学位論文要旨



No 113493
著者(漢字) 鈴木,雅京
著者(英字)
著者(カナ) スズキ,マサタカ
標題(和) カイコにおける遺伝子量補正に関する研究
標題(洋)
報告番号 113493
報告番号 甲13493
学位授与日 1998.03.30
学位種別 課程博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 博農第1852号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 生産・環境生物学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 小林,正彦
 東京大学 教授 平井,篤志
 東京大学 教授 長戸,康郎
 東京大学 助教授 永田,昌男
 東京大学 助教授 嶋田,透
内容要旨

 遺伝子量補正現象とは、X染色体の数が性によって異なることが原因で生じるX染色体の遺伝子数の差異を、遺伝子発現量を雌雄で均等にすることによって補償する現象のことで、いくつかのユニークな遺伝子量補正機構が存在することが明らかにされている。ところが、全ての生物が遺伝子量補正機構を必要とするわけではなく、一部の鱗翅目昆虫や鳥類では遺伝子量補正機構をもたないことが知られている。これに対し、常染色体の遺伝子数は個体間で変動することはないから、遺伝子量補正機構の必要性は全くない。しかし、自然界には生殖細胞における染色体の不分離や多精子受精などによって生じた異数体や倍数体では、常染色体の数が2倍体とは異なる。多くの動物の異数体や倍数体は、著しい形態的異常を伴い、発育途中で致死する個体も多いことから、これらの個体での常染色体の遺伝子発現は2倍体に比べて大きく変動していることが予想される。ところが、動物では異数体や倍数体を誘発することが困難なため、異数体や倍数体における遺伝子発現を詳細に解析した研究は少ない。

 カイコは雌が異形配偶子性の昆虫である。カイコでは数多くの転座系統が確立されており、倍数体の誘発も極めて簡便であることが古くから知られている。そこで本研究ではカイコのZ染色体及び常染色体の遺伝子の遺伝子量補正の有無を明らかにすることを目的として、カイコの性染色体の遺伝子の転写量を雌雄で比較し、さらに常染色体のいくつかの遺伝子の転写量を2倍体と異数体及び3倍体の間で比較することにした。

I.カイコのZ染色体の遺伝子における遺伝子量補正について(1)Z染色体の遺伝子の探索

 カイコのZ染色体の遺伝子を単離する目的で、カイコのZ染色体に座乗しているDNAマーカーの中に機能を有する遺伝子の塩基配列を含むものがあるかどうかを確認するため、それらをプローブとして利用したノーザンハイブリダイゼーションによる解析を行った。その結果、RAPDの1つであるT15.180aが様々な発育ステージのあらゆる組織で転写されていることが確認された。さらにディファレンシャルディスプレイ法を駆使し、Z染色体の遺伝子の単離を試みた。その結果11個の多型を示すcDNAバンドが得られ、このうちの1つであるZDD4がZ染色体に連関していることがわかった。以上の実験結果から、T15.180aとZDD4がカイコのZ染色体上の遺伝子の一部を含むことが予想されたため、さらに詳細な解析を行った。

(2)T15.180aとZDD4のコピー数の推定

 ある遺伝子の転写量を個体間で比較する場合、その遺伝子のコピー数を明らかにしておく必要がある。そこでT15.180aとZDD4をプローブとして用いたゲノムサザンハイブリダイゼーション法を行い、それらのコピー数を推定した結果、いずれも雄で2コピー、雌で1コピー存在することが明らかにされた。

(3)T15.180aの塩基配列の決定と構造の解析

 Tl5.180aのコードしているタンパク質の機能を推定する目的で、塩基配列の決定を行った。その結果T15.180aは605ntのイントロンによって分断された1368ntのORFをもつことが明らかとなった。塩基配列から予想されたアミノ酸配列は約30アミノ酸残基の長さにわたるプロリンリッチな領域をもつという興味深い特徴がみられた。相同性検索を行った結果、プロリンに富んだドメインをもつ多くのタンパク質と部分的な相同性がみられたが、そのいずれもプロリンクラスターをこえた領域にまで及ぶことはなかった。我々はこの新規の遺伝子をT15と名付けることにした。

(4)ZDD4の塩基配列の決定と構造の解析及び遺伝子連関地図上への位置づけ

 ZDD4の塩基配列を決定した結果、1405nt全域にわたってORFをとることができた。ZDD4のコードするアミノ酸配列と相同性を示すタンパク質を探すため、データベース検索を行った結果、ショウジョウバエのkettin、ニワトリのconnectinやtitin、ヒトのtitinと呼ばれる筋タンパク質と高い相同性がみられた。そこでZDD4をショウジョウバエのkettinホモログとみなし、Bm kettinと呼ぶことにした。この遺伝子をカイコの遺伝子連関地図上へマッピングするためにZ染色体の2つの突然変異形質を用いた三点交雑実験を行った。その結果、第一連関群(Z染色体)の40.0の位置に座乗することが明らかとなった。

(5)T15とBm kettinのmRNA量の雌雄間の比較

 以上の実験によって、T15とBm kettinはカイコのZ染色体の単一コピーの遺伝子であることが明らかにされた。そこでこれらの遺伝子のmRNAレベルをノーザンハイブリダイゼーション法によって定量し、雌雄で比較した。5齢幼虫の中腸におけるT15mRNA量を雌雄間で比較した結果、雄のmRNA量が雌のほぼ2倍の数値を示すことがわかった。同様に成虫の飛翔筋における雌雄のBm kettin mRNA量を比較した結果、雄が雌の約2倍のmRNA量をもつことが明らかとなった。これらの実験結果から、T15とBm kettinが遺伝子量補正を受けていないことが示唆された。

(6)T15の対立遺伝子当たりのmRNA量の雌雄間における比較

 遺伝子量補正が起きていないことが事実であるなら、Z染色体上の遺伝子の転写の割合はZZ(雄)の状態でもZW(雌)の状態でも常に変化しないはずである。そこで我々はT15の個々の対立遺伝子の転写量を解析することにした。転写産物の量を対立遺伝子ごとに分けて定量することを可能にするため、T15遺伝子のp50とC108系統の塩基配列の多型を利用した単一塩基プライマー伸長(SNuPE)検定を行い、中腸におけるT15の対立遺伝子当たりのmRNA量を雌雄間で比較した。その結果、T15の対立遺伝子当たりのmRNA量は雌雄で等しい数値を示していた。このことは、T15対立遺伝子の転写レベルがどちらの性においても変化しないことを示している。従って、T15における遺伝子量補正は全くみられないことが明らかとなった。

II.カイコの常染色体の遺伝子における遺伝子量補正について1.カイコの異数体における遺伝子発現の変化

 本実験ではカイコの第2染色体のトリソミック系統(以降Tri2と呼ぶ)を材料に用いた。5齢幼虫期から蛹期にかけての生体重をTri2と2倍体の間で比較したところ、終始2倍体がTri2の生体重を上回っていた。この結果は、異数体は発育不足と発育の遅延を示すという従来の見解と一致するものであった。さらに常染色体の6つの遺伝子(SP-1遺伝子(第23染色体)、SP-2遺伝子(第3染色体)、アルカリフォスファターゼ遺伝子(第3染色体)、トレハラーゼ遺伝子(未知)、カイコのアンテナペディア遺伝子(第6染色体)、コリオン遺伝子(第2染色体))についてそれらのmRNAレベルをTri2と2倍体の間で比較した。その結果、第2染色体以外に位置する全ての遺伝子のmRNAレベルはTri2と2倍体の間で変化がみられなかったが、トレハラーゼ遺伝子のmRNAレベルがTri2において3/4に減少していることが確認された。一方、第2染色体の遺伝子であるコリオン遺伝子のmRNAレベルは2倍体の約4倍の数値を示していた。このことは遺伝子数が増えることによりそのmRNA量も増加することを示しているが、その値は理論値である1.5倍をはるかに上回るものであった。コリオン遺伝子は卵殻タンパクをコードしているため、この遺伝子のTri2における過剰発現が卵形成に与える影響について調べた。その結果、卵殻の形態、卵の大きさ、産下卵数のいずれもが2倍体とほぼ等しく、表現型には遺伝子の過剰発現の影響が及んでいないことがわかった。

2.カイコの倍数体における遺伝子発現の変化

 本実験では、カイコの受精卵に高温処理を加えることにより誘発される3倍体を材料として用いた。この方法によって誘発される3倍体は、不還元型の2倍体卵核(ZW)と1個の精核(Z)が合体することによって生じた3倍体雌(ZZW)であることが確認されている。実験には、p50系統の雌にC108系統の雄を交配することによって得られた産下卵と、その逆交雑によって得られた産下卵に誘発処理を加えることによって得られた3倍体(以降それぞれをPPCとCCPと呼ぶ)を使用した。また、誘発処理を加えなかった産下卵から孵化してきた幼虫を対照個体(以降それぞれをPCとCPと呼ぶ)として供試した。

(1)3倍体における幼虫形質及び生体重の変化

 5齢幼虫の斑紋と繭の形質について3倍体と2倍体で比較したところ、PCとCPはp50とC108の中間的な形質を示したが、p50のゲノムをより多くもつPPCはよりp50に近い形質を示し、C108のゲノムをより多くもつCCPはC108の示す形質をより強く反映していることがわかった。さらに生体重の推移について調べた。その結果、5齢脱皮直後の時点でPC、CP幼虫の生体重がちょうど両親の中間の数値を示した。一方、PPCの生体重はPCやCPの生体重とp50の生体重の中間値を示し、CCPはPCやCPの生体重とC108の生体重のほぼ中間の生体重を示した。雑種強勢現象によって5齢中期から終期にかけての生体重の大小関係は変化したが、化蛹5日目の時点でもCCPの生体重はPCやCPよりも大きく、PPCの生体重が示す数値はC108よりは小さいがp50よりは大きかった。従って、幼虫形質や繭の性状においてみられたように生体重も、p50のゲノムをより多くもつPPCはPCやCPに比べてp50のもつ性質をより強く反映し、C108のゲノムをより多くもつCCPはPCやCPに比べC108のもつ性質をより強く示すということが明らかとなった。

(2)3倍体における細胞の大きさと細胞数の変化

 3倍体の中部絹糸腺の細胞の大きさと数について調査した。その結果、3倍体の中部絹糸腺細胞の大きさはそれぞれの対照個体に比べ有意に大きかった。一方、3倍体の細胞数は2倍体に比べ2/3に減少していた。このことは、細胞の大きさは倍数性の増加とともに肥大化し、細胞数はゲノムサイズの増加に反比例して減少することを示している。ただし、これまでPCとCPが示す幼虫形質や生体重の特徴はほぼ等しかったのに対して、細胞の大きさと数にはPCとCPの間に差がみられた。細胞の大きさに着目するとPPC、PC、CCPとCPの大小関係はCCP>CP≧PPC>PCであり、CPの方がPCに比べて大きかった。C108の方がp50に比べて生体重が大きいことから、PCとCPとの間にみられた細胞の大きさの差は母親として用いた系統の違いに起因すると推察された。このことはPPCとCCPにも反映されており、C108のゲノムを多くもつCCPの方がp50のゲノムをより多くもつPPCよりも細胞の大きさが大きかった。

(3)3倍体における遺伝子発現の変化

 次に常染色体の6つの遺伝子(調査した遺伝子の種類は異数体のときの実験と同じ)のmRNAレベルを調べた。その結果、PCとCPのそれぞれの遺伝子のmRNAレベルはほぼ等しいことがわかった。次にp50とC108を比較したところ、SP-2遺伝子のmRNAレベルが等しい以外は、全ての遺伝子で差がみられることが明らかとなった。このことは2倍体同士でも遺伝子の発現量には系統間差異がみられることを示している。PPCとCCPの遺伝子のmRNAレベルを比較してみると、PPCとCCPの間でほぼ等しい数値を示したのはSP-2遺伝子だけで、それ以外の場合は、PPCでは遺伝子量補正をうけているようにみえるにも関わらず、CCPでは遺伝子量補正がみられず、遺伝子数の増加に応じてmRNAレベルの上昇がみられた遺伝子(トレハラーゼ遺伝子)、その反対にPPCでは遺伝子量に依存した発現を示すのに対して、CCPでは遺伝子量補正をうけているようにみえる遺伝子(コリオン遺伝子)、PPCでは遺伝子量補正をうけているようにみえるが、CCPでは異常に高い発現がみられる遺伝子(SP-1、アルカリフォスファターゼ遺伝子)、どちらも対照個体に比べて高い発現を示してはいるが、その度合いが異なる遺伝子(アンテナペディア遺伝子)がみられた。このように、PPCとCCPは同じ3倍体でありながら、遺伝子発現の特徴は全く異なっており、3倍体に共通にみられる規則性のようなものを発見することは困難であることがわかった。遺伝子発現量の変化のパターンがPPCとCCPで全く異なる原因は、PPCとCCPとではp50型ゲノムとC108型ゲノムの含有率が違うが故に、p50とC108との間にみられる系統間差異のあらわれ方がPPCとCCPとで異なるためであると考えられる。従って、カイコの倍数体では、常染色体の遺伝子は遺伝子量補正をうけておらず、ゲノム量が倍化しても2倍体とほぼ同じ状態で遺伝子の発現が行われていることが予想された。

 以上本研究により、カイコのZ染色体の遺伝子は遺伝子量補正をうけていないことを転写レベルで明らかにすることができた。また、常染色体の遺伝子も遺伝子量補正を受けておらず、異数体や倍数体において遺伝子のコピー数が変化すると、遺伝子発現量も様々に変化することがわかった。

審査要旨

 遺伝子量は、ある遺伝子型における対立遺伝子の数で表される。遺伝子量補正は、性連鎖遺伝子によって支配される形質が遺伝子量によらず同程度に発現されることをいう。補正の機構には、雌の1個のX染色体を異質染色体化する哺乳動物の例、雄のX染色体の転写活性を倍化するハエの例、雌の2本のX染色体の転写活性を半減化する線虫の例がある。雌が異型接合の性染色体をもつ鱗翅目昆虫や鳥類では、これまで遺伝子量補正が認められていない。また、常染色体の場合は遺伝子量が同じなので、通常は補正する必要がないが、ヒトのダウン症のように常染色体のトリソミーが重大な発生異常を誘起することもある。動物では常染色体上の遺伝子についての遺伝子量補正の存否は明らかでない。本論文は、カイコのZ染色体及び常染色体における遺伝子量補正の有無を転写レベルで精査し、遺伝子量補正の意義について考究したものである。

I.カイコのZ染色体の遺伝子における遺伝子量補正について

 カイコのZ染色体に座乗している遺伝子のうち安定して転写量を測定できるものを探索した結果、Z染色体の4種のDNAマーカーをプローブとしたノーザンハイブリダイゼーションによる解析からRAPDの1つであるT15.180aを得、ディファレンシャルディスプレイ法によるZ染色体の遺伝子由来のmRNAの探索からZDD4を得た。T15.180aとZDD4のコピー数の確認を行った結果、いずれも2倍体細胞1個あたり、雄では2コピー、雌では1コピー存在することを明らかした。

 T15.180aは、605塩基のイントロンによって分断された1368塩基のオープンリーディングフレーム(ORF)をもち、塩基配列から約30アミノ酸残基の長さにわたるプロリン残基に富む領域をもつことを明らかにし、T15.180aを含む遺伝子をT15と名付けた。

 ZDD4は、1405塩基の全域にわたるORFをもち、推定されるアミノ酸配列は、ショウジョウバエのkettinおよび脊椎動物のconnectinやtitinと呼ばれる筋タンパク質と高い相同性を示したことから、これをBm kettinと名付けた。Z染色体の2つの可視突然変異osならびにeを用いた三点交雑実験から、Bm kettinはZ染色体の40.0の位置に座乗することを明らかにした。

 T15とBm kettinから転写されるmRNAをノーザンハイブリダイゼーション法によって定量し、雌雄で比較した。5齢幼虫の中腸におけるT15mRNAの存在量は、雄が雌のほぼ2倍であった。同様に成虫の飛翔筋における雌雄のBm kettinmRNAの量を比較した結果、雄が雌の約2倍量のmRNAをもつことが明らかとなった。これにより、T15もBm kettinも遺伝子量補正を受けていないことを証明した。

 次いで、転写量と遺伝子量の関係について調べた。T15遺伝子の塩基配列の多型を利用し、単一塩基プライマー伸長検定を行い、中腸におけるT15の対立遺伝子当たりのmRNA量を雌雄の間で比較した。その結果、T15の対立遺伝子当たりのmRNA量は雌雄で等しい数値を示していた。これにより、転写量は遺伝子量に正確に比例していることを実証し、T15に関しては遺伝子量補正が全く存在していないことを明らかにした。

II.カイコの常染色体の遺伝子における遺伝子量補正について

 カイコの第2染色体のトリソミック系統について、常染色体上の6種の遺伝子のmRNA量を測定した結果、第2連関群以外の遺伝子の転写量は2倍体とほぼ同程度であった。これに対し、第2連関群の遺伝子の転写量は約4倍の数値を示し、遺伝子数の増加によりそのmRNA量も増加することから、常染色体では遺伝子量補正がないと判断した。

 3倍体の中部絹糸腺の細胞の大きさと数について調査した結果、細胞の大きさは倍数性の増加に比例して増大し、細胞数は倍数性の増加に反比例して減少することが判明した。

 次いで、常染色体上の6つの遺伝子の3倍体における転写量を調べた。その結果、交雑の正逆によらず各遺伝子のmRNA量は2倍体と同等以上であった。遺伝子量補正がない場合、理論的には3倍体では2倍体の1.5倍の転写量が予想されるが、実際には同等か数倍になったことから、倍数体でも常染色体の遺伝子は遺伝子量補正を受けていないと推定した。

 以上要するに本研究は、カイコのZ染色体の遺伝子および常染色体の遺伝子が遺伝子量補正を受けていないことを転写レベルで証明すると共に、異数体や倍数体では細胞あたりの転写量が遺伝子量に比例することを明らかにし、性発現と性連鎖遺伝子の遺伝子量補正について学術上、応用上価値ある知見を得た。よって、審査委員一同は本論文が博士(農学)の論文として十分価値あるものと認めた。

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