学位論文要旨



No 113502
著者(漢字) 田中,健一
著者(英字)
著者(カナ) タナカ,ケンイチ
標題(和) 細胞の増殖分化に関わるリン脂質ホスファチジルイノシトール三リン酸に結合するタンパク質の同定と性質の解析
標題(洋)
報告番号 113502
報告番号 甲13502
学位授与日 1998.03.30
学位種別 課程博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 博農第1861号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 応用生命化学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 福井,泰久
 東京大学 教授 松澤,洋
 東京大学 教授 秋山,徹
 東京大学 助教授 加藤,茂明
 東京大学 講師 永田,諭志
内容要旨

 ホスファチジルイノシトール3キナーゼ(PI3キナーゼ)は数多くの原癌遺伝子や細胞の増殖にかかわるシグナル伝達分子の多くと結合し活性化されることから、細胞増殖の制御に深く関与する酵素であると考えられている。多くの研究者が詳しく研究を進めた結果、インスリンの作用に必須であるため糖尿病と関連があること、細胞の運動性にも関与することから癌の浸潤、転移と関連していることなど、臨床医学上も重要なことがわかってきた。試験管内では神経細胞の突起の伸長に必須であるということや、破骨細胞の骨吸収において波状縁の形成にも必要であること、細胞増殖因子のシグナルの核への伝達に関与することなども明らかされている。この酵素は増殖因子などの刺激に応じて細胞内でホスファチジルイノシトール-4,5-二リン酸(PI-4,5-P2)のD3位をリン酸化し、ホスファチジルイノシトール-3,4,5-三リン酸(PIP3)を生ずることが明らかになっているが、このPIP3が次に何を引き起こすのかは明らかになっていないことが多い。最近、プロテインキナーゼCのある種のアイソザイムや、セリンスレオニンキナーゼAktなどがPI3キナーゼの下流因子として同定されている。しかし、これまでに報告がされている、PI3キナーゼが関わる多様な生命現象を考えると、すでに同定されている因子だけでは説明ができない。そこで、新たな下流因子を見い出すためにPI3キナーゼの生産物であるPIP3に結合するタンパク質を同定することを試みた。PIP3は細胞を増殖因子などで刺激するとすみやかに生産されるが、細胞内におけるPIP3の量は非常に少なく、全リン脂質の0.1%前後であることから細胞からのPIP3の精製は非常に困難であり、また、PIP3の有機合成も困難であることからPIP3の標的分子の同定はほとんど行われていなかった。本研究では、PIP3アナログを合成してビーズと結合し、アフィニティーカラムを作成し、PIP3に特異的に結合するタンパク質を精製、同定した。さらに、このPIP3結合タンパク質に対するモノクローナル抗体を作成し、それを用いて性質を調べた。また、PIP3結合タンパク質に結合するタンパク質を酵母のtwo hybrid systemを用いて同定した。

1.PIP3アナログを用いたPIP3結合タンパク質の同定

 PIP3はリン酸化されたイノシトール環がジアシルグリセロール基とリン酸エステルを介して結合している。一方のアシル基は炭素同士の二重結合を含んでおり、このことが合成を困難にしている。PI3キナーゼの基質であるPI-4,5-P2と反応産物であるPIP3を比較した場合、D3位のリン酸基の有無だけが違いであることから、PIP3の標的分子はこのイノシトール環のリン酸基の周囲だけを認識していると考えられる。このことから、本研究ではこの近傍の立体構造が保存されており、なおかつ合成が容易に行えるPIP3アナログを合成し、PIP3類似化合物として用いることとした。合成されたPIP3アナログはAffiGel 10と結合させ、アフィニティーゲルを作成した。さらに、PIP3に特異的に結合するタンパク質がを選ぶために、合成したPIP3を用いて競合実験を行った。各種の臓器または培養細胞に目的とするタンパク質が存在するかを調べた結果、いくつかの臓器および培養細胞に共通するタンパク質とそれぞれに特異的なタンパク質が存在した。最も微量のPIP3によってアフィニティーゲルとの結合が阻害される43kDaのタンパク質が脳で多く見られたので、このタンパク質を牛の脳から精製しPIP3BPと名付けた。PIP3BPの部分アミノ酸配列を決定し、そのアミノ酸配列を元に混合オリゴヌクレオチドを合成し、それをプライマーとしてRT-PCRを行った。その結果、目的の遺伝子断片が増幅され、それをプローブとして牛の脳のcDNAライブラリーをスクリーニングしたところ、全長を含む約2.1kbpのクローンを得た。その塩基配列を解析した結果、373アミノ酸からなるオープンリーディングフレームが存在することが明らかになった。そのオープンリディングフレームはADPリボシル化因子のGTPase活性化タンパク質の触媒ドメインと相同性を示す領域と、2つのプレクストリンホモロジードメイン(PHドメイン)を含んでいた。ADPリボシル化因子は出芽酵母における遺伝学的解析などから、蛋白質の輸送に関与していることがわかっている。PI3キナーゼは細胞増殖の制御に関わっている他にも、蛋白質の輸送にも関与しているという報告も最近増加している。したがって、PI3キナーゼからのシグナルはその生産物であるPIP3がPIP3BPに結合することによって、ADPリボシル化因子に伝えられ、蛋白質の輸送が行われるのではないかということが予想された。ADPリボシル化因子のGTPase活性化能を測定したが、この測定系はまだ完全に確立されておらず、測定が困難なため、ADPリボシル化因子のGTPase活性化能を見い出すには至らなかった。

 PIP3BPの性質を調べるため、GST融合タンパク質を大腸菌で発現させ精製した。その結果、その蛋白質はイノシトール-1,3,4,5-四リン酸、ホスファチジルイノシトール-4,5-二リン酸、ホスファチジルイノシトール-3,4-二リン酸、ホスファチジルイノシトール-3-リン酸とは結合せず、PIP3と特異的に結合することが明らかとなった。さらに、PIP3がPIP3BPにおいてどの領域と結合するか調べた。すでに、Tecチロシンキナーゼ、BrutonチロシンキナーゼなどがそれらのPHドメインを介して、PIP3と結合することがわかっている。そこで、PIP3BPのPHドメインの活性を失わせる変異を導入して検討した結果、PIP3BPの二つのPHドメインの両方を変えた変異体は結合能を完全に失っていた。このことから、PIP3との結合には二つのPHドメインの両方が必要ということが示唆された。

2.モノクローナル抗体を用いたPIP3BPの性質の解析

 PIP3BPの性質を調べるために、モノクローナル抗体を作成した。精製したPIP3BPのGST融合タンパク質を抗原として、常法に従って、ハイブリドーマを作成した。数種類のモノクローナル抗体のうち、PIP3BPのzinc finger motifをエピトープとするモノクローナル抗体13-14を用いてラットの各種臓器をwestern blottingで解析した結果、脳に高い発現が認められた。さらに、ラットの脳の凍結切片を用いて、免疫染色およびin situ hybridyzationで解析した結果、PIP3BPはneuronに特異的に発現していることがわかった。このことは、neuronおよびgliaの初代細胞のwestern blottingでも確認された。さらに、脳の発達に伴う発現量の変化を調べると、embryoの17日でわずかに発現が見られ、出生直後に急激に発現が増加することがわかった。出生三日後のラットの脳の切片を免疫染色した結果、PIP3BPは増殖中のグリア細胞には発現が見られず、分化したneuronに発現が見られた。ラットの脳ではembryoの17日に分化したneuronの層がわずかにでき始め、出生後七日目からシナプスの形成が始まることがわかっている。従って、PIP3BPは細胞の増殖には関与しないが、シナプスの形成直前にneuron特異的におこる現象に関与していることが考えられた。

 PIP3BPの細胞内での局在を調べるため、大腸癌細胞HCC2998を用いて免疫染色および生化学的分画を行った。その結果、PIP3BPは核内に局在することが示唆されたので、PIP3BPのGreen fluorescence protein融合タンパク質を作成して確かめた。また、PIP3BPの各種deletion mutantの局在も検討した結果、PIP3BPが核内に局在するためにはN末端の約10アミノ酸が必要なことがわかった。この10アミノ酸は核移行シグナルと思われる配列KERRKを含んでいた。PIP3はPI3キナーゼによって生産されるがPI3キナーゼは増殖因子受容体によって活性化されるため、これまでのところ、PIP3は細胞膜に存在していると考えられていた。しかし、PIP3の受容体と思われるPIP3BPは核内に局在することから、PI3キナーゼを介した新しいシグナル伝達経路の存在が示唆された。

3.PIP3BPに結合するタンパク質の同定

 PIP3BPの細胞内における生理的役割を調べる手がかりを得るため、酵母のtwo hybrid systemを用いて、PIP3BPに結合するタンパク質をhuman brainのcDNAライブラリーからスクリーニングした。1.6x107個のコロニーをスクリーニングした結果、kinesin like proteinと相同性のある新規タンパク質を単離した。第1章でPIP3結合タンパク質は、小胞輸送に関わる低分子量Gタンパク質ARFのGTPase活性化能に必要なzinc finger motifと相同性のある領域を持つことを明らかにしたが、小胞輸送に関わることの直接の証拠は得られていない。しかし、PIP3BPが、小胞輸送のモータータンパク質として働いているkinesin like proteinと相同性のあるタンパク質と結合していることが明かとなって、小胞輸送に関与している可能性が高まった。

まとめ

 PI3キナーゼを介したシグナル伝達におけるセカンドメッセンジャーPIP3の受容体と思われるタンパク質、PIP3BPを同定した。このタンパク質は、小胞輸送に関わる低分子量Gタンパク質ARFのGTPase活性化能に必要なzinc finger motifと相同性のある領域と、リン脂質の結合に必要なドメインのPHドメインを持つことを明らかにした。そのタンパク質は脳で高い発現が見られたが、脳における局在、発現の時期の解析から、脳におけるPIP3BPの生理的役割を考察した。また、細胞内では核内に局在することを明らかにし、PI3キナーゼを介した新しい核内シグナル伝達経路の存在を示唆した。さらに、PIP3BPに結合する新規のkinesin like proteinを同定し、PI3キナーゼを介した小胞輸送が、PIP3BPを介して行われていることを示唆した。従来からPI3キナーゼがタンパク質の小胞輸送に関与している可能性が示唆されているが、その実態は明らかでなかった。本研究ではその説明の糸口が見つかったと考えられる。

審査要旨

 ホスファチジルイノシトール3キナーゼ(PI3キナーゼ)は細胞増殖の制御や細胞骨格の制御、蛋白質の輸送などに関与する酵素で、糖尿病、癌の転移など医学的にも注目を集めている。この酵素はホスファチジルイノシトール-4,5-二リン酸(PI-4,5-P2)をリン酸化し、ホスファチジルイノシトール-3,4,5-三リン酸(PIP3)を生ずるが、このPIP3が次に何を引き起こすのかは明らかになっていないことが多い。最近、下流因子がいくつか同定されているが、PI3キナーゼが関わる多様な生命現象を考えると、すでに同定されている因子だけでは説明ができない。第1章でPI3キナーゼの情報伝達研究の現状を解説した後、第2章では新たな下流因子を見い出すためにPIP3に結合するタンパク質を同定することを試みた。

 PIP3アナログを合成し、アフィニティーゲルを用いて、各種の臓器または培養細胞に目的とするタンパク質が存在するかを調べた。最も微量のPIP3によって結合が阻害される43kDaのタンパク質が脳で多く見られたので、これを牛の脳から精製しPIP3BPと名付けた。部分アミノ酸配列を決定し、そのアミノ酸配列を元にRT-PCRを行った。その結果、目的の遺伝子断片が増幅され、それをプローブとして牛の脳のcDNAライブラリーをスクリーニングしたところ、全長を含む約2.1kbpのクローンを得た。塩基配列を解析した結果、373アミノ酸からなるオープンリーディングフレームが存在し、ADPリボシル化因子(ARF)のGTPase活性化タンパク質(GAP)の触媒ドメインと相同性を示す領域と、2つのプレクストリンホモロジードメイン(PHドメイン)を含んでいた。ARFは小胞輸送に関わる低分子量G蛋白質でPI3キナーゼと小胞輸送の関係が考えられた。

 PIP3BPのGST融合タンパク質はイノシトール-1,3,4,5-四リン酸、ホスファチジルイノシトール-4,5-二リン酸、ホスファチジルイノシトール-3,4-二リン酸、ホスファチジルイノシトール-3-リン酸とは結合せず、PIP3と特異的に結合することが明らかとなった。PIP3BPのPHドメインの活性を失わせる変異を導入して検討した結果、PIP3BPの二つのPHドメインの両方を変えた変異体は結合能を完全に失っていた。このことから、PIP3との結合には二つのPHドメインの両方が必要ということが示唆された。

 第3章では、PIP3BPの性質を調べるためにモノクローナル抗体を作成した。その抗体を用いてラットの各種臓器をwestern blotting法で解析した結果、脳に高い発現が認められた。さらに、免疫染色およびin situ hybridyzationで解析した結果、PIP3BPはneuronに特異的に発現していることがわかった。脳の発達に伴う発現量の変化を調べると、embryoの17日でわずかに発現が見られ、出生直後に急激に発現が増加することがわかった。PIP3BPの細胞内での局在を調べるため、大腸癌細胞HCC2998を用いて免疫染色および生化学的分画を行った。その結果、PIP3BPは核内に局在することが示唆されたので、PIP3BPのGreen fluorescence protein融合タンパク質を作成して確かめた。また、PIP3BPが核内に局在するためにはN末端の約10アミノ酸が必要なことがわかつた。PIP3はPI3キナーゼによって生産されるがPI3キナーゼは増殖因子受容体によって活性化されるため、これまでのところ、PIP3は細胞膜に存在していると考えられていた。しかし、PIP3の受容体と思われるPIP3BPは核内に局在することから、PI3キナーゼを介した新しいシグナル伝達経路の存在が示唆された。

 その後、酵母のtwo hybrid systemを用いて、PIP3BPに結合するタンパク質をhuman brainのcDNAライブラリーからスクリーニングし、kinesin like proteinと相同性のある新規タンパク質が単離された。このこととPIP3BPのARF-GAPとのホモロジーを考えあわせるとPI3キナーゼはPIP3BPを介して核における小胞輸送に関与している可能性が高いと言えた。

 以上本論文はPI3キナーゼの役割を解明する手がかりとして新規のPIP3結合蛋白質PIP3BPを同定し、その性質から従来細胞膜に主に作用すると考えられていたPI3キナーゼが核でも作用しうることを示唆したものであって、今後の細胞生物学、医学の分野において学術上、応用上貢献するところが少なくない。よって審査委員一同は本論文が博士(農学)の学位論文として価値あるものと認めた。

UTokyo Repositoryリンク