学位論文要旨



No 113515
著者(漢字) 中原,史生
著者(英字)
著者(カナ) ナカハラ,フミオ
標題(和) ハンドウイルカの音声交換と音声認識
標題(洋) Vocal Exchanges and Recognition in Bottlenose Dolphins, Tursiops truncatus
報告番号 113515
報告番号 甲13515
学位授与日 1998.03.30
学位種別 課程博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 博農第1874号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 水圏生物科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 宮崎,信之
 東京大学 教授 川口,弘一
 東京大学 教授 寺崎,誠
 長崎大学 教授 竹村,暘
 東京大学 助教授 青木,一郎
内容要旨

 小型ハクジラ(イルカ)類の音声コミュニケーションに関する研究は1960年代より盛んに行われているが、技術的、方法論的制約により、鳥類や霊長類など研究の進んでいる動物に比べて、あまり成果があがっているとは言えない。一番の制約となっていたのは水中で発声個体を特定することが困難なことであったが、本研究では受動的音響定位システムを用いることによってこの問題点を緩和することに成功した。ハンドウイルカTursiops truncatusは、イルカ類の中でも飼育および訓練が容易であること、基本的に沿岸域に生息していることから、音声コミュニケーション研究の主な対象種となっている。彼らの形成する離合集散型社会システムの中では、群れの構成および機能を統制するための精巧なコミュニケーションシステムを必要とする。イルカの音声の中でもホイッスルは、音域が人間の可聴域にあり録音および解析が容易なことから、集中的に研究が行われている。個体に固有なホイッスルはシグネチャーホイッスルと呼ばれ、個体認識や個体間の結び付きを維持するためのコンタクトコールとして機能しているものと考えられている。Caldwell & Caldwell(1965)によって提唱されたこのシグニチャーホイッスル仮説は多くの研究者によって支持をされているが、ホイッスル・レパートリー仮説(McCowan & Reiss 1995)の様に異なった説を唱える研究者もおり、その存在は未だ証明されておらず、その機能に関しても何ら検証は行われていない。本研究では、ハンドウイルカのシグネチャーホイッスルに注目をし、その機能的な役割を明らかにすることを目的としている。

1.ホイッスルによる音声交換

 ハンドウイルカの音声交換時に見られるルールやパターンを調べる目的で、飼育下のハンドウイルカを対象として音声行動の観察およびプレイバック実験を行った。行動観察ではハンドウイルカの音声および行動を収録し、発声個体特定後、ホイッスルの発せられるタイミングと音響的特性の計測を行った。ホイッスルが音声交換時にどの様なタイミングで発せられているかを調べるために、前後して発せられた2つのホイッスルについて、1番目の終わりから2番目の音声が始まるまでの時間間隔を測定した。先行するホイッスルの後に他個体が引き続いて発声を行った場合、2番目の音声の多くは先行する音声に続いて約1秒以内に発せられていたのに対して、先行するホイッスルの後に他個体が発声することなく同一個体が引き続いて発声を行った場合、2番目の音声のほとんどが1秒以上経ってから発せられていた(図1)。この結果から、ハンドウイルカは決してランダムに発声を行っているのではなく、他個体の音声に続いてすぐに発声を行っており、先行する個体の音声に対して応答していると言うことができる。同一個体が引き続いて発声を行った場合を見てみると、発声を行ったあと、群れのメンバーからの応答が期侍されるしばらくの間は次の発声を行わず、応答がない時に更にもう一度発声しているものと考えられる。音響的特性の測定の結果は、ハンドウイルカが音声交換時にはシグネチャーホイッスルを用いていることを示している。シグネチャーホイッスルの周波数および持続時間には幾つかのバリエーションが存在したが、その変化には規則性は見受けられなかった。スピーカーから人工的にシグネチャーホイッスルを再生(プレイバック)しイルカの音声反応を測定した結果、被験個体は再生音に続いて1秒以内にその個体のシグネチャーホイッスルを発することが多かった。このプレイバック実験の結果は、行動観察によって得られたハンドウイルカの音声交換における時間的規則性を支持している。これらの結果から、ハンドウイルカが意図的に発声を行っていること、および音声交換時にシグネチャーホイッスルが重要な役割を果たすことが明らかにされた。

図1.ハンドウイルカの発声間隔の分布
2.音声認識

 シグネチャーホイッスルがイルカ同士の個体認識に有用であるかを調べる目的で、飼育下のハンドウイルカを用いてプレイバック実験を行った。社会生活を営む動物にとって、個体認識を行う能力は社会構造を維持する上で重要な基盤となる。まず、群れのメンバー(既知個体)とそれ以外の個体(未知個体)の識別が可能であるかを調べるため、同居個体および一度も同居したことのない個体のシグネチャーホイッスルを刺激音として、単試行プレイバック実験を行った。被験個体は、既知個体の音声に対しては1秒以内に発声を行うことが多く、すなわち、音声交換の時間的規則性に則した応答を行っていた。しかしながら、未知個体の音声に対しては応答をしないことが多く、応答を行っても1秒以内に発声を行うことは極めて少なく、規則性には従っていなかった。この結果から、イルカは群のメンバーの音声を記憶しており、群れのメンバーの音声に対してのみ選択的に応答を行っているものと考えられた。次に、個体認識が可能であるかを調べる目的で、慣化-脱慣化法による実験を行った。被験個体は、連続的に提示される刺激音に対して、はじめは音声および行動による反応を示していたが、次第に慣れが生じて反応を示さないようになった(慣化)。ここで用いた刺激音は、ある既知個体の様々なバリエーションを含んだシグネチャーホイッスルである。この時点で刺激音を別の個体の音声に交替して、イルカの反応がどの様に変化するかを観察した。イルカは新奇の刺激音に対して再び反応を示したので(脱慣化)、二種類の刺激音を弁別していると見なすことができた(図2)。これらの結果から、ハンドウイルカはシグネチャーホイッスルをもとに個体識別を行うことが可能であることが示された。

図2.慣化-脱慣化実験において提示した二個体のホイッスルに対する反応出現率
3.野生個体の音声行動

 自然条件下でのハンドウイルカの音声行動を調べる目的で、水中ビデオカメラシステムを用いて野生個体の行動および音声の収録を行った。観察対象集団は、御蔵島周辺に生息する沿岸性のハンドウイルカの個体群である。イルカの行動を活動状態から、移動、社会行動、社会的移動、ミル(定まった方向性がなくうろつき回る行動)、探索の5つのカテゴリーに分け、それぞれの活動状態におけるホイッスルの発生率を測定した。その他にも採食、休息、遊び行動が観察されたがテープに収録されなかったため解析からは除外した。異なる活動状態ではホイッスルの発生率に違いがみられた。最も発生率の高かったのは探索行動中で、移動中にはほとんどホイッスルは発せられていなかった。移動中にホイッスルが少ないのは、個体間で相互作用が行われていないときには個体間でコミュニケーションをとる必要性がないからであろうと考えられる。社会行動、社会的移動においてはホイッスルによる音声交換が観察された。音声交換時に発せられたホイッスルは個体ごとに特徴的なホイッスルであった。音声交換は追跡個体と少し離れた位置にいる群れ内の他個体との間で行われ、特に透明度の悪いときに観察された。先行するホイッスルの後に他個体が引き続いて発声を行った場合、2番目の音声の多くは先行する音声に続いて約1秒以内に発せられていたのに対して、同一個体が引き続いて発声を行った場合、2番目の音声のほとんどが1秒以上経ってから発せられていた。この様に、飼育下で観察された音声交換における時間的規則性は、野生個体においても認めることができた。

4.大脳誘発電位

 イルカの音声の機能を研究する上で、高次の神経機構において音声がどのように知覚されているかを調べることは重要なことである。そこで刺激音に対するハンドウイルカの内的な変化を調べる目的で、イルカの頭部表皮に設置した電極から大脳誘発電位の測定を行った。誘発電位とは、外界から一定の刺激を与えた場合に神経組織に誘発される電位で、与えられた聴覚刺激に直接関連して誘発される聴覚誘発電位と、刺激の意味に関連し高次の認知機能を反映すると考えられる事象関連電位に分けられる。各実験では、二個体のシグネチャーホイッスルを刺激音としてランダムな順序で与え、一方の刺激はまれにしか出現しないように設定する。そしてその二つの刺激に対する脳波反応を別々に加算平均する。潜時の短い聴覚誘発電位はどちらの刺激によっても誘発されるのに対して、標的刺激(低頻度刺激)の時だけ潜時約400ミリ秒で陽性電位が記録され、背景刺激(高頻度刺激)に対してはこれは記録されなかった。この電位は大脳がその刺激を認知した時に現れる事象関連電位であると考えられた。この結果から、イルカは標的刺激と背景刺激を聞き分けており、標的刺激に対して選択的に注意を払っていると言うことができる。

 以上の研究から、ハンドウイルカのシグネチャーホイッスルの機能に関して一部ではあるが明らかにすることができた。ハンドウイルカはシグネチャーホイッスルで鳴き交わすことによって群れ内の特定の個体との間で情報交換を行っているものと考えられる。しかしながら、シグネチャーホイッスルの持つその他の機能や、その他のホイッスルを含む様々な音声のもつ機能に関しては、クリックスがエコーロケーション(反響定位)に利用されること以外はほとんどがわかっておらず、今後の研究によって明らかにしてゆく必要がある。

審査要旨

 小型ハクジラ(イルカ)類の音声コミュニケーションに関する研究は、離合集散型社会システムを形成するイルカ類の群れ構造や機能などを解明するのに重要である。イルカ類の音声の中でもホイッスルに関しては、音域が人間の可聴域にあり録音および解析が比較的容易であるために様々な研究がなされてきたが、その機能に関する研究は皆無である。

 本論文は、飼育下ならびに野生のハンドウイルカを使用して、個体に固有なシグネチャーホイッスルを特定し、個体間の音声交換および音声認識に関する研究を行うことにより、シグネチャーホイッスルの機能について言及したもので、次の6章からなる。

 第1章では、イルカ類の音声に関する研究が紹介され、本研究の目的とその意義について述べている。

 第2章では、ハンドウイルカの音声交換時に見られるルールやパターンを調べる目的で、飼育下のハンドウイルカを対象として音声行動観察およびプレイバック実験を行っている。ホイッスルが音声交換時にどの様なタイミングで発せられているかを調べるために、前後して発せられた2つのホイッスルについて時間間隔を測定し、そこに時間的な規則性があることを明らかにしている。ハンドウイルカはランダムに発声を行っているのではなく、他個体の音声に対して応答していることを明らかにしている。同一個体が引き続いて発声を行った場合、発声後、群れのメンバーからの応答が期待されるしばらくの間は次の発声を行わず、応答がない時に更にもう一度発声していることを報告している。また、音響的特性の測定を行い、音声交換時には個体に特徴的なシグネチャーホイッスルを用いていることを示している。これらの結果から、ハンドウイルカが意図的に発声を行っていること、および音声交換時にシグネチャーホイッスルが重要な役割を果たすことを明らかにしている。

 第3章では、シグネチャーホイッスルがイルカ同士の個体認識に有用であるかを調べる目的で、飼育下のハンドウイルカを用いてプレイバック実験を行っている。群れのメンバーとその他の個体のシグネチャーホイッスルの識別が可能であるかを調べる実験では、被験個体は群れのメンバーの音声に対しては音声交換の時間的規則性に則した応答を行っていたものの、その他の個体の音声に対しては応答をしないか応答をしても規則性には従っていなかったことから、イルカは群れのメンバーの音声を記憶しており、群れのメンバーの音声に対してのみ選択的に応答を行っていることを明らかにしている。個体認識が可能であるかを調べる目的で行われた慣化-脱慣化法を用いた実験では、ハンドウイルカがシグネチャーホイッスルをもとに個体職別を行うことが可能であることを明らかにしている。

 第4章では、伊豆諸島の御蔵島周辺に生息するハンドウイルカを対象に選び、飼育下のイルカで得られた音声交換システムの検証を行っている。水中ビデオカメラとハイドロホンを使用して、個体識別されたイルカの行動を調査した。イルカの行動を5つに分け、それぞれの活動状態におけるホイッスルの発生率を測定した。社会的な行動をしているときには発生率が高く、移動中にはほとんどホイッスルは発せられていなかったことから、個体間で相互作用が行われている時にホイッスルを用いた情報交換が行われているのであろうと報告している。音声交換時に発せられたホイッスルは個体ごとに特徴的なシグネチャーホイッスルであった。音声交換は離れた位置にいる群れ内の個体間で行われ、特に透明度の悪いときに頻繁に観察された。飼育下で観察された音声交換における時間的規則性が、野生個体においても認められたことを報告している。

 第5章では、ハンドウイルカがシグネチャーホイッスルをどのように認識しているのかを調べるために、大脳誘発電位の測定を行っている。各実験では、二個体のシグネチャーホイッスルを刺激音としてランダムな順序で与え、一方の刺激はまれにしか出現しないように設定する。潜時の短い聴覚誘発電位はどちらの刺激によっても誘発されるのに対して、標的刺激の時だけ潜時約400ミリ秒で陽性電位が記録され、背景刺激に対してはこれは記録されなかった。この電位は大脳がその刺激を認知した時に現れる事象関連電位であり、イルカが標的刺激と背景刺激を聞き分けており、標的刺激に対して選択的に注意を払っていることを示している。

 第6章では、上記の研究成果を踏まえ、イルカのシグネチャーホイッスルの機能に関して総合的に考察している。

 以上要するに、本論文はイルカ類の音声の中でもシグネチャーホイッスルに注目し、音声交換や音声認識のシステムを明かにし、その機能に関して新知見を得たもので、学術上、応用上寄与するところが少なくない。よって審査委員一同は本論文が博士(農学)の学位論文として価値あるものと認める。

UTokyo Repositoryリンク