学位論文要旨



No 113561
著者(漢字) 孫,民守
著者(英字)
著者(カナ) ソン,ミンシュ
標題(和) 日本における自然発症スクレイピー研究
標題(洋) The study of natural scrapie in Japan
報告番号 113561
報告番号 甲13561
学位授与日 1998.03.30
学位種別 課程博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 博農第1920号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 応用動物科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 小野寺,節
 東京大学 教授 小川,智也
 東京大学 教授 東條,英昭
 東京大学 教授 森,裕司
 東京大学 助教授 松本,芳嗣
内容要旨

 スクレイピーは、緬山羊に見られる慢性の致死性伝染性疾病で、本病に感染した動物は、通常数ヵ月から数年という長い潜伏期を経て発病に至る。その主要臨床症状は、運動失調、激しい掻痒感から体を立ち木等に擦りつけるために腹、背部や臀部を中心に顕著な脱毛が見られることも特徴である。病原体については、まだ特定されていないが、ウイルスよりさらに小型の感染性因子であり、物理化学的処理に対し抵抗を示し、感染宿主に免疫反応を起こさない等の特徴がある。自然界での伝達様式については、不明な点が多く、一般的に水平伝達あるいは垂直伝達であると考えられる。緬羊及び山羊のスクレイピーは1996年4月に家畜伝染病予防法が改正され、法定伝染病に準ずる扱となった。従って現在はもし病気が発生すれば一般に公表され、国際機関に報告されなければならない。しかし以前はそのような規定が存在しなかった。従ってスクレイピーの発生も、県の段階で留まっていることも多く全国的な統計は必ずしも集計されないことも多い。改正された家畜伝染病予防法により、今後この方面の情報の整備がなさるであろう。そのような状態で日本のスクレイピーについても、過去に比べより正確な把握が必要になるつつある。そこで、我々は日本におけるスクレイピー発生状況把握や発病病理究明を目的として以下の研究を行った。

 第1章では日本におけるスクレイピー発生状況把握を目的として臨床症状をもとに掻痒型、麻痺型および無症状型に分けて検討した。また、スクレイピーの疫学およびそのコントロールにつき考察を行った。スクレイピーの発生は1732年英国で世界で最初のスクレイピーが報告され、1938年カナダで英国から輸入されたサフォーク種緬羊において、スクレイピーが発生した。日本では、1974年カナダよりサフォーク種の緬羊が北海道の十勝及び上川の牧場に導入され、同時にスクレイピー病原体も導入されたと考えられる。1981年末、十勝地方の一牧場の緬羊で高度のやせ、脱毛、全身性掻痒、運動失調を主徴とし、これらの症状が長期にわたって徐々に進行し、冬には起立不能になって死の転帰をとる原因不明の疾病が発生し始めた。1983年8月までにサフォーク種及びコリデール種の緬羊50頭がこの疾病により死亡したものと考えられる。1984年4月26日農水省畜産局衛生課は、世界獣疫機構に、日本におけるスクレイピーの初発例について報告した。我々は北海道、北日本、東京周辺、九州等で発生したスクレイピーを掻痒型、麻痺型および無症状型に分けて検討した。掻痒型は北海道、北日本、東京周辺のサフォーク種またはコリデール種の緬羊に見られた。3-4歳に見られ、初期に麻痺を示し、体を擦り付けるので、その部分の体毛は擦り切れて脱毛のように見られた。その後、歩行そうろうし、しだいに運動失調が強くなり、最後に体が麻痺して死亡した。以上の病気の経過は2-3ヵ月であった。これに対し麻痺型は1989-1990年に見られた型で、北海道、北日本、九州のコリデール種に見られた。2歳または2歳未満の羊にみられ、掻痒症をまったく示さないのでスクレイピーと呼ぶより羊海面状脳症と呼ぶのが適当ではないのかとさえ思われた。いきなり歩行そうろうを示し、2週間-1ヵ月の経過の後に麻痺を示して死亡した。無症状型は、麻痺型の羊と同居していた北日本のコリデール種羊にみられた。2歳またはそれ以下の羊で、臨床症状を全く示さないため、外見上は健康と思われた。日本における発病品種は数例のコリデール種も含まれていたがサフォーク種がほとんどであった。スクレイピーに感染された北海道のサフォーク種羊の平均死亡年齢を測定した。その結果、平均死亡年齢は8年間の間、6歳から2歳に減った。これは感染羊に露出されることによって感染力が徐々に増加され、結果として潜伏期が徐々に短くなったことが示唆された。スクレイピーに感染している母親から生まれた子を、生後すぐに母親から離して仮親に付けた、別の実験では、一週間後あるいはさらに長く母親に付けた後、仮親に付けた。すると、生後すぐに母親から離された場合スクレイピーの発生はなかったが、母親との接触時間が長くなるに従って、スクレイピーになる頻度が高くなった。従って、子羊が生後密接に母親と接触している時期に感染を受けることが明らかにされた。しかし、病原体が何に含まれてどのような経路で感染するのか、まだ不明である。感染している雌が出産した際の胎盤にも高い感染性が認められる。したがって、そのような胎盤を直接、あるいはそれで汚染された牧草などを食した際に、病原体がほかの羊に伝達されるものと考えられる。スクレイピーの撲滅は大変困難であり、オーストラリアとニュージーランド以外では成功していない。この時の方法には徹底した厳しさが伺える。両国のスクレイピーの発生は輸入によって起こったことから、それに関わった緬羊とその子孫、接触した動物全てを屠殺したため、撲滅に成功したと考えられる。スクレイピーは母親から感染を受けると同時に、出産時の胎盤から水平感染が起きると考えられるため、母親が発病した場合、その兄弟や子などの関連する羊を淘汰すると同時に出産後の後産を速やかに焼却あるいは埋却、消毒を行い水平感染を防止することが重要である。このような方法では完全な徐去は期待できないが発生頻度を低下させる有効な手段であると考えられる。スクレイピーの清浄地域では有病地からの羊はたとえ健康に見えても導入は一切行わないことが肝要であると考えられる。

 第2章ではスクレイピーの発病病理究明を目的としてHematoxylin and Eosin(H&E)染色やウエスタンブロッデイングによる病理学的解析を行った。病理組織学的検査では掻痒型、麻痺型とも脳幹部、延髄に神経細胞の空胞変性が見られるが麻痺型の方が大脳皮質、髄質、脳幹部、延髄にわたり、より広範囲にわたり神経細胞の空胞変性が観察された。無症状型は、麻痺型のスクレイピーと同様に、大脳皮質、髄質、脳幹部、延髄の広範囲にわたり神経細胞の空胞変性が観察された。特徴病変は中枢神経系に限定されていた。大脳灰白質、視床、中脳、橋部、延髄等の神経網、神経細胞等に空胞形成による海面状変化が見られた。この変化は顔面神経核、疑核、オリーブ核、三叉神経脊髄路核、三叉神経中脳路核、中脳中心灰白質、舌下神経核などで観察された。特に、孤束核、副楔状束核に好発して神経細胞の空胞が認められた。好発部位の標本では1切片あたり12-112個の空胞が観察された。また、血管周囲のアミロイドが2例で観察された。以上の灰白質の海綿状変化とともにアストログリオーシスが見られた。アストログリオーシスは他の疾病にも認められるので注意が必要であると考えられる。また感染羊の脳病変は短い潜伏期を経て死亡した羊ほど頻度が高く病変が観察された。ウエスタンブロッデイングにより掻痒型、麻痺型、無症状型とも脳幹部よりプリオン蛋白が検出された。羊スクレイピーとBSE(Bovine spongiform encephalopathy)症例の脳病変の分布にもいくつかの差が見られる。延髄部分は伝達性海綿状脳症の病理診断において重要な組織で、特徴的な病変の出現する部位として知られている。その部分の病理切片を観察すると、BSEでは主として迷走神経背側核、孤束核、三叉神経脊髄神経路核に病変が分布していると報告されている。これに対し、スクレイピー羊の延髄病理切片を観察すると、以上の部位にも病変が見られるが、副楔状核やオリーブ核により頻度が高く病変が見られた。したがって、羊と牛では仮に同じ病原体に感染したとしても、病変分布が異なるか、牛病原体は羊病原体の亜型であるため病変の分布が異なるのかは、今後の研究課題の一つとなっている。

 本研究から、日本におけるより正確なスクレイピー発生状況把握のための補助資料の提供ができたと考えられる。日本における発病品種は数例のコリデール種も含まれていたがサフォーク種がほとんどであった。スクレイピーに感染された北海道のサフォーク種羊の平均死亡年齢は8年間の間、6歳から2歳に減少したことが明らかにされた。病理組織学的検査では掻痒型、麻痺型、無症状型とも脳幹部、延髄に神経細胞の空胞変性が見られるが孤束核、副楔状束核に神経細胞の空胞変性が好発していることが明らかにされた。またウエスタンブロッデイングにより掻痒型、麻痺型、無症状型とも脳幹部よりプリオン蛋白を検出する事ができた。

審査要旨

 スクレイピーは、緬山羊に見られる慢性の致死性伝染性疾病で、本病に感染した動物は、通常数ヵ月から数年という長い潜伏期を経て発病に至る。その主要臨床症状は、運動失調、激しいそうよう感から体を立ち木等に擦りつけるために腹、背部や臀部を中心に顕著な脱毛が見られることも特徴である。病原体については、まだ特定されていないが、ウイルスよりさらに小型の感染性因子であり、物理化学的処理に対し抵抗を示し、感染宿主に免疫反応を起こさない等の特徴がある。自然界での伝達様式については、不明な点が多く、一般的に水平伝達あるいは垂直伝達であると考えられる。緬羊及び山羊のスクレイピーは1996年4月に家畜伝染病予防法が改正され、法定伝染病に準ずる扱となった。従って現在はもし病気が発生すれば一般に公表され、国際機関に報告されなければならない。しかし以前はそのような規定が存在しなかった。従ってスクレイピーの発生も、県の段階で留まっていることも多く全国的な統計は必ずしも集計されないことも多い。改正された家畜伝染病予防法により、今後この方面の情報の整備がなさるであろう。そのような状態で日本のスクレイピーについても、過去に比べより正確な把握が必要になるつつある。そこで、我々は日本におけるスクレイピー発生状況把握や発病病理究明を目的として以下の研究を行った。

 第1章では日本におけるスクレイピー発生状況把握を目的として臨床症状をもとにそうよう型、麻痺型および無症状型に分けて検討した。そうよう型は北海道、北日本、東京周辺のサフォーク種またはコリデール種の緬羊に見られた。3-4歳に見られ、初期に麻痺を示し、体を擦り付けるので、その部分の体毛は擦り切れて脱毛のように見られる。その後、歩行そうろうし、しだいに運動失調が強くなり、最後に体が麻痺して死亡した。以上の病気の経過は2-3ヵ月であった。これに対し麻痺型は1988-1990年に見られた型で、北海道、北日本、九州のコリデール種に見られた。2歳または2歳未満の羊にみられ、そうよう症をまったく示さないのでスクレイピーと呼ぶより羊海面状脳症と呼ぶのが適当ではないのかとさえ思われる。いきなり歩行そうろうを示し、2週間-1ヵ月の経過の後に麻痺を示して死亡した。無症状型は、麻痺型の羊と同居していた北日本のコリデール種羊にみられた。2歳またはそれ以下の羊で、臨床症状を全く示さないため、外見上は健康と思われた。日本における発病品種は数例のコリデール種も含まれていたがサフォーク種がほとんどであった。症例の年齢は2歳から7歳までであった。

 第2章ではスクレイピーの発病病理糾明を目的として病理学的解析を行った。病理組織学的検査ではそうよう型、麻痺型とも脳幹部、延髄に神経細胞の空胞変性が見られるが麻痺型の方が大脳皮質、髄質、脳幹部、延髄にわたり、より広範囲にわたり神経細胞の空胞変性が観察された。無症状型は、麻痺型のスクレイピーと同様に、大脳皮質、髄質、脳幹部、延髄の広範囲にわたり神経細胞の空胞変性が観察された。特徴病変は中枢神経系に限定されていた。大脳灰白質、視床、中脳、橋部、延髄等の神経網、神経細胞等に空胞形成による海面状変化が見られた。この変化は顔面神経核、疑核、オリーブ核、三叉神経脊髄路核、三叉神経中脳路核、中脳中心灰白質、舌下神経核などで観察された。

 これらの解析をもとにスクレイピーの疫学およびそのコントロールにつき考察を行った。スクレイピーの撲滅は大変困難であり、オーストラリアとニュージーランド以外では成功していない。この時の方法には徹底した厳しさが伺える。両国のスクレイピーの発生は輸入によって起こったことから、それに関わった緬羊とその子孫、接触した動物全てを屠殺したため、撲滅に成功したと考えられる。スクレイピーは母親から感染を受けると同時に、出産時の胎盤から水平感染が起きると考えられるため、母親が発病した場合、その兄弟や子などの関連する羊を淘汰すると同時に出産後の後産を速やかに焼却あるいは埋却、消毒を行い水平感染を防止する。このような方法では完全な徐去は期待できないが発生頻度を低下させる有効な手段であると考えられる。スクレイピーの清浄地域では有病地からの羊はたとえ健康に見えても導入は一切行わないことが肝要であると考えられる。

 以上の内容は日本のスクレピーの疫学についての最初の完成した研究であり、審査員一同は、本論文が博士(農学)の学位論文として価値あるものと認めた。

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