学位論文要旨



No 113528
著者(漢字) 李,盈徳
著者(英字)
著者(カナ) リー,インデー
標題(和) 高温環境下におけるホウレンソウの養液栽培に関する研究
標題(洋)
報告番号 113528
報告番号 甲13528
学位授与日 1998.03.30
学位種別 課程博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 博農第1887号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 生物・環境工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 藏田,憲次
 東京大学 教授 瀬尾,康久
 東京大学 教授 杉山,信男
 東京大学 助教授 大下,誠一
 東京大学 助教授 後藤,英司
内容要旨 序論1.研究背景

 施設園芸での養液栽培の導入は連作障害を回避し、生産の安定および高品質化を図れ、また施設の自動化、装置化と結びつき、更に周年生産が期待できる。しかし、高温期に施設内が高温になり、また養液栽培では環境の変動に対する緩衝能力が低いので、施設内の作物が高い養液温度にさらされやすくなり、高温障害の発生によって、収量、品質が低下する。そこで、高温期に養液を冷却すると、次の利点および特徴が挙げられる。(1)根の生理機能を保持し、根腐れの発生を抑える。(2)病原菌の侵入を抑制する。(3)根の呼吸を抑制し、炭水化物の余分な消耗を防ぐ。(4)飽和溶存酸素濃度を上昇させる。(5)施設全体の気温を下げる冷房に比べて、冷却コストを節約できる。

 しかし、現状では変温管理などの温室内の気温管理に関する研究データが蓄積されているのに対し、根圏部の温度管理の研究例はまだ乏しい。また、従来の研究例は養液栽培で多く栽培されている果菜類のトマト、キュウリなどが多く、葉菜類に関する養液冷却の研究は少ないのが現状である。そこで本研究は、高温期の栽培が難しく、夏から秋にかけて品薄となる冷涼野菜であるホウレンソウ(Spinacia olerocea L、日本品種名:おかめ)を研究対象とした。

2.研究目的

 本研究は高温環境下におけるホウレンソウの養液栽培の問題点である高温障害発生の機作を模索しながら、養液温度制御に省エネルギー可能な栽培方法を探ることにした。そこで本研究の目的は次のように設定した。

 (1)高温環境下における養液温度が生育に及ぼす影響についての基礎データを得る。

 (2)養液温度の変動条件下での生育への影響を把握し、生育促進および冷却コスト低減の可能性を調べる。

 (3)高温障害発生の基礎的な知見を踏まえて、生理面から障害を軽減する方法を探る。

本論1.養液温度が高温環境下における生育に及ぼす影響

 本研究は恒温チャンバーを使って実験を行った。チャンバー内の栽培条件は、夏の温室環境を再現するため、Table1に示すような栽培環境を設定した。また、栽培装置の概略図をFig.1に示す。標準山崎ホウレンソウ処方の0.8倍培養液を使用した。

 本章は高温環境下における養液温度がホウレンソウの生育に対する効果を明らかにすることを目的とし、広範囲の養液温度(16〜33℃)において調べた(Fig.2)。また、光合成および葉温の測定と根の状態の観察により、養液温度制御の基礎的な資料を得て、高温障害の原因を検討した。

 生体重は養液温度16℃から26℃までの試験区が28℃以上の区に比べて顕著に大きくなった。26℃以上の養液温度処理区での生体重は急に低下し、33℃では、ほとんど生長しなかった。また生体重は22℃試験区で最大になった。養液温度20,24,28,33℃各区における葉温の24時間の経時変化をFig.3に示す。20,24,28℃3区の葉温はチャンバの気温より低くなったが、チャンバ内の設定気温と同じ液温の33℃試験区の葉温は、他の試験区より4℃以上高く、明期にはチャンバの気温より高くなった。この結果から、養液冷却より効果的な蒸散が行われ、葉の活動が維持されたと考えられる。また、20、24、28℃試験区における明期の葉温は1℃以内の差しかないため、蒸散速度および光合成に対する温度環境はほぼ同じであると考えられた。そのため、地上部に生じた生長量の差異は主に地下部の温度環境に起因すると考えられた。

2.養液の変温管理による生育促進の可能性

 高温では、生化学反応速度の増加、栄養物質の拡散能力の増大、水の粘性低下による通水抵抗の減少などの生長促進因子が挙げられる。しかし、同時に生理機能の低下も生じる。たとえば,タンパク質の合成反応は温度に依存し、構造上の変性は高温に遭遇する時間とともにに可逆的な段階から不可逆的な段階に進行する。そこで本章では、生理的に回復可能な範囲の明期の高い養液温度およびその遭遇時間を調べるため,養液温度を適温から高温に変える処理、および明期に数段階の高い養液温度を設定し暗期のみ養液を冷却する処理を試み、養液温度と根の生育の関係について考察を行った。

2.1養液の適温から高温への変化が根の生長に及ぼす影響

 15日目の苗をチャンバー内に移植し、4試験区とも養液温度を20℃で一定に保って206時間栽培した後、培養液を更新し、各試験区の養液温度をそれぞれ20,26,30,34℃に設定し、72時間栽培した。培養液交換後の72時間に明暗期の切替時点で各試験区の根量、イオン吸収量を、収穫直後に根の糖含量を測定した。

 Fig.4に養液温度処理を行った72時間の根量の変化を示す。20℃と26℃試験区の根量はほぼ同様であったが、34℃試験区の根は24時間後に生長が停止した。30℃試験区では処理開始48時間までの根量は20℃と26℃試験区に比べて低下しなかったが、48時間以後、生長がやや抑制した。収穫後の各試験区の糖含量をFig.5に示す、34℃試験区の根の糖含量は他の試験区に比べて大きかった。また,20℃と26℃試験区の根ではほとんど存在しなかったラフィノースが、30℃試験区の根には1g生体重当たりに0.41mg含まれ、34℃試験区には0.91mgも蓄積されていた。蓄積されたラフィノースは高温ストレスによる生合成された貯蔵型の糖と考えられた。

2.2養液の変温管理が収量および根の生長に及ぼす影響

 苗をチャンバーに移植し、養液温度を明/暗期別の20/20、26/20、30/20、34/20℃とする4試験区を設定した。206時間後培養液を更新し、さらに72時間栽培した。測定項目は前節と同じく、収量も測定した。

 根量の経時変化をFig.6に示す。養液温度を明/暗期別に変温処理した34/20℃試験区は、前節の34℃試験区と同様に根の生長が停止していた。他の試験区の根の生長は同じ傾向を示したが、30/20℃試験区で最大であった。収穫後の根の糖含量をFig.7に示す。スクロース含有量は34/20℃試験区で依然最大になった。しかし、26/20℃と、30/20℃2試験区の方は前節の26℃および30℃試験区より低くなった。また、30/20℃と34/20℃2試験区のラフィノース含有量も前節より約80%減少した。収量をFig.8に示す。20/20、26/20、30/20℃の3試験区は有意水準5%の検定で、有意差はなく、ほぼ同じ生育量が得られた。

3.NaCl養液添加による高温障害の抑制効果

 ホウレンソウはアカザ科(Chenopodiaceae)に属し,塩に弱耐性を持つ塩生植物である.近年では,培養液に塩化ナトリムの施用による収量の増大や,水ストレス,浸透圧調節剤としてポリエチレングリコール(PEG)の添加により,糖類,ビタミンCの増加およびシュウ酸含量の減少傾向などの品質向上に関する研究例が報告されている。また、ホウレンソウはNaCl処理により、糖類やNaおよびClイオン、またプロリン、グリシンベタインなどのアミノ酸を適合溶質として、細胞内に蓄積する。これらの溶質は生体内の熱温度条件下でのタンパク質や酵素の構造に安定作用があると報告している。そこからヒントを得て、本章では、NaClの養液添加により、根の高温ストレスを緩和する効果の可能性を検討することを目的とした。

3.1NaClが高い養液温度下における生長に及ぼす影響

 10日間育てた苗をチャンバーに移植し3日順化栽培し、その後試験区は養液温度20℃でNaCl無添加、20℃でNaCl43mMと30℃でNaCl無添加、および30℃でNaCl43mMの4試験区を設定し、11日間実験した。実験終了時点に30℃NaCl無添加の試験区の根は既に深刻なダメージを受け、褐変していた。逆に30℃NaCl43mM試験区ではまだ一部正常の根が観察できた。各試験区の根量の経時変化をFig.9、地上部の生長量をTable2に示す。30℃NaCl43mM試験区の地上部生長量と30℃NaCl無添加の試験区のとあまり大きな差が見られないが、地下部の根量は1.5倍の差もあった。また、30℃NaCl43mM試験区にデータのばらつきが小さく、NaClの添加処理の根の高温障害への抑制効果が認められた。

3.2NaClおよびPEGが高温遭遇後の根の生長促進に及ぼす影響

 前節と同様に苗をチャンバー内において20℃で3日順化栽培し、NaCl130mM(浸透圧0.67MPa)、43mM(0.26MPa)、無添加(0.05MPa)とPEG1500 29g/L(0.26MPa)の4つの試験区を設けた。移植して5日目から4試験区とも養液温度を34℃に変えて、2日間高温処理した。データを取るため各試験区6株を取り、その後養液を交換し、養液温度を20℃に戻して、根の高温遭遇後の生長回復状況を調べた。

 4試験区の根量の経時変化をFig.10に示す。高温および浸透圧処理終了3日後から、NaCl43mM添加の試検区は他の試験区より根の生長は急に増加し、7日目に他の試験区より顕著に大きくなった。130mM試験区では濃度が高すぎるせいか、無添加の試験区と同じレベルであった。また、NaCl43mMと同浸透圧のPEG試験区では、根の状態は健全であるが、高温処理後は、一部の葉が萎れる現象が現れ、根もあまり生長はしなかったため、高温障害を緩和する役割は浸透圧だけではないと考えられた。

4.総括

 (1)高温環境下において、養液冷却により、収量と根の生長にプラスの効果が認められた。養液温度を一定とする場合には、22℃で収量が最大となった。

 (2)養液の変温管理では、暗期の養液温度を20℃に維持すれば、明期の養液温度は30℃まで上昇しても、生長、収量は変わらないことが明らかになった。

 (3)NaCl処理により、高温障害の緩和と一時的な高温遭遇後の根の生長促進が確認された。

Table 1 Description of the experimental conditions common to all of the treatmentsTable.2 Effect of solution temperature and NaCl treatments on shoot and root fresh weights.Fig.1 Schematic diagram of the system to control the hydroponic nutrient solution temperature.Fig.2 Relationship between solution temperature and shoot weight.(Different alphabelical letters indicale significant difference at P=0.05).Fig.3 Time courses of leaf temperatures with differect solution temperaturesFig 4 Time courses of spinach root volume with four different solution temperature treatments (was raised to 20,26,30,and 34℃ each for 72 hours.)Fig.5 Effect of solution temperature on sugar concentration in roots.The solution temperature was raised to 20,26,30,and 34℃ each for 72 hours.Fig.6 Root volume of spinach during the last 72 hours with four different solution temperature treatments (20/20,26/20,30/20,and 34/20℃ in light/dark penods).Fig.7 Effect of solution temperature on sugar concentration in roots.Plants were grown in four different solution temperature treatments for 12 days.Fig.8 Relationship between solution temperature and shoot weight.(Different alphabetical letters indicate significant difference at P=0.05).Fig.9 Time courses of root volume changes following solution tmeperature and NaCl treatments.Fig.10 Change in root volume following 2 days of 34℃ temperature treatment with NaCl and PEG.
審査要旨

 高温環境下における施設内での養液栽培は、作物が高い養液温度にさらされやすく、高温障害の発生によって収量、品質が低下する問題点がある。また、既往の研究では葉菜類に関する養液冷却の研究例が少なく基礎データが乏しいのが現状である。本論文は、高温環境下におけるホウレンソウの養液栽培の問題点である高温障害発生のメカニズムを明らかにし、養液温度制御に有効な栽培方法を探ることを目的として行った研究で、6章よりなる。

 1章は、序論にあてられ、研究背景を明らかにし、本論文の目的について述べている。

 2章では本研究で使用する実験装置について説明した。

 3章では、高温環境下における養液温度がホウレンソウの生育に対する効果を明らかにすることを目的とし、広範囲の養液温度(16〜33℃)において調べた。生体重は養液温度16℃〜26℃までの試験区が28℃以上の区に比べて顕著に大きくなった。26℃以上の養液温度処理区での生体重は急に低下し,33℃ではほとんど生長しなかった。20〜28℃試験区における明期の葉温は気温+1℃以内であり、養液冷却により効果的な蒸散が行われ、葉の活動が維持されたと考えられた。以上のことから、高温環境下における養液冷却は根圏環境を改善し地上部および根の生長に効果があること、また養液温度を一定とする場合には、20〜22℃が適温であることを明らかにした。

 4章では、生理的に回復可能な範囲の明期の高い養液温度およびその遭遇時間を調べるため,養液温度を適温から高温に変える処理、および明期に数段階の高い養液温度を設定し暗期のみ養液を冷却する処理を試み、養液温度と根の生育の関係について考察を行った。第一の実験では、養液温度20℃一定で栽培した後に養液を更新し、養液温度を20,26,30,34℃に設定して栽培した。20℃と26℃試験区の根は健全であったが、34℃試験区の根は24時間後に生長が停止し、30℃試験区の根の成長は48時間以後やや抑制された。20と26℃試験区の根ではほとんど存在しなかったラフィノースが、30℃と34℃の試験区には高い濃度で蓄積されており、このラフィノースは高温ストレスにより生合成された貯蔵型の糖と考えられた。第二の実験では、養液温度を明/暗期別に変温処理した20/20、26/20、30/20、34/20℃とする4試験区を比較した。20/20、26/20、30/20℃の3試験区はほぼ同じ生育量が得られたが、34/20℃試験区は根の生長が停止した。本章の結果から、明期に養液温度が34℃を越えると暗期に養液冷却しても根の成長は回復しないこと、また養液の変温管理では、明期の養液温度は30℃まで上昇しても暗期の養液温度を20℃に維持すれば、生長、収量は変わらないことを明らかにした。

 5章では、NaClの養液添加により根の高温ストレスを緩和する効果の可能性を検討した。第一の実験では養液温度20℃でNaCl無添加、20℃でNaCl43mMと30℃でNaCl無添加、および30℃でNaCl43mMの4試験区を比較した。30℃NaCl無添加の試験区の根は深刻なダメージを受け褐変したが、30℃NaCl43mM試験区では一部に正常の根が観察された。両区の地上部生長量には大きな差が見られないが、地下部の根量は30℃NaCl43mM試験区で1.5倍になった。このことからNaClの養液添加はホウレンソウの高温障害を軽減する効果のあることを明らかにした。第二の実験ではNaCl処理の浸透圧の効果を調べるために、NaCl区および等浸透圧のPEG1500添加区を比較した。NaCl43mM添加の試験区の根が健全な成長を示すのと対照的にPEG試験区では、高温処理後は一部の葉が萎れる現象が現れ、根の成長も遅れた。このことから、NaClが高温障害を緩和する役割は浸透圧だけでなく、濃度には適値が存在することを明らかにした。

 6章では、本研究で得られた成果をまとめ、全体の討論を行った。

 以上、本論文は、高温環境下におけるホウレンソウの養液栽培の問題点である高温障害の発生機構を明らかにし、養液温度制御に有効な栽培方法を提案したもので、学術上のみならず応用上も価値が高い。よって審査委員一同は、本論文が博士(農学)の学位論文として価値あるものと認めた。

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