学位論文要旨



No 113519
著者(漢字) 浦川,秀敏
著者(英字)
著者(カナ) ウラカワ,ヒデトシ
標題(和) 西部北太平洋における海洋低温細菌の分類および遺伝的多様性に関する研究 : ビブリオ科細菌を中心に
標題(洋) Systematics and Genetic Diversity of Psychrophilic Marine Bacteria in the Western North Pacific Ocean with Reference to Vibrionaceae
報告番号 113519
報告番号 甲13519
学位授与日 1998.03.30
学位種別 課程博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 博農第1878号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 水圏生物科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 大和田,紘一
 東京大学 教授 若林,久嗣
 東京大学 教授 渡部,終五
 東京大学 教授 横田,明
 東京大学 助教授 木暮,一啓
内容要旨

 地球の表面積の約70%が海洋であることは良く知られている.しかしながら,その体積の約90%が5℃以下の低温にあることは,あまり知られていない.このように低温環境は地球上において特殊なものではなく,むしろ普遍的に存在し,そこで生き抜くためにさまざまな適応を果たした低温菌が生息している.

 微生物はその増殖温度特性から,高温菌,中温菌,低温菌の3つの型に分けられる.一般に低温菌は,0℃前後で2週間以内に増殖する微生物と定義される.これまでに知られている低温菌の数は少なく,それらの起源や系統に関しては,依然不明な部分が多い.また広大な低温環境に,どれだけ多様な微生物群集が生息しているかに関しても,まだよく分かっていない.そこに生息する低温菌の多様性を知り,起源や系統に関する知見を得ることを目的に,本研究を行った.

RFLP法を用いたビブリオ科細菌の多様性の解析

 低温細菌は様々な系統に属し,それだけで固有の分類群を構成しないため,海洋に広く分布するビブリオ科細菌に絞り研究を行った.

 これまでの海洋細菌の分布や生態に関する研究で,分離菌株を同定するにあたり,多くの場合,属レベルまでで済まされてきた.しかし本研究のためには,種レベルでの解析が必要になる.またこれまでのような表現型を軸にした分類・同定では,系統関係を必ずしも反映しないという問題点が指摘されている.そこで海洋から分離された多数のビブリオ科細菌を迅速にタイピングするために,細菌の系統分類で最も多く用いられている16S rRNA遺伝子を標的とした,RFLP(restriction fragment length polymorphism)解析を行った.

 まずこの手法を,菌株保存機関から分譲された標準菌株について行い,プロファイルの作製を試みた.得られた結果を16S rRNAの塩基配列から求められた系統関係と比較したところ,良く一致することから,この簡便な方法を用いて,海洋からの分離菌株を効率的にタイピングできる可能性が示唆された.次に,この方法を実際に海洋からの分離菌株に応用した.

 地球上の低温環境には,大きく分けてふたつの型が認められる.ひとつは恒常的に低温が保たれている場所であり,深海域や極域がこれにあたる.またもう一方は,季節的に低温にさらされる場所で,亜寒帯や温帯域がこれに属する.このふたつの環境に生息する低温細菌の,系統関係を明らかにするために,西部北太平洋の深海域と,岩手県大槌湾において,サンプリングを行い,得られたグループを比較した.その結果,外洋と沿岸から分離される菌種間では,系統的に大きく異なることが明らかとなった.

 この結果を踏まえ,日本沿岸においてサンプリングを行ったところ,大槌湾で最も多く分離された細菌種(Vibrio splendidus)が,冬期の日本沿岸においても幅広く分布し,分離されるビブリオ科細菌の中で大きな部分を占めることが明らかとなった.

分離菌株の系統解析と新属の提案

 外洋で最も多く分離されたグループは,沿岸からは全く分離されなかった.またこのグループは,生息していた環境を反映して非常に低い増殖上限温度を示した.これらの系統的位置に関してさらに検討を加えるため,16S rRNA遺伝子の解析を行った.その結果,このグループはビブリオ科内の他種とは系統的に大きく離れていて,従来から分類学的に問題となっていた深海由来の低温性ビブリオ科細菌V.marinusに極めて近いことが明らかとなった.

 そこでこのV.marinusと,分離菌株の系統的な位置づけについて検討するため,それらに近縁な,大腸菌やコレラ菌を含む分類群と比較検討を行った.その結果,このV.marinusとこれに近い分離菌株群を新属として提案するのが妥当であると結論づけられた.

 16S rRNA遺伝子による解析結果が,DNA-DNAハイブリダイゼーションの結果や,他の保存的なタンパク質をコードしている遺伝子の解析結果と食い違うケースが報告されている.とりわけこの現象は近縁な種類を比較検討する場合に多く認められる.外洋から分離されたV.marinusの類縁菌は16S rRNA遺伝子解析の結果,高い相同性を示したので,グループ内の系統関係を明らかにするためには16S rRNA遺伝子より分子進化速度が速い,他の分子の併用が必要であると考えた.そこでふたつの保存的なタンパク質をコードしている遺伝子(RNA polymerase,DNA gyrase)を用いて解析を行った.その結果,RNA polymeraseから得られた系統関係は16S rRNA遺伝子の解析結果とよく一致するが,DNA gyraseの解析結果はそれと食い違うことが明らかとなった.

ビブリオ科の系統に関する仮説

 これまでのビブリオ科細菌の16S rRNA遺伝子解析の中で,約半数の種に特徴的な塩基配列が存在することが分かってきた.この塩基配列はビブリオ科とは遠縁な細菌種には存在せず,ビブリオ科に固有な配列であることが示唆された.さらに二次構造の解析から,これらが挿入配列であることが確認された.この挿入配列はビブリオ科内の3属(Vibrio属,Photobacterium属,Salinivibrio属)すべてに存在し,これを持つ種と持たない種がキメラ的に存在する.この配列の挿入が進化の過程においてそれぞれのグループで独立に起こったと考えると,かなりの偶然性を仮定する必要がある.またこの配列の挿入がビブリオ科が多様化する以前に起こったと考えるならば,3属すべてにこの配列が存在することが説明できる.これらを踏まえ,ビブリオ科が単系統ではないという仮説に至った.

深海堆積物中の微生物群集構造解析

 低温環境に生息する微生物はさまざまな増殖温度特性を持つことから,ある特定の温度で分離培養した菌群についての情報だけでは天然の群集全体を評価することが難しい.そのため,培養しない方法を用いた微生物群集構造解析が必要となる.そこで本研究では相模湾と東京湾の堆積物を採取し,クローニングとシークエンスを組み合わせた非培養系での微生物群集構造解析を試みた.その結果,群集構造の相違は相模湾と東京湾とではなく,深海冷湧水域とそれ以外の場所としての違いとして現れた.この中で冷湧水域での微生物群集が,それ以外の堆積物表面と比較して多様であることや,冷湧水域に生息する生物の共生菌に近い硫黄酸化細菌が,そこの群集の構成員として見いだされること,また一般的な堆積物表面では微生物群集はあまり水深に左右されず,相模湾と東京湾でも同様の群集構造を示すことなどが明らかとなった.

 これまでの一連の研究により低温環境に生息する微生物群集の様相が明らかになってきた.このような環境に生息する微生物は,さまざまなレベルで低温環境に適応しており,さらに多様な微生物の存在が考えられた.今後ともグローバルな種多様性や,それらの遺伝的資源としての重要性を論じるためには,これらの基礎的研究がさらに必要になるものと考えられる.

審査要旨

 地球の表面積の約70%が海洋であり、その体積の約90%が5℃以下の低温にある。このように低温環境は地球上においては普遍的に存在し、そこで生き抜くためにさまざまな適応を果たした低温菌が生息している。そこで低温菌の多様性を知り、起源や系統に関する知見を得ることを目的に、本研究を行ったものである。低温細菌は様々な系統に属し、それだけで固有の分類群を構成しないため、海洋に広く分布するビブリオ科細菌にしぼり研究を行ったものである。

 まず、海洋から分離された多数のビブリオ科細菌を迅速にタイピングするために、16S rRNA遺伝子を標的としたRFLP(restriction fragment length polymorphism)解析を菌株保存機関から分譲された標準菌株について行い、プロファイルの作製を行った。得られた結果を16S rRNAの塩基配列から求められた系統関係と比較したところ、良く一致することから、この簡便な方法を用いて海洋からの分離菌株を効率的にタイピングできることを確認した。次に、海洋からの分離菌株に応用することにした。恒常的に低温が保たれている西部北太平洋の深海域と、季節的に低温にさらされる岩手県大槌湾においてサンプリングを行い、得られたグループを比較した。その結果、外洋と沿岸から分離される菌種間では、系統的に大きく異なることが明らかとなった。この結果を踏まえ、日本沿岸においてサンプリングを行ったところ、大槌湾で最も多く分離された細菌種(Vibrio splendidus)が、冬期の日本沿岸においても幅広く分布し、分離されるビブリオ科細菌の中で大きな部分を占めることが明らかとなった。外洋で最も多く分離されたグループは、沿岸からは全く分離されなく、生息していた環境を反映して非常に低い増殖上限温度をもち、ビブリオ科内の他種とは系統的に大きく離れていて、従来から分類学的に問題となっていた深海由来の低温性ビブリオ科細菌V.marinusに極めて近いことを明らかにした。

 そこでこのV.marinusと、分離菌株の系統的な位置づけについて検討するため、それらに近縁な大腸菌やコレラ菌を含む分類群と比較検討を行った。その結果、このV.marinusとこれに近い分離菌株群を新属として提案するのが妥当であると結論づけた。

 これまでのビブリオ科細菌の16S rRNA遺伝子解析の中で、約半数の種に特徴的な塩基配列が存在することが分かってきた。この塩基配列はビブリオ科とは遠縁な細菌種には存在せず、ビブリオ科に固有な配列であることが示唆された。さらに二次構造の解析から、これらが挿入配列であることが確認された。この挿入配列はビブリオ科内の3属(Vibrio属、Photobacterium属、Salinivibrio属)すべてに存在し、これを持つ種と持たない種がキメラ的に存在する。この配列の挿入が進化の過程においてそれぞれのグループで独立に起こったと考えると、かなりの偶然性を仮定する必要がある。またこの配列の挿入がビブリオ科が多様化する以前に起こったと考えるならば、3属すべてにこの配列が存在することが説明できる。これらを踏まえ、ビブリオ科が単系統ではないという仮説に至った。

 低温環境に生息する微生物はさまざまな増殖温度特性を持つことから、ある特定の温度で分離培養した菌群についての情報だけでは天然の群集全体を評価することが難しい。そのため、培養しない方法を用いた微生物群集構造解析が必要となる。そこで相模湾と東京湾の堆積物を採取し、クローニングとシークエンスを組み合わせた非培養系での微生物群集構造解析を試みた。その結果、群集構造の相違は相模湾と東京湾とではそれほど大きくなく、深海冷湧水域とそれ以外の場所としての違いとして現れた。この中で冷湧水域での微生物群集が、それ以外の堆積物表面と比較して多様であることや、付近に生息する生物の共生菌に近い硫黄酸化細菌が、そこの群集の構成員として見出されること、また一般的な堆積物表面では微生物群集はあまり水深に左右されず、相模湾と東京湾でも同様の群集構造を示すことなどが明らかにした。

 以上要するに本論分は、海洋に広く分布する低温性ビブリオ科細菌に着目し、系統関係をもとに迅速にグルーピングする方法について述べ、さらにその多様性についても検討を加えた。さらに海洋の堆積物中の微生物群集に関して非培養系において解析を行ったもので、学術上寄与するところが少なくない。よって、審査員一同は、本論文が博士(農学)の学位論文として価値あるものと認めた。

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