学位論文要旨



No 113495
著者(漢字) 池田,新矢
著者(英字)
著者(カナ) イケダ,シンヤ
標題(和) 天然高分子電解質分散系の内部構造および物性・機能に関する研究
標題(洋)
報告番号 113495
報告番号 甲13495
学位授与日 1998.03.30
学位種別 課程博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 博農第1854号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 応用生命化学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 助教授 宮脇,長人
 東京大学 教授 山崎,素直
 東京大学 教授 上野川,修一
 東京大学 教授 清水,誠
 東京大学 助教授 吉村,悦郎
内容要旨

 増粘多糖類に代表される天然高分子電解質は、粘弾性・熱特性・保水性などの食品の巨視的物性・機能の制御を目的として広く利用されている。溶液やゲルなどの天然高分子電解質分散系の物性や機能は、温度、pH、添加塩の種類や濃度、高分子濃度等の物理化学的条件によって大きく変化することが知られているが、これまでの研究の多くは組成と物性の相関を定性的に説明するに留まっており、物性発現の機構に関しては不明な点が多い。このような系の物性や機能は、系内における電解質間の相互作用や構造を反映したものであると考えられる。従って、天然高分子電解質分散系の物性や機能を系統的に理解するためには、系内における分子間相互作用や構造の評価手段を確立し、系の内部構造と巨視的物性との関連を明らかにする必要がある。

 本研究においては、食品物性の発現において重要な役割を果たしている天然高分子電解質分散系の物性・機能を系の内部構造との関連において把握することを目的とした。前半では、平衡状態における高分子電解質分散系の巨視的性質と内部電解質の状態との関連を理解することを主眼として、天然高分子電解質ゲルの平衡膨潤挙動の解析を行った。後半においては、系の動的性質の一つである誘電緩和現象に着目し、高分子電解質分散系の物性発現に関与する高分子の分散構造および電解質間相互作用の新たな定量的評価法の構築を目的とした解析を行った。

1.天然高分子電解質の解離平衡1

 高分子電解質分散系の平衡状態における巨視的物性や機能は、電位差滴定のような熱力学的原理に基づく測定法によって得られる高分子電解質の荷電状態と密接な関係があるといわれている。そこで、系の物性・機能に関する基礎的知見を得るために、天然高分子電解質のpHに応答した荷電状態、即ち解離平衡を電位差滴定によって測定し、系内における電解質間相互作用を定量的に把握することを試みた。塩基性多糖であるキトサンの解離平衡は、構成単糖に比較して低pH側へシフトし、高分子電解質の荷電挙動が分子量の影響を受けることが示唆された。更に、酸性多糖共存下におけるキトサンの解離平衡は、酸性多糖量の増加と共に高pH側へシフトし、高分子電解質間の静電的相互作用の増加に伴って解離に必要な自由エネルギーが増加することが示された。これらの結果から、静電的環境に応じて変化する天然高分子電解質の荷電挙動を定量化する手法として、電位差滴定法が有効であることが示された。

2.天然高分子電解質ゲルの平衡膨潤挙動1

 電位差滴定によって求められた高分子電解質の荷電状態と系の巨視的性質との関連を検討するために、酸性多糖および塩基性多糖から調製した両性複合ゲルの塩濃度・pHに応答した平衡膨潤挙動の解析を行った。ゲル浸漬液の組成とゲルの平衡膨潤体積の関係を記述するために、次の4つの前提に基づいたモデルを構築した。

 (1)ゲル内およびゲル外はそれぞれ電気的に中性である。

 (2)ゲル網目を構成する高分子電解質の荷電状態は、電位差滴定によって求められた解離平衡にしたがう。

 (3)ゲル内外への低分子イオンの分配はドナン平衡にしたがう。

 (4)ゲル内外の低分子イオン濃度差に基づく浸透圧とゲル網目が構造を保持しようとする圧力が釣り合うところでゲルの平衡体積が決定する。

 この膨潤モデルを用いてゲル内のナトリウムイオン濃度を予測したところ、実測値と良好に一致したことから、本モデルの妥当性が示された。従って、両性ゲルの平衡膨潤挙動に関する定量的解析法が提示されるとともに、ゲルの平衡膨潤挙動の予測およびゲル内における高分子電解質の荷電状態・低分子イオン濃度の予測が可能となった。

3.天然高分子電解質溶液構造の誘電的解析および溶液粘度との比較2,3

 誘電緩和法は、高分子分散系の微視的構造や相互作用に関する情報を与えうるため、天然高分子電解質分散系の物性に寄与する系の内部構造や電解質間相互作用の定量的評価法として期待できる。そこで、天然高分子電解質溶液の誘電緩和挙動を高分子電解質理論から導出されるスケーリング則を用いて解析し、力学物性の一つである溶液粘度の挙動との比較を行った。

 まず、代表的な食品高分子であるアルギン酸および-カラギーナンの無塩系水溶液について、周波数領域103-107Hzにおける誘電特性を解析した。1MHz近傍において観測された緩和過程に関しては、緩和強度及び緩和時間の濃度依存性がスケーリング則によく一致し、希薄域(∝C1/3∝C-2/3)から準希薄域(∝C0∝C-1)へのクロスオーバー挙動を示した。従って、この誘電緩和の機構が、高分子電解質に緩く束縛された対イオンの相関距離程度の揺らぎによるものであることが確認された。また、系内の低分子イオンの挙動に関する情報として、束縛対イオンの束縛距離d、および束縛対イオン濃度Nbを算出できた。

 次に、化学組成および分子量分布の異なる5種類のアルギン酸について溶液粘度を測定したところ、相対粘度relの濃度依存性は2つのスケーリング関係式によって記述でき、希薄溶液においては(rel-1)∝C1、準希薄溶液においてはrel∝C1/2となった。更に、全ての試料に関して、誘電緩和パラメータ.および相対粘度relの濃度依存性はそれぞれ単一の曲線であらわされ、希薄領域から準希薄領域への移行濃度は全てのパラメータ..relに関して一致した。

 以上の結果から、無塩系天然高分子電解質溶液がスケーリング則で記述可能な構造を有していることが明らかとなり、系の物性をスケーリングの描像に基づいて統一的に把握できることが示唆された。また、誘電緩和法は天然高分子電解質溶液における高分子の分散状態あるいは高分子電解質/低分子イオン間相互作用の解析法として有効であり、誘電測定から得られた系の内部構造が物性の発現機構に深く関与していることが示された。

4.天然高分子電解質分散系のゾル・ゲル転移における構造変化と誘電応答

 天然高分子のゾル・ゲル転移の制御は、食品としての利用上重要な問題である。しかしながら、その機構については、コイル・ヘリックス転移のような高分子の形態変化が関与していることを除いて、未だ不明の点が多い。そこで、ゲル化剤として最もよく利用されている食品高分子である-カラギーナン水分散系を対象として、ゾル・ゲル転移点近傍における誘電緩和を測定し、転移に伴う系の内部構造変化の解析を行った。コイル(無秩序)状態においては、緩和強度および緩和時間の濃度依存性が∝C0および∝C-1とあらわされた。この結果は、線状高分子電解質の準希薄溶液に関するスケーリング則と良好に一致しており、ゾル・ゲル転移点近傍における高分子電解質溶液が準希薄溶液の構造を有していることが明らかとなった。また、一部がヘリックス(秩序)状態をとっている場合は、誘電緩和パラメータの値がスケーリング則による予測値よりも大きな値となり、その差はヘリックス同士の会合が進むにつれて増加することが示唆された。従って、誘電緩和法は、天然高分子電解質分散系のゾル・ゲル転移において、高分子の形態およびその分散構造の変化を解析する手法としても有効であることが示された。

5.天然高分子電解質ゲル内部構造の誘電的解析4

 食品高分子ゲルの高分子網目構造や力学物性は、金属塩の存在によって影響を受けることが知られている。そこで、金属塩を含む食品ゲルの誘電率を測定し、ゲル内の電解質の状態に関する解析を行った。高分子電解質に束縛された対イオンの揺らぎに拠る誘電緩和現象が観測される1MHz付近において、電解質ゲルについては誘電緩和が観測されたが、非電解質ゲルでは観測されなかった。電解質ゲルの緩和強度は高分子濃度あるいは系内のイオン性官能基濃度の増加に伴って増加した。また、緩和時間は高分子濃度の増加に伴うゲル網目サイズの減少とともに減少した。更に、緩和強度および緩和時間の値を用いて、ゲル網目を形成する高分子電解質に束縛されている対イオンの揺らぎの距離d、および束縛対イオン濃度Nbを算出することができた。以上の結果は、食品高分子ゲル内における電解質の状態やゲルの内部構造の解析法として誘電緩和法が有効であることを示している。

 以上、希薄溶液からゲルにいたる濃度領域における天然高分子電解質分散系の内部構造と物性・機能に関する解析を行った結果、系の平衡挙動に関しては、電位差滴定のような熱力学的測定から得られる電解質間相互作用の定量的把握が重要であること、また、誘電緩和のような系の動的性質の解析から得られる系の内部構造に関する情報が物性の把握にとって有用な知見を与えうることが示された。本研究で得られた知見は、食品物性研究に関する新たな視点を提供し、今後のこの分野の発展に寄与することが期待される。

参考文献1.Ikeda.S.;Kumagai.H.;Sakiyama.T.;Chu,C.-H.;Nakamura,K.Method for analyzing pH-sensitive swelling of amphoteric hydrogels.-Application to a polyelectrolyte complex gel prepared from xanthan and chitosan-Biosci.Biotech.Biochem.1995.59.1422-1427.2.Ikeda.S.;Kumagai.H.;Nakamura,K.Dielectric analysis of food polysaccharides in aqueous solution.Carbohydr.Res.1997.301,51-59.3.Ikeda.S.;Kumagai.H.Scaling behavior of physical properties of food polysaccharide solutions:Dielectric properties and viscosity of sodium alginate aqueous solutions.J.Agric.Food Chem.1997.45,3452-3458.4.Ikeda.S.;Kumagai.H.;Nakamura.K.Dielectric analysis of interaction between polyelectrolytes and metal ions within food gels.Food Hydrocolloids 1997.11,303-310.
審査要旨

 一般に、食品の物性や機能は、系の内部構造の反映であると考えられる。よって、巨視的物性の挙動を系統的に理解するためには、系内における分子間相互作用や構造の評価手段を確立し、系の内部構造と巨視的物性との関連を明らかにする必要がある。しかるに、従来の食品物性研究の多くは組成と物性の相関を定性的に説明することに留まっており、物性発現の機構に関しては不明な点が多い。本研究は、食品物性の発現において重要な役割を果たしている天然高分子電解質分散系の物性・機能を系の内部構造との関連において把握することを目的としたものであり、7章から成る。前半では、平衡状態における系の巨視的性質と内部電解質の状態に関する解析を行い、後半においては系の動的性質の一つである誘電緩和現象に基づく内部構造の解析法の構築について述べられている。

 第1章においては、天然高分子電解質分散系の内部構造及び物性の解析に必要な理論を概説した。まず、電解質間相互作用及び高分子電解質の形態、高分子電解質の分散構造に関するスケーリング関係式について説明した。更に、高分子電解質分散系において観測される誘電緩和現象とその機構に関する概略を述べ、誘電緩和パラメータの挙動を記述するためのスケーリング関係式の導出を示した。

 第2章においては、高分子電解質の荷電状態を定量化するために、解離平衡の測定を行った。塩基性多糖及び酸性多糖に関する解析の結果、分子量や共存電解質などの静電的環境に応じて変化する天然高分子電解質の荷電挙動を定量化する手法として、電位差滴定法が有効であることが示された。

 第3章では、電位差滴定によって求められた高分子電解質の荷電状態と系の巨視的性質との関連を検討するために、酸性多糖及び塩基性多糖から調製した両性複合ゲルの塩濃度・pHに応答した平衡膨潤挙動の解析を行った。ゲル浸漬液の組成とゲルの平衡膨潤体積の関係を記述するために、ゲル内電解質の状態やゲル内外への可動イオンの分配を考慮した定量的モデルを構築した結果、両性ゲルの平衡膨潤挙動に関する定量的解析法を提示すると共に、ゲルの平衡膨潤挙動の予測及びゲル内における高分子電解質の荷電状態・低分子イオン濃度の予測を可能とした。

 第4章以下は、高分子分散系の微視的構造に関する情報を与えうる誘電緩和法を用いた内部構造の解析を行った。代表的食品高分子であるアルギン酸及び-カラギーナン水溶液に関して、1MHz近傍において観測された誘電緩和の解析から得られた緩和強度及び緩和時間の濃度依存性は、希薄域から準希薄域へのクロスオーバー挙動を示すスケーリング則によく一致した。従って、この誘電緩和の機構が、高分子電解質に緩く束縛された対イオンの揺らぎに拠ることが確認された。

 第5章においては、電気物性及び力学物性の統一的評価を試みた。化学組成及び分子量分布の異なる数種のアルギン酸溶液について、相対粘度の濃度依存性が希薄及び準希薄領域における2つのスケーリング関係式によって記述できることが示された。また、誘電緩和パラメータ及び相対粘度の濃度依存性は全ての試料に関してそれぞれ同一のスケーリング関係式であらわされ、天然高分子電解質溶液がスケーリング則で記述可能な構造を有していることが明らかとなると共に、系の物性をスケーリングの描像に基づいて統一的に把握できる可能性が示された。

 第6章においては、食品としての利用上重要な問題であるゾル・ゲル転移を高分子のコイル・ヘリックス転移の際に生じる誘電応答の変化から解析した。ゲル化剤として最もよく利用されている食品高分子である-カラギーナンの水分散系について、ゾル・ゲル転移点近傍におけるゾル側の分散構造が準希薄溶液構造を有していることが明らかとなり、ゲル側においては架橋領域を形成しているヘリックス会合体の分散状態に関する情報を得られる可能性が示された。

 第7章においては、金属塩を含む各種食品ゲルの誘電率を測定し、ゲル内の電解質の状態に関する解析を行った。電解質ゲルの誘電緩和パラメータの挙動が系内のイオン性官能基などの電解質の挙動を反映していることが示され、ゲル内で形成されている静電場の様子を反映していると考えられる電解質の状態やゲルの内部構造の解析法として誘電緩和法が有効であることが示された。

 以上述べた通り、本論文は希薄溶液からゾル・ゲル転移及びゲルにいたる天然高分子電解質分散系の内部構造と物性・機能に関する新たな解析法を提示し、食品物性研究に関する新たな視点を提供しており、学術上、応用上貢献するところが少なくない。よって審査員一同は、本論文が博士(農学)の学位論文として価値あるものと判断した。

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