモン生産への影響

 エーテル麻酔による化学的なストレスによって交尾による抑制が緩和される現象を利用して、この機構についての考察を加えた。系統によって差は見られたが、一般的には交尾直後から9時間後にかけて麻酔の効果が見られた。すなわち、この時間帯に麻酔を受けた個体は、正常な雄蛾によって交尾されているにもかかわらずフェロモン生産の抑制が緩和され、6割以上の個体が無処理交尾蛾の3倍以上のフェロモンを生産した。麻酔による効果は、系統によっては交尾翌日においても観察された。

 これらの結果は、交尾によるフェロモン生産の抑制は交尾終了後一定の時間を経なければ固定されないものであることを示唆していた。

 また、機械的な拘束ストレスによっても同様の効果が認められることが分かった。フェロモン生産の制御機構とあわせ、生体アミン類の関与が考えられたので、これらの作用について調べた。ノルエピネフィリン(NE)、ドーパミン(DA)、オクトパミン(OA)、セロトニン(5-HT)の4種屡の生体アミンについて処女蛾および交尾蛾におけるフェロモン生産への影響を見たところ、OA、DA、5-HTについては実験したいずれの濃度においても顕著な効果が見られなかった。NEは、100ng、1gの注入によって処女蛾のフェロモン生産を若干増加させ、10g、100gの高濃度では逆にフェロモン生産を抑制した。これに対して、交尾蛾への注入では効果が見られなかった。これらのことからNEがフェロモン生産の抑制に関わっている可能性が考えられたので、高速液体クロマトグラフィー・電気化学検出法により、生体内のアミン量について計測した。この結果、処女蛾においては、NEとDAが各神経節中に検出されたが、OAと5-HTは検出されなかった。一方体液中には多量の5-HTが検出された。交尾蛾の神経節中にはNEとDAに加えてOAと5-HTも検出された。しかしながら、NE量は交尾蛾ではむしろ処女蛾よりも減少する傾向にあった。一方体液中の5-HTにはほとんど変動が見られなかった。

 以上の結果は、生体アミン特にNEとフェロモン生産の関わりを示唆するものではあったが、体液中アミンの定量が5-HT以外では困難であったために、これを支持する結果は得られなかった。

3.突然変異系統xu20に関する研究

 カイコに突然変異系統xu20は、産卵行動の異常が見られる系統である。この系統の性状を明らかにし、遺伝学的な知見を得ることによって、これまでに得られた結果に対する検証とするとともに将来の分子生物学的な研究への基礎とした。

 xu20の産卵行動を観察した結果、処女蛾においても交尾蛾に匹敵する活発な産卵を行なった。カイコでは、羽化当日から産卵可能な状態にあり、正常系統の処女蛾では1日目の産卵率(造卵数に対する産卵数の割合)が10%以上になることはほとんどないが、交尾蛾では90%以上に達した。これに対し、xu20では処女蛾の1日目の産卵率が90%に達し、交尾蛾と差がなかった。xu20交尾蛾の産卵は、正常系統と変わらなかった。

 神経束切断実験の結果からxu20の産卵行動における異常がTAGのN4にあることが強く示唆された。すなわち、この神経束を切断するとxu20処女蛾の活発な産卵は見られなくなり、正常系統と同様な緩慢な産卵を行なうようになった。また、体液移植の実験から、液性因子が関与していないことが強く示唆された。さらに電気生理学的な手法によって、TAG由来の神経束のインパルスを測定したところ、xu20処女蛾では正常系統交尾蛾と同じくN4感覚神経に非常に活発なインパルスが計測された。

 以上の結果から、xu20の産卵行動の異常が交尾刺激を受容する神経の異常に由来していることが強く示唆された。このことから、xu20では性フェロモン生産にも異常が起こっている可能性が考えられたので、まず性フェロモン量を測定した。その結果、xu20とほぼ同じ大きさの正常系統では、約700ngのフェロモンが検出されるのに対して、xu20では処女蛾においてもフェロモン量はほとんどの個体で100ngを下回っており、検出限界以下である個体も多数見られた。フェロモン量はVentral Nerve Cordを切断しても回復しなかった。フェロモン生産を抑制する刺激の上位中枢に対する伝達は1時間で成立することが知られているので、このことからもxu20では、交尾刺激が上位中枢に伝達されていることが示唆された。

 フェロモン量の低下がPBAN(Pheromone Biosynthesis Activating Newopeptide)と関連しているかどうかを確認するために、xu20系統の脳・食道下神経節からPBAN持つとされる活性を分画を抽出し、断頭正常系統個体を用いてバイオアッセイを行なった。その結果、xu20脳・食道下神経異説中には顕著なPBAN活性が認められた。xu20では、PBANによって制御されているとされているコーリング行動などもみられないこととあわせて、PBANの分泌が停止されていることが強く示唆された。このことは、交尾蛾においてPBANの分泌が停止しているとするこれまでの報告とよく一致した。

 次に、この突然変異系統の遺伝学的な正常を検討した。正常系統との交雑を行い、雑種第1代(F1)の産卵性を観察したところ、交雑の正逆によらず全ての個体で産卵率が30%以下の正常な産卵性を示した。この結果から、産卵行動の異常を起こす原因遺伝子が劣性であり、性染色体とは連関していないことが分かった。さらに、これらのF1に戻し交雑を行ない、産卵性を調査した結果、正常型の産卵性(産卵率30%以下)を示す個体とxu20型の産卵性(産卵率70%以上)を示す個体の両方が現れ、これらの中間的な産卵性を示す個体も見られた。分離比から判断して、2〜3個の遺伝子が関与していることが示唆された。x2検定の結果からは2個の遺伝子を想定することによって分離比を説明できた。

 さらに、RAPD(Random Amplified Polymorphism DNA)マーカーを用いた連関分析を行なった。その結果、全29連関群のうち分析の可能であった26個の連関群の中で、第29連関群とのみ強い連関が認められた。連関分析の結果からも2個以上の関連群に位置する遺伝子の関わっていることが示唆された。

 以上要するに、本研究は、カイコにおける交尾による産卵行動の活性化が受精嚢で活性化された有核精子が前庭に至る刺激によっていることを明らかにし、この刺激が特定の神経束を介して上位中枢へ伝達されることを明らかにした。突然変異系統の研究から、この過程に2個の遺伝子が関わっていることを示した。また、同じく交尾による性フェロモン生産の抑制が尾部に与えられる機械的な刺激と精子による刺激の両方によって起こることを示し、その過程を明らかにしたものである。

審査要旨

 生殖行動は生物の種の保存にとって重要な意味を持つが、昆虫の雌個体の交尾による生殖行動の変化は顕著で、産卵の活性化や性フェロモン生産の停止などが誘導されることが知られており、生殖行動の複雑性と多様性が認識されつつある。多くの遺伝学的・生理学的な知見が蓄積され、フェロモン生産の過程も詳細に研究されているため、カイコは複雑な行動の機構を明らかにするには極めて好適な昆虫である。本研究は、交尾によるカイコ雌蛾の生殖行動の変化を生理学的にまた遺伝学的に究明したものである。

1.産卵の活性化をもたらす刺激について

 第1章では、これまで多くの研究にもかかわらず未解明であった産卵活性化刺激について解析している。すなわち、交尾嚢除去、去勢雄の交尾、精包抽出物の注入、内部生殖器の移植・結紮、精子除去等の精緻な実験形態学的研究により、(1)交尾嚢が受容するいかなる刺激も(2)交尾嚢・交尾嚢管に由来する内分泌的な刺激も(3)受精嚢への精子による刺激も産卵活性化に関与していないこと、(4)産卵の活性化を起こす必須の刺激は前庭へ成熟した精子が到達することであることを明らかにした。

 さらに、この刺激は腹部最終神経節(TAG)から派出する第4神経束(N4)によって上位中枢に伝達されていることを電気生理学的方法により明らにした。N4感覚神経のインパルス頻度の特異的な上昇は、交尾自体の刺激や交尾嚢の伸展刺激によっては誘導されず、交尾開始からある程度の時間を経ると初めて計測されたことからも、精子の十分な進行によって誘導されていることが支持された。

2.性フェロモン生産を抑制する刺激

 第2章では、カイコの雌蛾の交尾による性フェロモンの生産の停止について調べ、これが交尾による機械的刺激と有核精子が前庭に与える刺激の二つの刺激により誘導されることを明らかにした。また、エーテル麻酔による化学的なストレスや拘束による機械的なストレスによって、交尾による性フェロモン生産の抑制が緩和されることを見いだし、交尾終了後一定の時間を経なければ抑制が固定されないことを示した。また、ストレスは生体アミン類の体内動態に大きな影響を与えることが知られているので、生体アミン類による性フェロモン生産の制御の可能性を検討し、ノルエピネフィリンがフェロモン生産の抑制に関わっている可能性が考えられた。

3.突然変異系統xu20に関する研究

 第3章では、処女蛾においても交尾蛾に匹敵する活発な産卵を行なうカイコの突然変異系統xu20の神経生理学的性状と遺伝学的性状を明らかにし、これまでの結果に対する検証を行なっている。すなわち、神経束切断実験と電気生理学的実験の結果から、xu20の産卵行動の異常が交尾刺激を受容するTAGのN4にあることを明らかにした。また、正常系統では約700ngの性フェロモン量がxu20では処女蛾でもその1/10程度で、中枢神経索を切断しても変化しなかったことから、xu20では交尾刺激が羽化当初から上位中枢に伝達されていると考えられた。フェロモン量の低下がPBAN(Pheromone Biosynthesis Activating Neuropeptide)の異常に起因する可能性を確認するために、xu20系統の脳・食道下神経節からPBANを粗抽出し、断頭正常系統個体を用いて検定した結果、顕著なPBAN活性が認められた。xu20では、PBANは合成されているが分泌が停止されているものと考えられた。

 次に、xu20の遺伝学的な性状を検討した。正常系統との雑種第1代(F1)の産卵性は、交雑の正逆によらず全個体が正常な産卵性を示し、異常産卵行動の原因遺伝子が劣性で性染色体とは連関していないことが判明した。これらのF1に戻し交雑を行ない産卵性を調査した結果、正常型の産卵性を示す個体とxu20型の産卵性を示す個体、および、これらの中間的な産卵性を示す個体が分離した。X2検定の結果からは2個の遺伝子を想定することによって分離比を説明できた。さらに、RAPD(Random Amplified Polymorphism DNA)マーカーを用いた連関分析を行なった結果、第29連関群と強い連関が認められた。

 以上要するに本研究は、カイコの生殖行動の交尾による変化について、受精嚢で成熟した有核精子が前庭に達した刺激が特定の神経束を介して上位中枢へ伝達されることによって産卵行動が誘起され、性フェロモン生産が抑制されること、及び、この過程に2個の遺伝子が関わっていることを明らかにしたもので、複雑な昆虫の生殖行動を生理学的にまた遺伝学的に解明し、基礎的にも応用的にも価値ある知見を与えたものである。よって、審査委員一同は、本論文が博士(農学)の学位論文として十分価値あるものと認めた。

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