学位論文要旨



No 113521
著者(漢字) 柴田,晃
著者(英字)
著者(カナ) シバタ,アキラ
標題(和) 海洋におけるコロイド粒子生成に関する微生物学的研究 : 特にウイルスと細菌の役割について
標題(洋)
報告番号 113521
報告番号 甲13521
学位授与日 1998.03.30
学位種別 課程博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 博農第1880号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 水圏生物科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 大和田,紘一
 東京大学 教授 若林,久嗣
 東京大学 教授 日野,明徳
 東京大学 助教授 木暮,一啓
 東京大学 助教授 古谷,研
内容要旨

 溶存有機物(以下DOM)は、特定の孔径(例えば0.1-0.7m)のフィルターを通過する有機物として海洋学の分野では定義されるが、その大部分は非生物体である。DOMの総炭素量は大気中の全二酸化炭素量中の炭素量に匹敵し、さらに比較的短い時間スケールで無機化されることから、地球上における有機物の動的なリザーバーとして注目されている。従って、海洋におけるDOMの挙動を知ることは、地球規模の炭素循環を明らかにするうえで必要となる。

 1980年代初頭に提案された微生物ループは、「DOMを細菌が利用し、さらに細菌→原生生物→大型動物プランクトンといった補食過程を経て成立する栄養伝達経路」として定義されている。さらに細かく見ると、DOMは各栄養段階を経る間に、1)生物体有機物への同化、2)呼吸による無機化、3)非生物体有機物への移行、といったを経路をたどる。この中で3)は、生物による分泌や排泄、あるいは死滅により起こるが、1)および2)の過程と比べて非常に知見が少ない。その理由としては、3)は高次の食物連鎖への栄養伝達の効率を下げることから、その過程が積極的に評価されていないことと、その複雑さから従来までの方法では定量しにくいことが挙げられる。しかし、3)の過程はDOMへの回帰に結びつくことから、有機物の動態を解明する上では重要である。

 1990年以降、DOMの中には非生物コロイド粒子(分子量1,000または10,000以上)が多数含まれ、これらの粒子は海洋表層における全溶存有機炭素量の中の5-40%を占めることが明らかとなってきた。コロイド粒子は、DOMの中でも代謝速度が速いフラクションであることが予想され、その起源と代謝過程の解明が注目されている。

 また、海洋において高濃度のウイルス粒子の存在が明らかにされ、鞭毛虫とともにウイルスは細菌の主要な死滅要因として認識されるようになった。これらの死滅過程を経た細菌体有機物を比べると、鞭毛虫から排泄される細菌ペレットは、消化を経た残渣であるのに対して、ウイルスによる溶菌は、細菌の自己消化のみによる細胞内容物および断片化した細胞膜の放出物である。従って、ウイルスによる細菌の死滅は、海洋におけるコロイド粒子の生成過程として、より重要であると考えられる。

 本論文では、コロイド粒子の生成に果たす細菌の致死過程の寄与を解明してゆくことを目的として、以下の研究を行った。(1)ウイルスの溶菌によるコロイド粒子の生成を初めて実験的に明らかにした。次に、ウイルスの溶菌が実際に海洋で起こっているならば、細菌の細胞膜を起源とするコロイド粒子が存在するはずである。よって(2)ペプチドグリカン(PG)を指標として、細菌体のPGを定量した上で、新たな細菌バイオマス測定法を確立すると同時に、(3)DOMのコロイド態フラクションにおけるPGの定量をおこない、細菌体PGと溶存態PGを量的に比較しながら、コロイド粒子として存在する細菌由来の有機物の寄与を解明した。具体的な概要を以下に記す。

1.ウイルスの溶菌作用によるコロイド粒子の生成

 神奈川県油壷湾の表層から海洋細菌Vibrio alginolyticusを宿主細菌とするウイルス(VA1)を分離し、純化した。次に、宿主細菌の純粋培養液に分離したVA1を接種し、細菌、VA1、コロイド粒子の数の経時的変化を調べた。その結果、以下のようなことが明らかになった。(1)細菌とVA1の混合系における、粒子のサイズ分布をパーティクルカウンターにより経時的に測定したところ、培養開始1.5時間以降、細菌の大きさとは異なる0.7m未満のサイズに粒子の急激な増加が観察され、4.5時間後のこれらの粒子の数は、細菌を含めた全体の粒子数の90%を占めた。(2)VA1を接種しなかった場合では、細菌以外の粒子の増加は見られなかった。(3)混合系で見られた0.7m未満のサイズに粒子の生成は、VA1の増加と対応していた。(4)透過型電子顕微鏡による観察から、VA1の大きさは0.2mであることが分った。これらの結果から、ウイルスの溶菌作用は、細菌を起源としたコロイド粒子を生成することが明らかとなった。

 本研究の結果は、ファージの溶菌作用による細菌由来のコロイド粒子の生成を初めて実験的に確認したものであり、海洋生態系におけるコロイド粒子生産者としてのウイルスの役割を示唆するものと考えられる。

2.ペプチドグリカンを指標とした新たな細菌バイオマス測定法

 細菌由来のコロイド粒子が海洋に実際に存在するかどうかを確かめるには、細菌に特有の生体高分子に注目し、その分布を調べる必要がある。そこで、ごく最近開発されたペプチドグリカン(PG)の定量試薬(SLP試薬)を用いて細菌とPGの関係を調べ、新たな細菌バイオマス定量法として検討を行った。

 始めに、SLP試薬を海水中の細菌群集へ適応するための条件検討を行い、(1)サンプルを0.25mM NaN3により固定した後に4℃で保存し、採水後2週間以内に測定を行うこと、(2)フィルター付きマイクロプレート(孔経0.22m)を用いて、サンプルの濃縮と脱塩を行うことを決めた。

 次に、日本の沿岸海域でこの方法を適応したところ、有光層では約1ngml-1、有光層以深では0.1ngml-1以下のPGの存在が確認された。また、PGと細菌数の関係には有意な相関(r=0.91,n=126)が認められた。一方、菌体当たりの平均PG含量は、深度75-3700mでは0.81ng cell-1であった。

 さらに、相模湾中央部の表面海水を濾過して、細菌捕食者を除去した後に培養実験を行ったところ、PGと細菌数の関係には有意な相関(r=0.92,n=27)が認められた。培養期間中の菌体当たりの平均PG量は0.85ng cell-1であり、これらは前述した深度75-3700mのそれとほぼ一致したことから、PGが細菌バイオマスの指標として用いられることが分った。しかし、深度50m以浅の菌体当たりの平均PG量は3.37ngcell-1と高い値を示した。この原因には、縣濁粒子の付着細菌や藍色細菌の寄与、さらにSLP試薬の擬陽性物質の影響も考えられる。

 PGから細菌炭素量への変換係数を求めるために、油壷湾の表面海水を用いて海水培養実験を行い、細菌体積を測定した後、炭素量に変換してPGとの相対比を求めた。その結果、PGと細菌体積との関係には有為な相関(r=0.89,n=27)が認められた。また、体積/PGは1.41×106m3ng-1で、従来提案されている炭素/体積で換算すると、炭素/細菌は22.4fg C cell-1となる。この値は、これまで海水中の細菌の炭素/細菌比としてよく用いられてきた21fg C cell-1と良く一致し、細菌炭素量の指標としてもPGが有効であることを示している。これらの結果から、今回提案したPG法は、海洋における細菌バイオマスの定量法として有効であると同時に、炭素量への換算も可能となった。

3.海洋における細菌を由来とするコロイド粒子の分布

 SLP試薬は感度が鋭敏であることから、PGを指標とする細菌由来のDOMを定量化できる可能性を持つ。そこで、コロイド粒子として存在するPGとその起源となる細菌体PGを定量し、両者の分布を比較しながら、細菌由来有機物の挙動を解明することを目的とした。

 溶存態PG(D-PG)測定用のサンプルは、孔経0.1mのフィルターで濾過し、溶存フラクションを得て、そのなかのコロイド粒子を限外瀘過(分子量10,000)により10倍に濃縮することにより得た。

東京湾における水平プロファイル

 夏期の東京湾においてD-PGと細菌体PG(B-PG)を中心とした水平方向の連続プロファイル(8点)を調査した。その結果以下のことが明らかとなった。(1)今回測定されたD-PGを有機炭素量に換算し、これまで報告されている東京湾表層のコロイド粒子の有機炭素量と比較すると、その寄与は30-35%程度であった。(2)B-PG/D-PGは湾奥から湾中央にかけて約0.75-0.88で、湾中央付近から湾口にかけて2.41まで増加したことから、湾中央部で細菌の死滅過程を経てB-PGからD-PGに移行したことが予想される。

相模湾中央部と黒潮沖における鉛直プロファイル

 溶存態PGが海洋に普遍的に存在するかどうかを明らかにするために、相模湾中央部と黒潮沖におけるPGの垂直プロファイルを調査した。また、PGと同様に細菌の細胞膜成分として知られるリポ多糖(LPS)も定量し、細菌由来有機物の存在を、PGとLPSの二つの指標から把握した。

 相模湾中央の鉛直プロファイルからは以下の結果を得た。(1)D-PG/B-PGは深度0mで極大値1.11を示した。(2)コロイド粒子に対するD-PGとD-LPSの寄与は深度0mで最大となり、有機炭素に換算して36%を示したが、50-900mでは10%から0.1%に減少した。

 黒潮沖の鉛直プロファイルからは、以下の結果を得た。(1)D-PG/B-PGは深度50mで最大値11.42を示した。(2)コロイド粒子におけるD-PGとD-LPSの寄与は深度50mで最大となり、有機炭素量に換算して8%、また0mでは2%、150m以深では1%以下であることが明らかになった。

 相模湾中央と黒潮沖の鉛直プロファイルから、溶存有機物の中には、PGおよびLPSが含まれることが分かり、東京湾により得られた結果を良く支持した。また、コロイド粒子に対する細胞膜成分の寄与を有機物量として換算すると、その寄与は深度の増加と伴に減少することも明らかとなった。

 本研究は、細菌由来のDOMを定量化し、その分布を示した初めての例であり、全体の結果から以下のことが明らかとなった。(1)細菌の細胞膜フラクションはコロイド粒子の起源として重要である。(2)海水中には有機物量にして細菌体に匹敵するか、多い場合には10倍以上の細菌由来の溶存有機物が存在する。(3)とくに沿岸域の表層におけるコロイド粒子の起源として、細菌の細胞膜フラクションは量的に大きく寄与している。(4)海洋生態学における細菌の役割は、主にDOMのアウトプットとして考えられているが、インプットにも重要な役割を果たしている。

 これらの生成にはウイルスを中心とした細菌の死滅過程が深く関わると考えられ、今後は、天然海水におけるその寄与を解明してゆく必要がある。

審査要旨

 海水中の溶存有機物(以下DOM)は濃度は低いが、その総炭素量は大気中の全二酸化炭素に匹敵し、さらに比較的短い時間で無機化されることから、地球上における有機物の動的なリザーバーとして注目されている。DOMの中には非生物コロイド粒子(分子量1,000または10,000以上)が存在し、海洋表層の全溶存有機炭素量の中の5-40%を占めることから、その起源と代謝過程が注目されている。また、海水中に高濃度のウイルス粒子の存在が明らかにされ、ウイルスによる細菌の死滅は海洋におけるコロイド粒子の生成過程として重要ではないかと考えられている。本論文は、コロイド粒子の生成に果たす細菌の致死過程の解明を目的として、ペプチドグリカン(PG)を指標とし、DOMのコロイド態フラクションにおけるPGの定量を行い、細菌体PGと溶存態PGを量的に比較しながら、コロイド粒子として存在する細菌由来の有機物の寄与を明らかにしたものである。

 神奈川県油壷湾から海洋細菌Vibrio alginolyticusを宿主とするウイルス(VA1)を分離し、純化した。次に、宿主細菌の純粋培養液に分離したVA1を接種し、細菌、VA1、コロイド粒子数の経時的変化を調べた。培養開始1.5hr後から細菌の大きさとは異なる0.7m未満のサイズの粒子が急激に増加し、4.5hr後には細菌を含めた全粒子数の90%を占めた。この結果は、ファージの溶菌作用による細菌由来のコロイド粒子の生成を示すもので、海洋生態系におけるコロイド粒子生産者としてのウイルスの役割を示唆するものと考えた。

 次ぎに、細菌由来のコロイド粒子が海洋に実際に存在するかどうかを確かめるため、最近開発されたPGの定量試薬(SLP試薬)を用いて細菌とPGの関係を調べた。日本の沿岸海域では有光層で約1ng ml-1、有光層以深では0.1ng ml-1以下のPGの存在が確認され、またPGと細菌数の関係には有意な相関(r=0.91,n=126)が認められた。菌体当たりの平均PG含量は、深度75-3700mでは0.81ng cell-1であった。さらに、相模湾中央部の表面海水を濾過して、細菌捕食者を除去した後に培養実験を行ったところ、PGと細菌数の関係には有意な相関(r=0.92,n=27)が認められた。培養期間中の菌体当たりの平均PG量は0.85ng cell-1であった。これは前述した深度75-3700mの値とほぼ一致したことから、PGが細菌バイオマスの指標として用いられることを明らかにした。

 SLP試薬は感度が鋭敏であることから、PGを指標とする細菌由来のDOMを定量化できる可能性を持つ。そこで、コロイド粒子として存在するPGとその起源となる細菌体PGを測定し、両者の分布を比較しながら、細菌由来有機物の挙動を解明することにした。溶存態PG(D-PG)測定用のサンプルは、孔経0.1mのフィルターで濾過し、溶存フラクションを得て、そのなかのコロイド粒子を限外濾過(分子量10,000)により10倍に濃縮することにより得た。夏期の東京湾においてD-PGと細菌体PG(B-PG)を中心とした水平方向の連続プロファイル(8点)から以下のことが明らかとなった。(1)D-PGを有機炭素量に換算すると東京湾表層のコロイド粒子の30-35%程度であった。(2)B-PG/D-PGは湾奥から湾中央にかけて約0.75-0.88で、湾中央付近から湾口にかけて2.41まで増加したことから、湾中央部で細菌の死滅過程を経てB-PGからD-PGに移行したことが予想された。相模湾中央部におけるPGの垂直プロファイルから、D-PG/B-PGは深度0mで極大値1.11を示し、コロイド粒子に対するD-PGとD-LPSの寄与は深度0mで最大となり、有機炭素に換算して36%を示したが、50-900mでは10〜0.1%に減少した。黒潮沖の鉛直プロファイルからは、D-PG/B-PGは深度50mで最大値11.42を示し、コロイド粒子におけるD-PGと溶存態リポ多糖(D-LPS)の寄与は深度50mで最大となり、有機炭素量に換算して8%、また0mでは2%、150m以深では1%以下であることが明らかになった。これらの結果は、溶存有機物の中には、PGおよびLPSが含まれることが分かり、東京湾により得られた結果を良く支持した。また、コロイド粒子に対する細菌の膜成分の寄与を有機物量として換算すると、その寄与は深度の増加と共に減少することも明らかとなった。

 以上本研究は、細菌由来のDOMを定量化し、その分布を示したもので、全体の結果は、(1)細菌の細胞膜フラクションはコロイド粒子の起源として重要である。(2)海水中には有機物量にして細菌体に匹敵するか、多い場合には10倍以上の細菌由来の溶存有機物が存在する。(3)特に沿岸域の表層におけるコロイド粒子の起源として、細菌の細胞膜フラクションは量的に大きく寄与している。(4)海洋生態学における細菌の役割は、主にDOMのアウトプットとして考えられているが、インプットにも重要な役割を果たしていることを明らかにした。これらの生成にはウイルスを中心とした細菌の死滅過程が深く関わると考えられることを示し、学術上寄与するところが少なくない。よって、審査員一同は、本論文が博士(農学)の学位論文として価値あるものと認めた。

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