学位論文要旨



No 113526
著者(漢字) 方,海洋
著者(英字)
著者(カナ) ファン,ハイヤン
標題(和) 中国西部地域における農村工業の展開と地域労働市場 : 東部沿海地域との対比を通じて
標題(洋)
報告番号 113526
報告番号 甲13526
学位授与日 1998.03.30
学位種別 課程博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 博農第1885号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 農業・資源経済学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 谷口,信和
 東京大学 教授 八木,宏典
 東京大学 教授 泉田,洋一
 東京大学 助教授 岩本,純明
 東京大学 助教授 木南,章
内容要旨

 本論文は、中国の農村工業の発展に伴い、展開した地域労働市場の西部的なパターンにおける農村工業の展開構造と地域労働市場の重層的な構造、および吸引された農家労働力の就業形態は低賃金かつ社会保険制度から排除されている実態を調査をとおしてはじめて明らかにしたものである。

 1980年代からの中国の農村工業を中心とする郷鎮企業の飛躍的な発展に伴って、地域労働市場が急速に拡大し、農家労働力の流出が激しくなった。この動きから次の2点が読み取れる。(1)農家労働力は、農村工業の展開まで長期にわたって土地に縛られていた労働市場のありかたから解放され、新しい農村地域労働市場の登場により自由に農業部門から非農業部門へ流出できるようになったこと。(2)農家労働力が自己労賃を評価する時にはじめて、兼業先での賃金水準が重要な基準となったこと。以上の2点が地域農業にとって、大きな意味を持った。にもかかわらず、現段階での中国農業問題の性格は、次の2点に要約できる。(1)発展途上国としての中国では国民経済の中で農業は基礎産業であり、特に13億人の食糧確保が何よりも重要な課題である、(2)しかし、同時に先進国での国土・景観・環境などの保全に対する農業の重要な役割は中国でも重視すべきである。したがって、以上の動きをみる時、農村工業の展開と地域農業との関連という視点が欠かせないものと言える。このような視点から、農村工業の展開・地域労働市場の拡大と農家労働力の流出が地域農業構造にどのような影響を与えるのか、両者の関わり方およびその動きの中で、農政の進むべき方向などを解明することが大きな課題となっている。

 その際、農村工業の展開と地域農業構造の関連を明らかにするためには、農家労働力の就業構造が両者の結節点となり、しかも農家労働力の就業構造に決定的な影響を与えるのが、農家労働力の兼業先での就業形態であるため、農村工業の発展によって展開した地域労働市場の特質と農業部門から吸引された農家労働力の就業形態(賃金を中心に)を究明することがぜひとも必要である。その第一歩は農村工業の展開構造の究明である。

 他方、中国での農村工業の展開は、それぞれの地域の産業構造から影響を受けており、中国の各地域における産業構造は、かなり異なっているため、農村工業といっても、業種構成、規模、所有形態および生産力の発展段階などが地域ごとに異なっているのである。したがって、それらの企業の労働力需要の内容や、地域労働市場の展開構造および農家労働力の流出構造なども異なり、これらが地域農業構造に与える影響も異なるため、中国の農村工業・地域労働市場の展開と農業構造の関連を研究する際には、産業構造的視点と地域別の検討が不可欠である。

 以上の問題意識を念頭において、本論文は、これまでの類似研究に関して、批判的に検討し、そこでは産業構造と地域的視点の欠如、地域労働市場と農業との関連への考慮の不十分性および労働市場の構造と吸引された農家労働力の就業形態など明らかになっていない不十分性を指摘した。それに対し今後の中国の農村工業に関する研究においては、農村工業の展開と地域農業との関連、産業構造および地域労働市場的視点を取り組むべき視点として提起した。中国の農村工業と地域労働市場の全体像を解明するためには、先進地域の東部と後進地域の西部の実態を究明することがとりあえず必要であると考え、実態調査を通じて、これまで多くの研究蓄積がある東部地域との対比を通して、西部地域の農村工業の展開と農業との関連に関する研究の第一段階として、農村工業の発展によって展開した地域労働市場の構造とそこに吸引された農家労働力の就業形態、特に賃金構造および社会保険の受給状況などを解明したうえで、地域労働市場の展開と農業との関わりを展望することを課題としたい。

 まず、統計資料および文献の分析を通じて、中国の産業構造全体における東部地域と西部地域の対照的構造および農村工業展開構造の地域差を明確にした。そして現段階における両地域の農村工業および地域労働市場の展開パターンなどを、東部においては、軽工業を中心とする農村工業に吸引された農家労働力のうち、女子の割合が高いことに対し、西部では、重化学工業が中心をなしている農村工業に従事する農家労働力は、男子が中心であるという二つの地域労働市場のパターンを提起した。さらに、異なる農家労働力の流出構造によって農家の兼業パターンも異なることを指摘した。つまり、東部では、妻が兼業、夫は農業、西部では、夫が兼業、妻は農業ということである。

 一方、筆者の提起した視点から、西部地域の甘粛省蘭州市における農村工業の展開構造、地域労働市場の構造の特質と吸引された農家労働力の就業形態を賃金構造と社会的保険の受給状況を中心にして明らかにした。その結果として、調査地における地域労働市場が「重層的な構造」であり、その重層的な構造に吸引された農家労働力の就業形態は、低賃金で、なおかつ社会保険制度から排除されている「特殊な就業形態」であることを析出した。なお、農家労働力の特殊な就業形態の存立要因を、農家労働力の内面と制度上の問題の外面とから分析した。内面的要因について、農地保有性格、農家労働力再生産費の性格、労働力の質および兼業と就業の不安定性などを指摘した。

 本来なら、新しい農村地域労働市場の展開によって農家労働力が自由に農業部門から非農業部門へ流出することができるようになったことが、地域農業構造の改善に、より良いチャンスを与えたが、他方で、農家労働力は兼業先での賃金水準などの就業条件によって、農地あるいは自家農業への対応の意識決定に強い影響をうけ、低賃金プラス社会保険制度からの排除は、現段階の農家生活だけでなく、老後の生活保障問題にも深く関わってくるため、農村工業に就業しても、農家にとって農地あるいは農業の重要性が農外兼業前より、さらに明確になったため、兼業農家の請け負った農地を手放す動きが全然みられない。それが地域での農地の利用調整が困難な背景である。兼業農家の農地を流動化させていく農政の方向性と農地を手放した後、農家生活が安心できる制度上の保障が整備されていない矛盾は、結論的に言えば、農家労働力の兼業先での就業状態によるものである。このような矛盾が、今後どのような方向に向って展開するかは、一方では、農村工業自体がその矛盾をどのような方法によって解決できるのかによるが、農村工業だけでは、その矛盾の解決は困難であろう。むしろ、それは国家の全体の政策や経済全体のすすみかたなどに関わる問題であろう。他方、以上の矛盾に農家が、どのような方法で対応するのかに関しては、農地、農業に依存する以外には、楽観的な解決策がみられないように思われる。

 要するに、地域労働市場の重層的な構造の中に包摂されている兼業農家労働力の労働条件の低位劣悪性が兼業労働力の労働者プロパーへの純化を妨げているし、兼業農家の請け負った農地の合理的、効率的な利用も阻害することになると考えられる。低賃金構造かつ農村戸籍者に対しての社会保険制度の適用欠如などが、農家労働力の勤労者として自立を妨げているのであろう。また、兼業先での失業および老後生活の不安などを含めて考えると、やはり、その保障手段はいくら零細でも農地に求める他はないのであろう。したがって、農業構造の改善と農業生産性の向上の実現のためには、農地の流動化と大規模経営の育成が重要であり、そのために、兼業農家の農地をどう効率的、合理的に利用するかが大きな課題となる。したがって、農家兼業労働力に対し、農村工業での就業条件の改善と社会保険制度の充実などが避けて通れない問題であり、今後の大きな課題となる。

審査要旨

 農村経済改革後の中国における地域の農業生産構造の再編過程は二つの異なる要因によって規定されているとみることができる。第1は出発点としての人民公社体制の解体・再編の方式であり、家族請負制農業の形成方式の地域差である。そして第2は地域経済発展の起動力となった農村工業の発展を通じた地域労働市場の展開と農業への影響の地域差である。

 本論文は後者の問題関心に基づいた研究系列に属し、農村地域における労働市場の構造の解明を課題としているが、以下のような特徴=着眼点をもっている。

 (1)東部地域との比較を軸にしながら、農村工業化が遅れた西部地域を対象としてとりあげ、(2)農村工業化の進展度の格差に加え、軽工業化か重化学工業化かという工業化の質的差違に着目した。(3)労働市場における男女別労働力需要構造の差違に規定される農家労働力の兼業化のあり方の質的差違に注目し、(4)賃金水準の分析に加え、社会保険の受給状況にまで踏み込んで調査・検討することによって、都市・農村戸籍の差違をも含んだ地域労働市場の重層的な構造の解明を目指した。

 こうした特徴=着眼点は、これまでの農村労働市場研究に対する批判を基礎とし、そこでの問題点の克服が企図されたことを背景としている。すなわち、これまでの研究は、(1)そのほとんどが農村工業化が最も進んだ東部沿海地域に限定され、(2)軽工業=輸出産業を軸とした労働市場展開の進展度の差違にのみ着目していた。そして、(3)流出する農家労働力の男女差によって家族請負農業への影響の性格が異なることに対しては十分な注意を払ってこなかったし、結果として、(4)農村労働市場の全体としての重層的な構造の解明に成功していないという問題点がそれである。

 かかる問題点を克服するため、著者は西部地域の甘粛省蘭州市の2県に展開する農村工業21社(重化学工業16社、軽工業5社)の企業面接調査と全従業員1280名を対象とするアンケート調査を実施し、基本給・賞与・手当(残業・夜勤・皆勤・祝日/年功・職種・季節・住宅・交通・物価補助・家族補助/一人っ子・図書)等の詳細な賃金構成を明らかにしただけでなく、各種社会保険の受給状況などこれまでほとんど外部には知られていないような事実の収集と分析を行った。著者が通常では不可能な調査ルートを利用できたことが背景にあるとはいえ、精力的で濃密な調査と分析は特筆に値するものといってよい。研究を通じて、以下のような注目すべき結論が提出されている。

 第1に、中国の農村地域の産業構造と労働市場を規定する二つの典型的な地域パターンの摘出である。東部沿海地域の各省(最典型としての江蘇省)によって代表される地域Iは軽工業を中心とする工業と水田農業からなる産業構造をもち、都市企業と緊密な連携を有するとともに外資に依存する農村工業は集団所有制企業を主体とし、女子労働力依存型であって、女子(妻)が農村工業に従事し、男子(夫)が農業に従事する兼業パターンとなっている。ここでは、労働市場は安定的で、集団の強い影響力の下に置かれている。これに対し、西部内陸部の各省(最典型としての甘粛省・蘭州市)によって代表される地域IIは、重化学工業を中心とする工業と畑作農業からなる産業構造をもち、都市企業との連携が弱く外資に余り依存しない在来重化学工業は個人企業を主体とし、男子労働力依存型であって、男子(夫)が農村工業に従事し、女子(妻)が農業に従事する兼業パターンとなっている。ここでは労働市場は不安定であり、集団の影響力は弱い。

 第2に、甘粛省の農村部労働市場は、都市戸籍者及び農家子弟で専門学校以上の新規学卒者を対象とした「都市戸籍者雇用労働市場」(常雇・臨時雇/相対的高賃金)、農家子弟の小・中・高新規学卒者と農業への既就業労働力を対象とした「農村戸籍者常用雇用労働市場」(中間的賃金)と「農村戸籍者臨時雇用労働市場」(最低賃金水準)の三層からなり、「戸籍別賃金格差」(都市-農村戸籍間)と農村戸籍間の[雇用形態別賃金格差」(常雇-臨時雇間)をもつ重層的構造をなしている。さらに、かかる農村部労働市場自体が都市部労働市場の賃金水準と一定の格差をもって形成されているだけでなく、健康保険・年金保険等の社会保険の受給において農家戸籍者が排除されている実態が示されている。

 以上のように、本論文は中国の農村工業と地域労働市場の展開に関して新たな知見を提供した研究であり、理論上、応用上貢献するところが少なくない。よって、審査委員一同は、本論文が博士(農学)の学位論文として価値あるものと認めた。

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