ホスファチジルイノシトール3キナーゼ(PI3キナーゼ)は細胞増殖の制御や細胞骨格の制御、蛋白質の輸送などに関与する酵素で、糖尿病、癌の転移など医学的にも注目を集めている。この酵素はホスファチジルイノシトール-4,5-二リン酸(PI-4,5-P2)をリン酸化し、ホスファチジルイノシトール-3,4,5-三リン酸(PIP3)を生ずるが、このPIP3が次に何を引き起こすのかは明らかになっていないことが多い。最近、下流因子がいくつか同定されているが、PI3キナーゼが関わる多様な生命現象を考えると、すでに同定されている因子だけでは説明ができない。第1章でPI3キナーゼの情報伝達研究の現状を解説した後、第2章では新たな下流因子を見い出すためにPIP3に結合するタンパク質を同定することを試みた。 PIP3アナログを合成し、アフィニティーゲルを用いて、各種の臓器または培養細胞に目的とするタンパク質が存在するかを調べた。最も微量のPIP3によって結合が阻害される43kDaのタンパク質が脳で多く見られたので、これを牛の脳から精製しPIP3BPと名付けた。部分アミノ酸配列を決定し、そのアミノ酸配列を元にRT-PCRを行った。その結果、目的の遺伝子断片が増幅され、それをプローブとして牛の脳のcDNAライブラリーをスクリーニングしたところ、全長を含む約2.1kbpのクローンを得た。塩基配列を解析した結果、373アミノ酸からなるオープンリーディングフレームが存在し、ADPリボシル化因子(ARF)のGTPase活性化タンパク質(GAP)の触媒ドメインと相同性を示す領域と、2つのプレクストリンホモロジードメイン(PHドメイン)を含んでいた。ARFは小胞輸送に関わる低分子量G蛋白質でPI3キナーゼと小胞輸送の関係が考えられた。 PIP3BPのGST融合タンパク質はイノシトール-1,3,4,5-四リン酸、ホスファチジルイノシトール-4,5-二リン酸、ホスファチジルイノシトール-3,4-二リン酸、ホスファチジルイノシトール-3-リン酸とは結合せず、PIP3と特異的に結合することが明らかとなった。PIP3BPのPHドメインの活性を失わせる変異を導入して検討した結果、PIP3BPの二つのPHドメインの両方を変えた変異体は結合能を完全に失っていた。このことから、PIP3との結合には二つのPHドメインの両方が必要ということが示唆された。 第3章では、PIP3BPの性質を調べるためにモノクローナル抗体を作成した。その抗体を用いてラットの各種臓器をwestern blotting法で解析した結果、脳に高い発現が認められた。さらに、免疫染色およびin situ hybridyzationで解析した結果、PIP3BPはneuronに特異的に発現していることがわかった。脳の発達に伴う発現量の変化を調べると、embryoの17日でわずかに発現が見られ、出生直後に急激に発現が増加することがわかった。PIP3BPの細胞内での局在を調べるため、大腸癌細胞HCC2998を用いて免疫染色および生化学的分画を行った。その結果、PIP3BPは核内に局在することが示唆されたので、PIP3BPのGreen fluorescence protein融合タンパク質を作成して確かめた。また、PIP3BPが核内に局在するためにはN末端の約10アミノ酸が必要なことがわかつた。PIP3はPI3キナーゼによって生産されるがPI3キナーゼは増殖因子受容体によって活性化されるため、これまでのところ、PIP3は細胞膜に存在していると考えられていた。しかし、PIP3の受容体と思われるPIP3BPは核内に局在することから、PI3キナーゼを介した新しいシグナル伝達経路の存在が示唆された。 その後、酵母のtwo hybrid systemを用いて、PIP3BPに結合するタンパク質をhuman brainのcDNAライブラリーからスクリーニングし、kinesin like proteinと相同性のある新規タンパク質が単離された。このこととPIP3BPのARF-GAPとのホモロジーを考えあわせるとPI3キナーゼはPIP3BPを介して核における小胞輸送に関与している可能性が高いと言えた。 以上本論文はPI3キナーゼの役割を解明する手がかりとして新規のPIP3結合蛋白質PIP3BPを同定し、その性質から従来細胞膜に主に作用すると考えられていたPI3キナーゼが核でも作用しうることを示唆したものであって、今後の細胞生物学、医学の分野において学術上、応用上貢献するところが少なくない。よって審査委員一同は本論文が博士(農学)の学位論文として価値あるものと認めた。 |