学位論文要旨



No 113498
著者(漢字) 日下部,裕子
著者(英字)
著者(カナ) クサカベ,ユウコ
標題(和) 哺乳類における味覚シグナリングの分子機構に関する研究
標題(洋)
報告番号 113498
報告番号 甲13498
学位授与日 1998.03.30
学位種別 課程博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 博農第1857号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 応用生命化学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 阿部,啓子
 東京大学 教授 鈴木,紘一
 東京大学 教授 長澤,寛道
 東京大学 教授 清水,誠
 東京大学 教授 福井,泰久
内容要旨

 味覚は、口腔内に取り込まれた味物質を摂取すべきか忌避すべきかの判断を司る感覚である。味物質が舌上皮に存在する味蕾の味細胞に受容されることによって発生する味覚は、味細胞のシグナリング機構を経て味神経に伝わり、脳へ達する。すなわち、味細胞の果たす主な役割は、味物質の受容と味神経へのシグナル伝達である。

 味覚の研究は、両生類・哺乳類について生理学的・生化学的に、長年にわたり数多くなされてきたが分子生物学的研究はほとんど行われていなかった。そこで本研究は、味蕾に存在する味覚レセプター、共役するGタンパク質、そしてカルシウムチャンネルを特定し、その構造、機能、及び発現部位を解析することを目的として行った。

1、舌上皮味覚受容組織に発現するG蛋白質共役型レセプター

 はじめに、味物質を受容する分子の解明に当たり、視覚・嗅覚のレセプターがG蛋白質共役7回膜貫通型であることを念頭に置いて研究に着手した。すなわち、味覚のシグナル伝達の過程で甘味は細胞内のcAMPの濃度を上昇させ、苦味は細胞内のIP3の濃度を上昇させることが生理学的・生化学的研究によって明らかにされていることから、味覚も視覚・嗅覚と同様のG蛋白質共役型レセプターを介した系であろうという仮説の基に研究を行った。まず、嗅覚レセプターの構造を参考にし、その中で特に相同性の高い2番目と7番目の膜貫通部位のアミノ酸配列に相当する塩基配列を基にしたプライマーと、ラット舌上皮由来のmRNAから作製したcDNAの鋳型を用いてPCRを行い、G蛋白質共役型レセプターの断片を60種以上得た。これらをアミノ酸配列の相同性に基いて分類すると6つのグループとなった。また、ゲノムサザン分析より、別々の遺伝子に由来することが示唆された。

 次に、RT-PCRクローンをプローブとして舌上皮のcDNAライブラリーのスクリーニングを行い、7回膜貫通ドメインを持つG蛋白質共役型レセプターであるGUST27を得た。GUST27は60のRT-PCRクローンの1つPTE33と最もよく似ており、相同性は80%であった。また、嗅覚レセプターであるOLFF3との相同性は56%と高かったが、視覚レセプターであるロドプシンとの相同性は16%であった。

 GUST27の組織特異的発現を調べるために様々な組織由来のmRNAを用いてノーザンブロット解析を行ったところ、舌上皮にのみハイブリダイズする約2kbのバンドが見られた。in situハイブリダイゼーションを行ってGUST27mRNAの発現部位を調べたところ、味蕾を含む舌上皮に発現することが明らかになった。また、GUST27特異的な抗体を作製して染色を行ったところ、主に味蕾の部分に発色がみられた。以上よりGUST27は味蕾を中心とした場所に発現する味覚レセプターである可能性が強く示唆された。

2味蕾に発現するGタンパク質サブユニットの種類とその発現部位

 味覚シグナリング機構を解明する上で、味蕾に発現する味覚レセプターと共役するGタンパク質を明らかにすることは重要である。一般に、Gタンパク質の種類によってエフェクターおよびセカンドメッセンジャーを推定し、その生理作用を予想することが可能となる。味蕾はI〜IV型の細胞種で構成される40〜70個の細胞集団であり、このうちIII型が味を受容する味細胞とされているが、I、II、III型は全て紡錘形であり、形態上の区別が光学顕微鏡レベルではできない。また、マーカーとなりうる分子も全く特定されていない。そこで、Gタンパク質の主な性質を担うサブユニット(Gタンパク質)に焦点をあて、味蕾に発現している種類、および細胞レベルでの分布を調べることにより味蕾を構成する細胞の類型化を試みた。以後、味蕾を構成するI、II、III型細胞を味蕾細胞と記載する。

 まず、味蕾に発現しているGタンパク質mRNAの種類を調べた。既知の全てのGタンパク質に共通なアミノ酸配列に相当するプライマーと、舌の有郭乳頭から得た約100個の味蕾由来cDNAを鋳型としてPCRを行った。その結果、味蕾にはGiファミリーに属するGi1、Gi2、Gi3、gustducin、Gsファミリーに属するGs、Gqファミリーに属するGq、G15のmRNAが発現していることが明らかになった。G15は今まで造血細胞に特異的であることが知られていたが、今回初めて味蕾に発現することを見出したものでもある。また、Gsはスプライシングの違いによる2種類のmRNAの存在が確認された。図のように、現在までに甘味物質が細胞内のcAMP濃度を上昇させることと、苦味物質が細胞内IP3濃度の上昇、あるいはホスホジエステラーゼ(PDE)の活性化を誘導することが明らかになっていることから、味覚にはGi、Gs、Gqファミリーの関与が示唆されており、今回の結果と一致した。

 続いて、これらのGタンパク質mRNAの発現を調べるためにin situハイブリダイゼーションを行った。その結果、gustducinの発現する細胞は全ての味蕾に認められたが、1つの味蕾内には数個に限られることが明らかになり、gustducinの有無を指標にした味蕾細胞の分類が可能になった。一方、Gs、Gi2はどの味蕾にも、gustducinと比較して明らかに多くの細胞に発現していた。そこで発現パターンの異なるgustducinとGsを対象としたsingle-cell RT-PCRより、各々のmRNAを発現している細胞の割合を調べた。Single-cellは舌上皮をコラゲナーゼ処理後、遊離した細胞のうち紡錘形のものを単離することにより選択した。その結果、細胞106個の内、35個にgustducinが、44個にGsが、20個に両者の発現が認められた。Gsとgustducinは味覚のシグナル伝達に関与するセカンドメッセンジャーであるcAMP量を正反対に調整する役割を持つ。従って、セカンドメッセンジャーの1つに限定して考えても、それを増加、減少、増減といった応答の異なる細胞が味蕾に存在することを示し、味覚の複雑さを表している。

図表

 次に、味蕾由来のGタンパク質の細胞内での局在を、抗体を用いて染色した。その結果、Gタンパク質の発現は2パターンを示した。すなわち、Gi1、Gi2、Gi3、Gsは味孔に局在し、gustducin、Gq、G15は細胞内全体に存在した。味孔は味物質と生体との接点であることから、味孔に存在が認められる複数種のGタンパク質は、そこに発現している可能性のある味覚レセプターと共役しうると考えられる。しかも、これらのGタンパク質及びレセプターが多種であることは、シグナル伝達のスキームに多様な組み合わせがあることを示唆する。実際に、gustducinが蔗糖やデナトニウムの苦味のシグナリングに関与することが、ノックアウトマウスを用いた実験により既に報告されている。しかし、gustducinノックアウトマウスはサッカリンの甘味の感受性を有し、苦味に対する感受性を大部分残していることも明らかになっている。よってgustducinを介さない甘味と苦味に対しては他のGタンパク質が関与すると思われる。特に、G15はGiファミリーやGsファミリーに結合するレセプターにも共役するユニークな性質を持っていることが報告されており、G15は味蕾に存在している様々なGタンパク質共役型レセプターと結合して細胞内のIP3濃度を上昇させる可能性が示唆された。

3味蕾に発現する電位依存性カルシウムチャンネル

 味を受容した味細胞はシナプスで神経伝達物質を放出して味神経にシグナルを伝達する。神経伝達物質の放出にはシナプス部位のカルシウムイオン濃度の上昇が必要であるとされ、電位依存性カルシウムチャンネルを介して細胞外からカルシウムイオンを取り込んだ結果引き起こされることが多い。味蕾には様々な組織に発現するL、T型のカルシウムチャンネルが存在することが生理学的に示唆されているが、分子生物学的には明かではなかった。そこで味蕾に発現しているカルシウムチャンネルの種類およびその発現部位を解析することにした。

 まず、ラット有郭・葉状乳頭上皮由来のmRNAを用いてRT-PCRを行ったところ、予想されたL型のみならず、今までその存在が示唆されていない神経特異的なP(Q)型、N型も存在することが明らかとなった。

 次に、それぞれの抗体を用いて抗体染色を行い有郭乳頭における発現部位を調べた。その結果、L、N、P(Q)型全てのカルシウムチャンネルが味孔に局在していることが示された。味孔でのカルシウムイオンの働きを示唆する知見は皆無であるが、味受容あるいはシグナル伝達に何らかの関わりを持つ可能性がある。また、神経性のN、P(Q)型は味蕾中の数個の細胞の基底部側に局所的な発現が見られた。一般に、N、P(Q)型は神経のシナプス前膜に存在し、シグナル伝達物質の放出に関与することが知られており、味蕾細胞の基底部側に存在するシナプス部位もシナプス前膜に相当することから、味蕾に存在するN、P(Q)型は味蕾細胞から味神経へのシグナル伝達物質の放出にも関与していると考えられた。この成果はシグナル伝達物質そのものを特定する研究に貢献するはずである。

4まとめ

 本研究において、味蕾を含む上皮に発現するレセプターをクローニングし、それらが味覚レセプターであることを強く示唆する結果を得た。続いて味蕾に存在するGタンパク質及びカルシウムチャンネルの種類、発現パターンを解析した。その結果、gustducinとカルシウムチャンネル、N、P(Q)型がそれぞれ限られた細胞に発現していることが初めて明らかになった。味蕾細胞は形態学的解析によって4種類に分類されてきたが、今後、gustducinとカルシウムチャンネルの発現を免疫電顕で明らかにすることにより、味蕾細胞の分類ならびに役割を分子レベルで定義しうる可能性を示した。また、本研究では細胞レベルでのRT-PCRを確立した。この成果は、1つの味物質に対して特徴的な電気シグナルを発生する味蕾細胞に特異的な分子の解明に繋がるのみならず、細胞の分子生物学的研究一般に普く貢献すると考えられる。

発表論文

 1.Abe,K.,Kusakabe,Y.,Tanemura,K.,Emori,Y.and Arai,S.(1993)FEBS Lett.,316,253-256.

 2.Abe,K.,Kusakabe,Y.,Tanemura,K.,Emori,Y.and Arai,S.(1993)J.Biol.Chem.,268,12033-12039.

 3.Kusakabe,Y.,Abe,K.Tanemura,K.,Emori,Y.and Arai,S.(1996)Chem.Senses,21,335-340.

 4.Kusakabe,Y.,Arai,S.and Abe,K.(1997)Chem.Senses,22,228.

審査要旨

 本論文は哺乳類における味覚シグナリングの分子機構に関するもので三章よりなる。味覚は、食品の属性を代表するものの1つであり、味覚シグナリングを明らかにすることは新たな食品の品質設計に寄与する。本論文は分子生物学的立場から、味覚シグナリングに関与する分子の構造、機能、及び発現部位の解析を行っている。

 第一章では舌上皮味覚受容組織に発現するG蛋白質共役型レセプターについて述べている。生理学的・生化学的研究より、甘味・苦味は視覚・嗅覚と同様のG蛋白質共役型レセプターを介した系であろうという仮説をたて、研究を行った。嗅覚レセプターの構造を参考にして、RT-PCRよりラット舌上皮からG蛋白質共役型レセプターの断片を60種以上得て、アミノ酸配列の相同性に基いて6つのグループに分類した。次に、RT-PCRクローンをプローブとして舌上皮のcDNAライブラリーのスクリーニングを行い、嗅覚レセプターと近縁なG蛋白質共役型レセプターであるGUST27を得た。組織学的研究よりGUST27は味蕾を中心とした上皮に発現する味覚レセプター候補であることが示唆された。

 第二章では味蕾に発現するGタンパク質サブユニットの種類とその発現部位に関しての研究を行っている。味覚シグナリング機構を解明する上で、味蕾に発現する味覚レセプターと共役するGタンパク質を明らかにすることは重要である。また、味蕾はI〜IV型の細胞種で構成される40〜70個の細胞集団であり、このうちIII型が味を受容する味細胞とされているが、I、II、III型は全て紡錘形であり、形態上の区別が光学顕微鏡レベルではできない。そこで、Gタンパク質の主な性質を担うサブユニット(Gタンパク質)に焦点をあて、味蕾に発現している種類、および細胞レベルでの分布を調べることにより味蕾を構成する細胞の類型化を試みた。味蕾由来fs-cDNAを鋳型としてPCRを行い、生理学的・生化学的に味覚に関与することが予想されているGi、Gs、Gqファミリーに属すGタンパク質が味蕾に存在することを示した。続いて、これらのGタンパク質mRNAの発現を調べた。in situハイブリダイゼーションによって発現パターンの異なることを明らかにしたgustducinとGsを対象としてsingle-cell RT-PCRを行い、各々のmRNAを発現している細胞の割合を調べた。その結果、味蕾は発現するGタンパク質の組み合わせが異なる細胞の集合体であることが明らかになり、味蕾細胞をシグナリングに関与する分子によって分類することに初めて成功した。次に、味蕾由来のGタンパク質の細胞内での局在を抗体染色より明らかにした。Gタンパク質の発現は、味孔に局在する種と細胞全体に存在する種の2つに分かれることを示した。味孔は味物質と生体との接点であることから、味孔に存在が認められる複数種のGタンパク質は、そこに発現している可能性のある味覚レセプターと共役しうると考えられる。ノックアウトマウスを用いた実験によりgustducinは甘味や苦味のジグナリングに関与することが報告されているが、一部に限られている。よってgustducinを介さない甘味と苦味に対しては他のGタンパク質が関与すると思われる。

 第三章では味蕾に発現する電位依存性カルシウムチャンネルの解析を行っている。味を受容した味細胞はカルシウムチャンネルを介して細胞外からカルシウムイオンを取り込んでシナプスで神経伝達物質を放出して味神経にシグナルを伝達する。そこで味蕾に発現しているカルシウムチャンネルの種類およびその発現部位について述べている。RT-PCRよりラット有郭・葉状乳頭上皮には予想されたL型のみならず、今までその存在が示唆されていない神経特異的なP(Q)型、N型も存在することが明らかとなった。また、抗体染色を行い、L、N、P(Q)型全てのカルシウムチャンネルが味孔に局在して味受容あるいはシグナル伝達に何らかの関わりを持つ可能性を示した。また、神経性のN、P(Q)型の基底部側に局所的な発現を示し、味神経へのシグナル伝達物質の放出に関与することを示唆した。この成果はシグナル伝達物質そのものを特定する研究に貢献するはずである。

 以上本論文は、味蕾に存在して味覚シグナリングに関与する可能性のある分子の種類、および発現パターンを解析した。この成果は、1つの味物質に対して特徴的な電気シグナルを発生する味蕾細胞に特異的な分子の解明に繋がるのみならず、細胞の分子生物学的研究一般に普く貢献すると考えられ、学術上、応用上、貢献するところが少なくない。よって審査員一同は、本論文が博士(農学)の学位論文として価値のあるものと認めた。

UTokyo Repositoryリンク http://hdl.handle.net/2261/54640