学位論文要旨



No 113557
著者(漢字) 李,漢埈
著者(英字)
著者(カナ) イ,ハンジュン
標題(和) 消化器管特異的に発現する新しいカルパインのクローニング及びその解析
標題(洋)
報告番号 113557
報告番号 甲13557
学位授与日 1998.03.30
学位種別 課程博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 博農第1916号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 応用生命工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 鈴木,紘一
 東京大学 教授 阿部,啓子
 東京大学 教授 福井,泰久
 東京大学 教授 石浦,章一
 東京大学 助教授 正木,春彦
内容要旨 I.序論

 細胞内シグナル伝達機構は細胞が恒常性維持のため長い進化の末に自ら獲得した複雑かつ精巧なシステムである。シグナル伝達をはじめ細胞内のすべてのシステムがうまく働くためには細胞中の様々の機能分子が発現、修飾、分解されることが必要となる。その中で最も大事な役割を果たしているのが細胞内蛋白質を分解する酵素群、細胞内プロテアーゼである。これらの酵素群は自分の基質蛋白質に厳密な特異性をもっており、誤差なく働く時、その真価が発揮される。特にこれら細胞内プロテアーゼは厳密に制御されなければ細胞に計り知れない損傷を与える。要するに細胞内蛋白質の合成と分解のバランスは細胞の生理機能維持に必須であると言えよう。細胞内の蛋白質を分解するシステムには現在までにリソゾーム分解系、カルパイン系、ユビキチンを介在するプロテアソーム系がよく研究されている。

 その中でカルパインはカルシウムイオンによって制御される体表的なプロテアーゼであり、すべての動物細胞には普遍的に分布している。カルパインは自分の基質となる蛋白質に対して特異性が非常に高く、単に細胞内蛋白質を無差別に分解する酵素ではなく、細胞内の蛋白質を限定分解し、その性質や機能まで変えるバイオモジュレーターであると考えられている。近年、分子生物学手法により多彩な生物種からカルパインと相同性をもつアイソザイムの存在が次々と確認され、カルパインがシステインプロテアーゼとしてスーパーファミリーを形成していることが判明した。カルパインスーパーファミリーは、1)組織普遍的に発現するカルパイン、2)組織特異的に発現するカルパイン、3)主に下等な動物から見いだされているカルパイン様プロテアーゼに大別される。組織普遍的なカルパインには-、/m-、m-カルパインがあるが、その中で-カルパインとm-カルパインはカルシウムイオンに対する感受性が異なり、それぞれはM及びmMのカルシウムイオンの濃度で活性を示す。とちらもその分子量が約11万で、それぞれは異なる約80kDa活性サブユニット(CL、mCL)と、両者に共通な約30kDaの調節サブユニット(30K)からなるヘテロダイマーを形成している。いずれも組織普遍的な発現を示していることから細胞内で基本的かつ必須な機能を担っていると予想される。

 これに対してカルパインには組織特異的発現を示す分子種の存在が明らかとなり、普遍的カルパインと協同しつつ各組織に特異的な機能を実現していると予想されている。組織特異的なカルパインも構造的には従来のカルパインと同様のドメイン構造をとるが、骨格筋に特異的なp94は挿入配列を持ち、自己消化が早いこと、また、胃特異的なnCL-2にはカルシウム結合領域をalternative splicingによって欠失したもの、nCL-2’もあることが特徴である。

 組織普遍的なカルパインはその普遍性のゆえに遺伝子破壊解析などが困難であるのに対し、組織特異的なカルパインは遺伝子破壊解析だけではなく、組織の機能と関連した解析などが可能であるため興味深い。そこで、本研究は組織特異的なカルパインの遺伝子破壊解析、組織特異的な発現機構の解析などを行うため、胃特異的カルパイン、nCL-2の遺伝子クローニングを試みた。ところが、解析途中に新しいカルパイン分子種が見いだされ、nCL-2よりこの分子種の徹底的な究明が重要であると考え、1)遺伝子及びそのcDNAの構造解析、2)組織分布及びその発現様式解析、3)染色体上の位置解析、4)組織内局在解析、5)生化学的及び酵素学的解析などを行ない、新しいカルパイン分子種の特質を明らかにした。

II.実験結果及び考察1.新しいカルパイン遺伝子のクローニング及びその解析

 ラットnCL-2cDNAをプローブとしてマウス遺伝子ライブラリーのスクリーニングを行なった結果、約4×105の独立的なプラークから8つの陽性遺伝子クローンを単離した。その結果、01xSSC/0.1%SDSの条件でラットのnCL-2cDNAと強くハイブリダイズした7つはすべてnCL-2遺伝子クローンであると同定されたが、残る一つ、204はハイブリダイズする強度が他の7つのクローンに比べて著しく弱かった。そこで、このクローンを詳しく解析した結果、少なくともカルパイン大サブユニットのエキソン3とエキソン5に相応する配列は同定できたが、これらの配列はnCL-2に相当する配列とは有意に異なっていた。さらにエキソンが含まれている204の遺伝子DNA断片でバックスクリーニングを行ない、これと重複し、5’側に約5.8kbpぐらい延長しているクローン305を単離した。本研究により同定した遺伝子のエキソン3とエキソン5のアミノ酸配列を他の既知のカルパイン大サブユニットと比較すると、どれに対しても60-80%の相同性を示し、特にnCL-2に近いこともなかったことから204と305に含まれている遺伝子断片はnCL-2遺伝子ではなく、新しいカルパイン分子種をコードするものであると判明した。

 一方、後に明らかになるように、この分子種は発現が胃及び小腸など、主に消化器官に偏っているため、骨格筋、胃、脳に続く4番目の組織特異的なカルパインであることでnCL-4(novel Calpain Large Subunit-4)と命名した。

2.nCL-4cDNAのクローニング及びその解析

 前章で同定した新しい遺伝子クローンの実体を明らかにするため、これに相応するcDNAクーロンをマウス、ラット、ヒト胃のcDNAライブラリーから単離し、その一次構造を明らかにした。その結果、ヒトnCL-4は、最長のオープンリーティングフレームが690個のアミノ酸からなり、計算される分子量は79,095となった。また、他のカルパインと同様に四つのドメインで構成されており、これらと比較して大きな欠失やp94で見られるような挿入配列は存在しなかった。特に活性中心のシステイン、アスパラギン、ヒスチジンの周りの配列は他のカルパインに対して極めてよい相同性を示しており、全配列にわたってもよい相同性を示すことからnCL-4はシステインプロテアーゼであることが強く示唆された。カルシウムイオン結合領域のドメインIVには5つのEF-ハンドが存在しており、それぞれは他のカルパイン大サブユニット及び30KのドメインIV’のものによい相同性を示すことからnCL-4はカルシウムイオンに依存するシステインプロテアーゼであることが強く示唆された。

 特にnCL-4は哺乳動物の特定のカルパインに対して強い相同性が見られず、組織普遍的なカルパインにも、組織特異的なカルパインにもほぼ等しい相同性(約50-55%)を示していることから、既知のカルパインのアイソフォームではなく、新しいカルパイン分子種であることが確認された。一方、異種間においても約90%前後の高い相同性を示すことから長い進化過程において他のカルパイン大サブユニット同様によく保存されていることが判明し、生理的重要性が強く示唆された。

3.nCL-4の組織分布

 ノーザンブロット解析よりnCL-4は主に消化器管である胃や小腸において強い発現が認められることと同じ平滑筋である子宮では発現がほとんど見られないことから、消化器系の臓器において基本的かつ必須な役割を果たしていることが示唆された。

 胃にはnCL-2も強く発現しており、今後胃において両者の生理的役割に注目が集まる。

4.ヒトnCL-4遺伝子の染色体マッピング

 nCL-4の組織特異的な発現様式から特定の遺伝的疾患と関連性が考えられ、その解析の第一報として、スタンフォードG3ラディエーションハイブリドパネルを用いて染色体マッピングを行なった。その結果、nCL-4遺伝子はヒト染色体1番のGD BLocus225またはSH GC-30183の付近に位置することが明らかとなった。

5.培養細胞(COS-7)によるnCL-4の発現

 ヒトnCL-4遺伝子はCOS-7細胞に過剰発現させると、蛋白質として安定に発現し、p94のような早い自己消化は起こらないことが判明した。しかし、その細胞破砕液をウエスタンブロットすると可溶性画分には検出できなかった。一方、nCL-4を過剰発現した細胞を抗体染色すると核やそのまわりが強く染色された。nCL-4には核移行シグナルや膜結合部位などは存在しないことから、過剰発現によるミスロカリゼーションである可能性も考えられた。

6.免疫蛍光組織染色によるnCL-4の胃の組織内局在及び発現確認

 ラット胃の組織切片をnCL-4に特異的な抗体により免疫蛍光染色した結果、胃底腺領域において強いシグナルが認められ、nCL-4が胃で大事な機能を果たしていることが強く示唆された。特に、胃の壁細胞に多く分布していることから塩酸の分泌など胃の特殊な機能に関連している可能性を示唆した。

7.バキュロウイルス発現系によるリコンビナントヒトnCL-4の大量発現及びその精製

 Bac-to-BacTMバキュロウイルス発現系nCL-4の生化学的及び酵素学的性質を調べた。その結果、リコンビナントヒトnCL-4は酵素活性の上では普遍的カルパインと類似していることが判明した。カルシウムイオンに対する感受性はニワトリの/mカルパインのものに近く、カルパインの特異的阻害剤で阻害された。特に活性発現には普遍型カルパインの制御因子、30Kを必要とし、生体内においても30Kとの相互作用が強く示唆された。しかし他の普遍型カルパインに比べると温度感受性は極めて特殊であり、また、自己消化パターンにおいても他の組織普遍的なカルパインで見られるような中間産物は生成されず、自己消化の速度も他の普遍的カルパインより遅いことを考え合わせるとnCL-4の酵素学的特性は巨視的には普遍的カルパインと類似しているが、微視的にはかなり特殊な性質をもっていることが判明した。この点はカゼインを基質にした比活性からも示唆されており、その比活性が他の普遍的なカルパインより極めて低いことから一層限定的に細胞内蛋白質を分解し、細胞内情報伝達系などにおいて必須かつ特殊な機能を担っていることが示唆された。今後天然型nCL-4を精製し、比較の必要があると考えられる。

III.総合討論

 本研究によりnCL-4は長い進化の過程においてよく保存されていることが判明し、生理的に基本的かつ必須的な役割を果たしていることが考えられる。特に相同性の面では組織普遍的なカルパインにも、組織特異的カルパインにも、同程度の進化的距離にあることから、哺乳動物カルパインの祖先である可能性が考えられる。nCL-4は胃や小腸において強い発現が認められることと子宮では発現がほとんど見られないことから、消化器系の臓器において基本的かつ必須な役割を果たしていることが示唆された。この点は胃の免疫蛍光染色の結果によって支持される。一方、nCL-4は他の臓器にも発現が若干見られることから機能的に組織特異的なカルパインと組織普遍的なカルパインの中間的な性質も持ち合わせているとも考えられる。この点、nCL-4の酵素学的特質からも示唆され、今後nCL-4の生理機能解明に注目が集まる。

 今回、新しいカルパイン分子種を単離したことによって、現在までに知られているカルパインファミリーの分子種以外にも更に新しいカルパイン分子種が存在していることが明らかになったわけで、各々のカルパイン分子が役割分担を行ないつつ複雑なネットワークを形成していることを示唆している。このネットワークの解明こそ、カルパインの生理機能のみならず、細胞の生命原理を解き明かすことになりうるであろう。

審査要旨

 カルシウム依存性システインプロテアーゼ、カルパインは細胞内タンパク質を限定的に分解するバイオモジュレーターであり、動物細胞には普遍的に分布していることから細胞内で基本的かつ必須な機能を果たしていると考えられている。近年、分子生物学的手法により多彩な生物種からカルパインと相同性をもつアイソザイムの存在が次々と確認され、カルパインがシステインプロテアーゼのスーパーファミリーを形成していることが判明した。その中で組織特異的なカルパインは、普遍的カルパインと共同しつつ、各組織において特異的な生理機能を果たしていることが予想される。そこで本研究は組織特異的なカルパインの遺伝子破壊解析、発現機構の解析を行なうため、胃特異的カルパイン、nCL-2の遺伝子クローニングを試みたが、解析途中に新しいカルパイン分子種、nCL-4を見いだしたので、その詳しい解析を目的とし、研究を行なったもので、全VIII章よりなる。

 第I章は略語、第II章はカルパイン研究の流れ及び本研究の意義と目的を記したもので、全体の導入部である。第III章と第IV章では本研究で用いた実験材料及び方法について記した。第V章は本研究より得られたnCL-4の核酸及び蛋白質レベルでの解析を記したものでその内容は次のようである。

 先ず、nCL-4遺伝子の部分構造を決定し、エキソン3と5及び挿入配列をニワトリ/mカルパインのものと比較した結果、遺伝子構造は従来のカルパインと類似していた。特にnCL-4はこの時点で未知の新規カルパインと考えられ、その構造と機能を明らかにするため、更に解析を進めた。そこで、マウス、ラット、ヒトのnCL-4のcDNAを同定し、その1次構造を決定した結果、ヒトnCL-4は従来のカルパインと同様に4つのドメインで構成されており、最長のオープンリーディングフレームは690個のアミノ酸からなり、特殊な挿入、欠失配列はなく、カルパインファミリーの間でよく保存されているアミノ酸残基はよく保存されていることが判明した。この結果よりnCL-4は機能的にカルシウム依存性システインプロテアーゼであることが強く示唆された。特に相同性の面では哺乳動物のすべてのカルパイン分子種から同程度の距離にあるため、哺乳動物カルパインの祖先である可能性が考えられた。また、異種間においても約90%位の高い相同性を示すことより生理的にも大事な機能を果たしていることが予想された。

 一方、ノーザンブロット解析の結果、nCL-4のmRNAは他の臓器でも若干の発現が見られるが、主に胃と小腸で強い発現が認められたため、消化器管において基本的かつ特殊な機能を果たしていることが示唆された。また、染色体マッピングより、nCL-4の遺伝子がヒト染色体1番の上に存在することが判明した。

 このように新しいカルパイン分子種、nCL-4を単離したことによって、現在までに知られている

 カルパインファミリーの分子種以外にもさらに新しいカルパイン分子種が存在していることが明らかになったわけで、各々のカルパイン分子が役割分担を行ないつつ複雑なネットワークを形成していることを示唆している。このネットワークの解明こそ、カルパインの生理機能のみならず、細胞の生命原理を解き明かすことになりうるであろう。

 次にヒトnCL-4をCOS-7細胞に過剰発現させると蛋白質として安定に発現し、p94のような早い自己消化は起こらないことが判明した。また、nCL-4が過剰発現したCOS-7細胞を抗体染色すると核やそのまわりが強く染色され、細胞核の核質、核小体、核膜にも局在する可能性が示唆された。特に、免疫蛍光染色によりラットの胃の細胞において強い発現が見られることより細胞内できちんと翻訳され、大事な役割を果たしていることが示唆された。

 そこでnCL-4の生化学的特性を調べるため、バキュロウイルス発現系を用いて大量発現を行なった結果、nCL-4は活性発現には普遍的カルパインの調節因子である30Kを必要とすること、また、生化学的及び酵素学的に普遍的カルパインとよく似た性質をもつことが判明した。即ち、80Kと30Kのヘテロダイマーであり、カルシウム依存性のシステインプロテアーゼであり、カルパインの特異的阻害剤で阻害されることが判明した。特に、バキュロウィルスの発現系で、普遍的カルパインと同様に30Kの共発現により安定に生産されることからこの酵素は天然組織中でも普遍的カルパインのような酵素学的特性を示していると考えられた。

 しかし、nCL-4の酵素学的特性は巨視的には普遍的カルパインと類似しているが、微視的にはかなり特殊な性質をもっている。即ち、その温度感受性は極めて特殊であり、比活性も低く、カゼインが必ずしもよい基質ではないことを示唆している。むしろnCL-4はより限定的に基質を分解する情報伝達に特殊化した酵素であることが示唆された。特に組織特異的なカルパインの生化学的及び酵素学的特質の情報は普遍的カルパインに比べて非常に乏しい状況であるが、本研究によりnCL-4の酵素学的特質が明らかとなったわけで、組織特異的なカルパインの生化学的及び酵素学的研究が大きく進展することになった。

 第VI章では本研究より得られた事実をもとにして本研究が示唆する意味と価値ならびに今後の展望について記した。最後に第VII章と第VIII章は参考文献と謝辞を記した。

 以上、本論文は新規の消化器管特異的に発現するカルパイン、nCL-4を同定し、そのcDNA構造と生化学的及び酵素学的特徴を明らかにしたので、蛋白質の選択的代謝に関係するプロテアーゼ、特に、組織特異的なカルパイン研究に新しい視点を投じたものとして学術上貴重なものである。よって審査員一同は、本論文が博士(農学)の学位論文として価値あるものと認めた。

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