学位論文要旨



No 113564
著者(漢字) 桑原,千恵子
著者(英字)
著者(カナ) クワハラ,チエコ
標題(和) 正常型プリオン蛋白の機能に関する研究
標題(洋) The studies on cellular isoform of prion protein
報告番号 113564
報告番号 甲13564
学位授与日 1998.03.30
学位種別 課程博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 博農第1923号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 応用動物科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 小野寺,節
 東京大学 教授 小川,智也
 東京大学 助教授 塩田,邦郎
 東京大学 助教授 高橋,慎一郎
 東京大学 助教授 松本,芳嗣
内容要旨

 ヒトにおけるCreutzfeldt-Jakob diseaseや,ヒツジにおけるscrapie及びウシにおける海綿状脳症等のプリオン病は異常型プリオン蛋白が体内に侵入あるいは生じることによって,宿主が本来持っている正常型プリオン蛋白(PrPC)が異常型プリオン蛋白(PrPSc)へと変換することによって発症するというプリオン仮説が提唱されている.プリオン病に罹患した個体の脳組織では,多くの場合に神経細胞の空胞変性が見られることが報告されている.正常型プリオン遺伝子は哺乳類で高い相同性を持ち,様々な臓器で発現していることから,何らかの重要な役割を果たしていると考えられるが,PrPCの機能については未だ不明である。そこで,我々はプリオン蛋白の発現量が高い神経細胞および胸腺細胞における正常型プリオン蛋白の機能解明および,プリオン病における神経病変への関与を明らかとすることを目的として以下の研究を行った.

 第一章では我々は正常型プリオン蛋白の神経細胞におけるin vitroでの機能解明の標的として有用な材料を得ることを目的として,プリオンレス神経細胞株を樹立した.ジーンターゲティングによりプリオン遺伝子を欠失させたマウスを入手し,それらのマウスの胎児脳を用いて神経細胞の不死化操作を行った.不死化にはレトロウイルスベクター:SV40T抗原遺伝子を用いた.得られた細胞株をプリオンレス細胞株とした.20株のプリオンレス細胞株の中からRT-PCRによる神経原線維陽性細胞及び形態上の変化を指標として3株を選び実験に供した.これらの株化細胞がプリオン遺伝子を持たないことはPCRにより確認した.同様の手法を用いてプリオンレスマウスと同系統の野生型マウスから得られた株化細胞を野生型細胞株とした.プリオン蛋白の機能に関する知見を得ることを目的として,得られた二種の細胞株についてin vitroで性状解析を行った.両者ともFCS添加培地での培養では分化細胞の形態を示さなかった.プリオンレス神経細胞株は野生型不死化神経細胞株と同様にdb cAMPに反応し,神経細胞様の突起を伸展した.C-kinaseの活性化因子であるPMA(phorbol12-myristate13-acetate)刺激でも神経細胞様の突起の伸展が見られたがプリオンレス神経細胞株では突起は短く,野生型神経細胞株と比較して弱い形態変化を示した.そこで,我々は神経細胞の分化にプリオン蛋白が関与している可能性を検討するため,神経細胞の分化誘導因子で刺激した際のプリオン蛋白の発現量の変化をRT-PCRおよびフローサイトメトリーにより検討した.その結果,NGF,PMA,Insulinによる刺激によって,プリオン遺伝子の発現レベルの上昇が示唆された.NGFはphosphatidylinositol3-kinaseを二次メッセンジャーとしてPC12細胞の無血清培地でのアポトーシスを抑制するが,phosphatidylinositol3-kinaseの選択的阻害剤wortmanninによってもこの転写増強は抑制されなかった.これらの結果から,不死化神経細胞においてもプリオン蛋白は分化に関与していることが示唆された.

 第二章では我々はプリオンレス神経細胞株が通常,海馬由来神経細胞株の非増殖時培養に用いられる無血清培地で速やかに死滅する事に着目し,プリオン蛋白のアポトーシスへの関与を検討した.不死化プリオンレス神経細胞株HpL2-1,3-2および3-4と野生型不死化神経細胞株HW8,HW18を無血清培地で培養した。細胞分化因子としてPMAを用いた.経時的に細胞を回収し,propidium iodide(PI)染色を行い,フローサイトメトリーにより解析した.光学顕微鏡下で観察したところ,野生型神経細胞株は無血清培地で生育し,PMA添加培地では神経細胞様の突起の伸展が認められた.一方,プリオンレス神経細胞株においては,培養後,24時間以内にPMA添加,無添加ともに顕著な細胞の円形化および剥離が観察された.この細胞死はNGFの添加によっても抑制されなかった.経時的に回収した細胞をpropidium iodide (PI)で核を染色後フローサイトメトリーにより解析したところ,プリオンレス神経細胞株ではアポトーシスによる細胞死が起こることが強く示唆された.また,DNAを抽出し,アガロースゲル電気泳動を行った結果,DNAの断片化が検出された.我々は、プリオンレス神経細胞株における無血清培地での細胞死がプリオン蛋白の欠損に起因するものであるかをより詳細に検討するため,マウスプリオン遺伝子全翻訳領域を含む発現ベクター(pBSD-MPR)を作製し,プリオンレス神経細胞株に導入し,プリオン蛋白を安定発現させたプリオン遺伝子導入細胞株を作製した.この遺伝子導入細胞株は野生型神経細胞株同様,無血清培地で生存し,限定された条件下でプリオン蛋白の欠損が神経細胞にアポトーシスを引き起こすことを示した.また,この遺伝子導入細胞株を無血清で培養した培養上清でプリオンレス神経細胞を培養したところ,細胞死は抑制されなかった.このことから,プリオンレス神経細胞の無血清培地での細胞死は未同定の栄養因子の産生能力の欠如によるものではないと考えられた.本研究でプリオンレス細胞株において,無血清培地でアポトーシスを起こしている細胞の存在が強く示唆され,これにより、正常型プリオン蛋白が細胞の生存維持に間接的な役割を果たしていると考えられた。

 第三章では比較的プリオン蛋白の発現が多い胸腺細胞における細胞の分化,幼若化へのプリオン蛋白の関与について検討した.マウス胸腺細胞を分離培養し,ConA刺激を行うと,胸腺細胞は幼弱化し,細胞の容積が増大するが,この際のプリオン蛋白の発現量の変化を抗プリオン蛋白ポリクローナル抗体を用いたフローサイトメトリーにより解析した.この結果,胸腺細胞の幼弱化にともなってプリオン蛋白の発現量が顕著に増大することが明らかとなった.また,抗プリオン蛋白モノクローナル抗体で前処理したハムスターの胸腺細胞では、ConAによる幼弱化に伴う細胞容積の増大が抑制された.これらの結果は末梢リンパ器官においてプリオン蛋白が脱分化・増殖に関与している可能性を示唆している.我々は前章でプリオン蛋白の発現が神経細胞においてアポトーシスを抑制することを報告したが,このアポトーシスを抑制する機構について,カルシウムイオンチャンネルの関与を検討するため,プリオンレスマウスおよび野生型マウスの胸腺細胞を抗CD3抗体または,PMAとカルシウムイオノフォア(A23187)の刺激による活性化における差異を検討した.これらの刺激はともに通常,抗原提示細胞によるT細胞の活性化を代替するが,抗CD3抗体が細胞表面に発現するCD3に結合し細胞の活性化を起こすのに対して,PMAとカルシウムイオノフォアはそれぞれ細胞内情報伝達系路の主要な因子であるPKCの活性化および,カルシウムイオンの流入に働いている。抗CD3抗体の刺激による胸腺細胞の活性化はプリオン欠損マウスでは野生型と比較して弱いが,PMAとカルシウムイオノフォアとの共刺激では活性化に有意な差は見られなかった.これらの結果から胸腺細胞の幼若化において,PrPCがカルシウムイオンを二次メッセンジャーとする経路のカルシウムイオン流入に関与していることが示唆された.

 本研究ではin vitroでプリオンレス神経細胞は分化因子に対する応答性が弱く,野生型神経細胞株においては細胞の分化にともなってプリオン蛋白の発現増強が見られること及び,プリオンレス神経細胞株は無血清培地でアポトーシスにより死滅し,この細胞死がプリオン遺伝子の導入で抑制されることを明らかにした.これらの結果は,PrPCが本来,神経細胞の分化,生存維持に関する機能を持つことを示唆している.また、この機能は胸腺細胞の活性化においては、カルシウムイオンの流入に関与していると考えられた.プリオン病に罹患した動物の脳ではPrPScの蓄積と同時にPrPCの減少が起こっている可能性があることが報告されている.プリオン病によって引き起こされる神経細胞の脱落がアポトーシスによるという報告とを併せて考察すると,PrPCがPrPScへと変換することによりPrPCの機能の欠損が起こり,その結果,神経細胞がアポトーシスによって脱落し,様々な病変を引き起こしていると考えられた.

審査要旨

 ヒトにおけるクロイツフェルト・ヤコブ病や羊のスクレイピー等のプリオン病は異常型プリオン蛋白の侵入または発生により宿主が本来持っている正常型プリオン蛋白(PrPC)から異常型プリオンへの変換によって発症するというプリオン仮説が提唱されている。プリオン病に罹患した脳では多くの場合に神経細胞の空胞変性が見られることが報告されている。プリオン遺伝子は哺乳類で高い相同性を持ち、様々な臓器で発現しており、何らかの役割を果たしていると考えられるが、その機能は未だ不明である。そこで、申請者はPrPCの発現量が高い神経細胞と胸腺細胞におけるPrPCの機能解明のために以下の研究を行った。第一章では申請者はPrPCの神経細胞における機能解明の標的として有用な材料を得ることを目的として、プリオンレス神経細胞株を樹立した。ジーンターゲテイングによりプリオン遺伝子を欠失させたマウスの胎児脳を材料とし、レトロウイルスベクター:SV40T抗原遺伝子を用いて神経細胞の不死化操作を行い、得られたプリオンレス細胞株の中から神経原線維陽性細胞及び形態上の変化を指標として3株を選び実験に供した。同様にプリオンレスマウスと同系統の野生型マウスから得られた株化細胞を野生型細胞株とした。PrPCの機能に関する知見を得ることを、目的として、得られた二種の細胞株について性状解析を行った。両者とも血清添加培地での培養では分化細胞の形態を示さなかった。プリオンレス神経細胞株は野生型不死化神経細胞株と同様にジブチルサイクリックアデノシン三リン酸に反応し、神経細胞様の突起を伸展した。PKCの活性化因子であるフォルボールエステル(PMA)刺激でも神経細胞様の突起の伸展が見られたがプリオンレス神経細胞株では弱い応答性を示した。第二章ではプリオンレス神経細胞株が無血清培地で速やかに死滅する事に着目し、PrPCのアポトーシスへの関与を検討した。不死化プリオンレス神経細胞株と野生型不死化神経細胞株を無血清培地で培養した。経時的に細胞を回収し、核の染色を行い、フローサイトメーターで解析した。野生型神経細胞株は無血清培地で生育したが、プリオンレス神経細胞株においては、培養後24時間以内に顕著な細胞の円形化、剥離が観察された。この細胞死はNGFの添加によっても抑制されなかった。経時的に回収した細胞をPIで核を染色後フローサイトメトリーにより解析したところ、プリオンレス神経細胞株ではアポトーシスによる細胞死が起こることが強く示唆された。また、DNAを抽出し、アガロースゲル電気泳動を行った結果、DNAの断片化が検出された。申請者は、プリオンレス神経細胞株における無血清培地での細胞死がDNAの欠損に起因するものであるかをより詳細に検討するため、マウスプリオン遺伝子全翻訳領域を含む発現ベクターを作製し、プリオンレス神経細胞株に導入し、PrPCを安定発現させたプリオン遺伝子導入細胞株を作製した。この遺伝子導入細胞株は野生型神経細胞株同様、無血清培地で生存し、PrPCの欠損が神経細胞にアポトーシスを引き起こすことを示した。第三章ではPrPCの発現が多い胸腺細胞における細胞の分化、幼若化へのプリオン蛋白の関与について報告している。その結果、胸腺細胞の幼弱化にともないプリオン蛋白の発現量が顕著に増大することを明らかにしている。また、抗プリオン蛋白モノクローナル抗体で処理したハムスターの胸腺細胞では、ConAによる幼弱化が抑制された。Ca2+チャンネルの関与を検討するため、プリオンレスマウスおよび野生型マウスの胸腺細胞を抗CD3抗体または、PMAとカルシウムイオノフォア(A23187)の刺激による活性化における差異を検討した。これらの刺激はともに抗原提示細胞によるT細胞の活性化を代替するが、抗CD3抗体が細胞表面のCD3に結合し細胞の活性化を起こすのに対して、PMAとA23187はそれぞれ細胞内情報伝達系路のPKCの活性化および、Ca2+の流入に働いている。抗CD3抗体の、刺激による胸腺細胞の活性化はプリオン欠損マウスでは野生型と比較して弱いが、PMAとA23187との共刺激では活性化に有意な差は見られなかった。

 本研究ではプリオンレス神経細胞は分化因子に対する応答性が弱く、無血清培地でアポトーシスにより死滅する。この細胞死がプリオン遺伝子の導入で抑制されることを明らかにしている。さらに、胸腺細胞の活性化においては、Ca2+の流入に関与していると報告しており、以上の内容はプリオンについて新たな知識を提示するものであり、審査員一同は、本論文が博士(農学)の論文として価値あるものと認めた。

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