学位論文要旨



No 113514
著者(漢字) 大泉,宏
著者(英字)
著者(カナ) オオイズミ,ヒロシ
標題(和) イシイルカの摂餌生態
標題(洋)
報告番号 113514
報告番号 甲13514
学位授与日 1998.03.30
学位種別 課程博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 博農第1873号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 水圏生物科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 宮崎,信之
 東京大学 教授 沖山,宗雄
 東京大学 教授 川口,弘一
 東京大学 教授 寺崎,誠
 国立科学博物館 室長 窪寺,恒巳
内容要旨 緒言

 イシイルカは北太平洋、ベーリング海、日本海、オホーツク海の寒冷水域に広く生息するネズミイルカ科の小型鯨類で、truei型とdalli型の二体色型がある。その推定頭数の合計は約200万頭を超え、北部北太平洋では最も頭数の多いイルカの一種と考えられている。イシイルカは海洋における高次捕食者として生態系内で一定の役割をになっていると期待される。本研究では、イシイルカの分布のほぼ全域において主として春から秋にかけ捕獲調査を行い、合計476頭分のイシイルカ胃内容物組成等の資料を解析して、イシイルカの摂餌様式、摂餌量、栄養段階等の摂餌生態を明らかにした。

 北太平洋およびベーリング海における餌の地理的変異

 北太平洋およびベーリング海から得られたイシイルカ胃内容物を、便宜上、西太平洋区(140°E-160°E)、中部西太平洋区(160°E-180°)、中部東太平洋区(180°-160°W)、東太平洋区(160°W-137°W)、ベーリング海の合計5つの海域を設定してそれぞれの範囲内で解析し、餌の地理的変異を検討した。その結果、魚類中全ての海域で最も数が多かったのはハダカイワシ科魚類(74%)であった。海区別に見ると、西太平洋区ではオオクチイワシが全魚数の32%を占め、これにトドハダカ(20%)、オオメハダカ(14%)が続いた。中部西太平洋区ではトドハダカが24%でもっとも数が多く、次にソコイワシ科(16%)、シンジュエソを中心とした他の中深層性魚類(15%)、ゴコウハダカ(11%)が続いた。中部東太平洋区ではオオメハダカが43%を占め、ついでトドハダカが36%であった。東太平洋区では51%をトドハダカが占め、コヒレハダカ(20%)、オオメハダカ(13%)がそれに続いた。ベーリング海ではコヒレハダカが全魚数の70%を占めた。一方、イカ類はベーリング海では平均捕食数が67尾で魚類の32尾より多かったが、他の4海域では5〜31尾で魚類(65〜201尾)より少なかった。出現種はどの海域でもテカギイカ科が最も多かった(89%)。西太平洋区ではテカギイカが全体の47%を占め、他のテカギイカ科が13%であった。中部西太平洋区ではタコイカとヒメドスイカがそれぞれ約30%を占めた。中部東太平洋区ではタコイカが全イカの数のほぼ半分を占め、ヒメドスイカ、ツメイカがそれに続いた。東太平洋区でもタコイカが最も数多く、約4割を占めた。ベーリング海ではテカギイカ、ヒメドスイカ、タコイカが数量的にほぼ拮抗していた。その他に各海域でホタルイカモドキ科イカ類やスカシイカやクジャクイカなどが捕食されていた。

 この胃内容物分析からまとめた魚類に対する平均捕食数の順位と、500m以浅のネットサンプリングによる中深層魚類の豊度の順位(Willis et al.1988)を海域ごとに比較した結果、ネットサンプリングで多かったトドハダカ、コヒレハダカ、オオメハダカは平均捕食数でも多く、餌生物が豊度を反映していることが示唆された。

 中部西太平洋区では餌の種構成と餌の寄与率に緯度的な変化が見られた。ダルマハダカ、ゴコウハダカといった暖水系の魚類とソコイワシは北緯36度から38度までは計数上大きな割合を占めていたが、これらは緯度が上がるにつれ少なくなり、38度以上ではトドハダカ、マメハダカ、オオメハダカ、コヒレハダカ、ナガハダカといった冷水系魚類に占められるようになった(Fig.1)。このような暖水系から冷水系の種類への緯度的な餌の変化は、暖水域から移行帯をはさみ冷水域までの環境変化にともなう餌種の分布の変化にほぼ対応しているものと思われた。

Fig.1 Latitudinal variation of prey fishes in the Western Central Pacific(160°E-180°)

 イシイルカの胃内容物重量は夜明けにピークがあり日中に減少したことから、摂餌は夜間から明け方にかけて集中していると考えられた。イシイルカが捕食していた餌の大部分であるハダカイワシ類やテカギイカ類は典型的な中深層性生物で、その多くは日周鉛直移動を行い、日中は深く、夜間は浅く分布する。イシイルカは餌生物が表層に分布する時間帯に索餌努力を集中させており、おそらく索餌の中心的な場所は表層であると考えられた。

 北海道沿岸日本海およびオホーツク海における餌の経年変化

 イシイルカの個体群の一つであり、夏に北海道周辺に回遊する日本海-オホーツク海系イシイルカの大部分の胃内容物は、1980年代後半のマイワシ豊漁期にはマイワシによって占められていた。イカ類も見られたがその量は少なかった。マイワシ資源が急激に減少した1990年代中期にはイシイルカの餌は日本海とオホーツク海で異なっていた。オホーツク海では1994年にはカタクチイワシ、1995年にはドスイカを多く捕食していた。日本海ではスケトウダラを餌として捕食していた割合が高く、カタクチイワシやイカナゴ、ホッケといった魚類も捕食していた。特に1996年の日本海ではスケトウダラ以外の餌も比較的多く捕食され、多様化の傾向が強く見られた(Fig.2)。この変化は定置網漁業等の漁獲統計と比較するとマイワシ以外は必ずしも一致した変化を見せなかった。

Fig.2 Variations of calorific contribution from prey species

 イシイルカの摂餌行動様式

 日本海やオホーツク海では太平洋と違い、中深層性生物が少ないので、マイワシ等の表層魚がいなければ底層付近まで深く潜水し、日本海ではスケトウダラを、オホーツク海ではドスイカを捕食していたと考えられる。漁獲統計とNaito et al.(1977)によれば底層性のスケトウダラとドスイカの分布が両海域で大きくは変わらないと考えられたので、マイワシ減少後の日本海とオホーツク海の餌の差は何らかの餌選択性を示すものと思われる。理論的には、呼吸のために必ず戻らなければならない水面から離れた底層では、最適な摂餌をするためには餌の選択肢を狭めなければならない。ドスイカはスケトウダラに比べてエネルギーが高いので、オホーツク海ではドスイカを選択する方が有利であった可能性がある。また日本海のドスイカの分布水深はオホーツク海に比べて深いことから(Naito et al.1977)、イシイルカの潜水能力も餌選択に関係していることが予測された。太平洋のイシイルカや、マイワシ豊漁期の日本海とオホーツク海のイシイルカでは、表層で摂餌するために餌の選択肢が広く、餌生物の分布と豊度をよく反映した餌選択になったと思われた。イシイルカの摂餌行動様式は餌生物の鉛直分布とその豊度によって変化することが考えられた。

 イシイルカの摂餌率

 鳥羽山(1974)はマイルカとハンドウイルカの消化時間は約8時間と報告している。本研究でもイシイルカの日中の胃内容物重量の減少傾向から、満胃から空胃に至るまでに約8時間かかると推定された。観察された値から自然状態での満胃重量を体重の約1.7%とし、消化時間を8時間とすると、24時間に可能な消化量は満胃重量に対して3倍程度の量、すなわち体重に対して約5%と推定された。胃内容物の熱量組成と最大可能消化量から、体重108kgのイシイルカの一日当たりのエネルギー摂取量は27.2MJと推定され、肉食哺乳動物の体重からアロメトリー法で推定されたエネルギー要求量の25.5MJ/dayとほぼ同じであった。イルカ類は、従来摂餌率が体重の10%前後といわれ、陸上動物に比較して高い代謝率を持つとされてきたが、飼育下の個体が過食することと代謝の測定に問題が多かったことから、最近ではこの値は下方修正されてきた。イシイルカについても飼育個体の観察から一日に体重の12.5%の餌を摂取するとされてきたが、本論の結果からは摂餌率は5%程度であることが示唆された。

 イシイルカの属する食物網と栄養段階

 イシイルカの栄養段階を定量化するために筋肉中の15Nおよび13C安定同位体比を餌生物とともに測定した。イシイルカの15N値は海域によって10.8-12.0‰で、餌となっていたハダカイワシ類やカタクチイワシ、スルメイカ等は約8から11‰であった。有機物粒子を栄養段階1として、一栄養段階ごとに3.4‰の重同位体濃縮が起きると仮定すると、イシイルカの栄養段階は3.2から3.7と推定された。文献による動物プランクトン等の15N値、餌生物の食性、そして実際のイシイルカ胃内容物とも比較して総合的に考えると、イシイルカに至るまでの経路は植食性動物プランクトンを多く捕食する魚類やイカ類を中心として流れていることが考えられた。

 イシイルカの13Cの値は、オホーツク海および日本海のイシイルカと、オホーツク海に回遊の起源を持ち、冬期に西太平洋で捕獲されたtruei型が互いに似た傾向を示し、ベーリング海と中部西太平洋区以東の海域も互いに似ていた。西太平洋区のdalli型は、ベーリング海以外のすべての海域と異なっていた(Table 1)。海域によってイシイルカの栄養段階は大きくは変化しないと考えられたにもかかわらず、13C値に海域間で有意差が認められたことは、食物網の構造は似ていても一次生産者が異なるか生産環境が異なる海域が存在した事を示している。つまり太平洋寒冷水域とその周辺海域には、食物網によって大きく区分できる日本海・オホーツク海海域、西太平洋海域、ベーリング海・中部西太平洋以東海域の三海域が存在する事が考えられた。これらの海域の存在には海流等の海洋学的影響が表れている可能性がある。イルカのような最上位捕食者には、所属する食物網の物質循環経路を経た結果が集約されて、広範囲にわたる食物網の特色が現れたと思われる。

Table 1 Differences of average carbon isotope ratio in muscle of Dall’s porpoises
審査要旨

 イシイルカは、北太平洋、ベーリング海、日本海、オホーツク海の寒冷水域に広く生息し、北部北太平洋では最も個体数の多いイルカの一種で、高次捕食者として生態系内で重要な役割を果たしている。本論文は、イシイルカの分布のほぼ全域にわたって捕獲調査を行い、合計476頭分のイシイルカ胃内容物組成等の資料を解析して、イシイルカの摂餌生態を明らかにしたもので、次の6章からなる。

 第1章では、採集方法および胃内容物分析手法を解説している。

 第2章では、北太平洋およびベーリング海における餌の地理的変異とその要因、さらに採餌様式を示している。餌生物の種類組成には地理的変異が見られるが、全ての海域で最も数が多かったのはハダカイワシ科魚類であり、補助的にテカギイカ類を主体とするイカ類を捕食していた。胃内容物分析からまとめた魚類に対する平均捕食数の順位と、文献から得られた500m以浅のネットサンプリングによる中深層魚類の豊度の順位はほぼ一致し、イシイルカの餌選択が餌生物の分布と豊度をよく反映していることを明らかにしている。イシイルカの胃内容物重量は夜明けにピークがあり、日中に減少したことから、摂餌は夜間から明け方にかけて集中していると考えられる。イシイルカが捕食していた餌の大部分であるハダカイワシ類やテカギイカ類は典型的な中深層生物で、その多くは日周鉛直移動を行い、日中は深く、夜間は浅く分布する。イシイルカは餌生物が表層に分布する時間帯に摂餌努力を集中させており、採餌の中心的な場所は表層であろうと推察している。

 第3章では、北海道沿岸日本海およびオホーツク海におけるマイワシ資源変動に伴う餌の経年変化を検討している。1980年代後半のマイワシ豊漁期には、イシイルカの胃内容物はマイワシによって占められていた。マイワシ資源が急激に減少した1990年代半ばには、イシイルカの主要な餌は、オホーツク海では年により多少異なるがカタクチイワシやドスイカに変化し、日本海ではスケトウダラなどに変化していることを明らかにしている。この変化は定置網漁業等の漁獲統計と比較すると表層性のマイワシでは一致したが、底層性の餌生物とは一致しなかった。北太平洋のイシイルカは餌を表層で採餌し、密度依存的な餌選択を行っていると考えられることから、表層で採餌する場合と底層で採餌する場合とでは餌選択様式が異なるものと推察している。

 第4章では、1日あたりの摂餌量を体重に対する相対重量で表し、イシイルカの摂餌率を、日本海の標本から得られた最大胃内容物重量と消化時間を基に推定している。イシイルカの日中の胃内容物重量の減少傾向から、満胃から空胃に至るまでに約8時間かかると推定している。この値は飼育実験から得られた文献の値と一致していた。観察された値から自然状態での満胃重量を体重の約1.7%とし、消化時間を8時間とすると、摂餌率は満胃重量に対して3倍程度の量、すなわち体重に対して約5%と推定された。胃内容物のエネルギー組成と5%の摂餌率から、体重108kgのイシイルカの一日当たりのエネルギー摂取量は27.2MJと推定された。これらの摂餌率やエネルギー要求量とそれぞれ体重を用いたアロメトリー法による推定値とを比較し、その妥当性を検証している。

 第5章では、イシイルカの属する食物網と栄養段階を窒素および炭素安定同位体比を用いて解析している。イシイルカの15N値は海域によって10.8-12.0‰であった。イシイルカの餌生物や文献による動物プランクトン等の15N値から、イシイルカの栄養段階をおおよそ4と推定している。この値は、実際のイシイルカ胃内容物の解析結果や餌生物の食性の結果とよく一致していた。イシイルカの13Cの値は、オホーツク海および日本海のイシイルカと、オホーツク海に回遊の起源を持ち、冬期に三陸沖で捕獲されたリクゼンイルカ型イシイルカが一つのグループとしてまとめられ、ベーリング海と東経160度以東の海域も一つのグループとしてまとめられた。海域によってイシイルカの栄養段階は大きく変化しないにもかかわらず、13C値に海域間で有意差が認められたことから、食物網の構造は類似しているが、一次生産者の異なる海域あるいは生産環境の異なる海域が存在していることを推測している。

 第6章では総合考察として、餌選択の理論的背景、採餌様式、個体群レベルでの餌消費量を議論し、海洋生態系におけるイシイルカの高次捕食者としての役割について言及している。

 以上要するに、本論文はイシイルカの胃内容物および安定同位体比を用いてイシイルカの餌選択性、採餌様式、摂餌量、栄養段階、所属する食物網などに関する新知見を数多く得たもので、学術上、応用上寄与することが少なくない。よって審査員一同は本論文が博士(農学)の学位論文として価値あるものと認める。

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