馬伝染性貧血ウイルス(EIAV)はヒト免疫不全ウイルス(HIV)などとともにレンチウイルスに属している。レンチウイルスは免疫機構や抗レンチウイルス製剤の投与などによって生じる宿主内環境の変動に敏感に呼応して量的のみならず質的にもダイナミックに変化する宿主特異性が極めて高いウイルスである。したがってHIV感染症の研究の場合のように動物モデルを使用することは出来ないのが現状である。しかし、レンチウイルスの間には遺伝学的あるいは生物学的な相似性が認められるため、各種動物のレンチウイルスの性状解析によってAIDSの病原性解明の一助とすることも可能と考える。このことから、本研究では、動物のレンチウイルスを通して本ウイルス亜科共通の性質を究明することで、馬伝貧の解明のみならずヒトのHIV感染症の研究に資することを試みた。具体的には、馬のEIAVの持続感染に係わる分子機構を明らかにすることを目的として、宿主体内でのウイルス病原性関連遺伝子の変異を解析し、その生物学的意義の考察を試みた。 1、病原性および非病原性馬伝染性貧血ウイルス(EIAV)由来LTRおよびenv gp90遺伝子の比較解析 二種類のEIAV株、P337-V70株(強毒株)とP337-V26株(弱毒株)のLTRとenv gp90遺伝子の全領域を比較し、これら株間での塩基配列の差異を解析した。 (1)強毒P337-V70(日本分離株)と前者の細胞継代弱毒株P337-V26株及び米国で分離された野生型Wyoming株の計3株を馬マクロファージの培養細胞に接種し、同細胞から抽出したDNAを鋳型としてLTRの全領域をPCR方法で増幅した。増幅されたPCR産物は一度プラスミドにクローニングした後、塩基配列を決定した。LTR領域の増幅にはunintegrated provirusからLTRの全領域を含むウイルスゲノムの断片が増幅可能なPCR法を新たに開発して用いた。このPCR法では、ウイルスゲノム両端に位置するLTRの近傍(内側)からそれぞれゲノムの5’あるいは3’端(外側)に向かうプライマーを作製し、第1サイクルで、まずそれぞれのLTR領域のプラスあるいはマイナス鎖に相補的なsingle strand DNAを合成した。第2サイクルでは、合成されたsingle strand DNAを互いに相補的なLTR領域でアニーリングさせ、アニーリング後もsingle strand DNAとして残るLTR端から両プライマーまでの部分をTaq polymerase活性を利用してfill-inした。第3サイクル以降は第2サイクルで形成されたdouble strandのDNAを第1サイクルと同様のプライマーを用いて増幅した。P337-V26株(弱毒株)とP337-V70株(強毒株)のLTRを比較した場合、著明なdeletionやinsertionなどの突然変異は見られなっかたが、前者ではLTR超可変U3領域中に存在する2つのCAATボクスの1つに変異が認められた。この知見は、強毒株では両CAATボクスの存在が不可欠であるのに対して、弱毒株ではその1つが欠損しているとする以前の報告に一致していた。 (2)一方、P337-V70株(強毒株)とP337-V26株(弱毒株)のenv gp90遺伝子全領域を比較したところ、6塩基の置換と、6塩基の付加が認められ、両株間のgp90アミノ酸配列の相同性は98.9%であった。しかしながら、gp90領域にはウイルスの病原性に直接関与するような著明な変異は認められなかった。一方、P337-V70株を実験的に感染させた馬から分離した3株のウイルスについてenv gp90遺伝子を解析した結果、PND(principal neutralizing domain)領域に親株と比較して有意に長い重複配列の付加が見られた。これは、今回の研究で初めて見いだされた知見である。これらのアミノ酸配列を既に報告されている野生型Wyoming株及びcell-adapted Wyoming株と比較したところ,PND領域中には良く保存されたsegmentと中和抗体に対応して変異する高可変セグメントが見いだされた。株間での比較では、env gp90遺伝子全領域に7つの保存領域と6つの可変領域が見いだされた。系統樹を作成したところ,現在までに報告されている全てのEIAV株を3つのsubtypeに分類することができた。これら3つのsubtype A、subtype Bおよびsubtype Cには、それぞれ、日本分離のP337株、米国分離の野生型Wyoming株およびcell-adapted Wyoming株が含まれ、各subtype間の遺伝距離は15-25%であった。 2、馬伝染性貧血ウイルス実験感染馬から経時的に分離したEIAV株間の遺伝子変異 実験的にP337-V70株(強毒株)を感染させた2頭のウマから経時的に分離したウイルスについてenv gp90全領域の塩基配列を決定し比較解析した。 (1)白血球増多症を呈し免疫抑制状態にあった実験感染馬(H115)から経時的に分離した6株のウイルスを馬のマクロファージ細胞で培養し、同細胞培養からプロウイルスを含むDNAを抽出した。得られたDNAを鋳型としてone-step PCR方法でenv gp90領域の増幅を試みた。接種後105日目に分離されたウイルス株(105V)のみについては、PCRによる同遺伝子の増幅ができなかったため、その病原性の変異を確認する目的で1頭の馬(H601)を用いて感染実験を実施した。その結果、実験感染馬はウイルス接種後8日目から4峰性の発熱を示し45日目に重篤な貧血とウイルス血症を呈して死亡した。このことから、105Vは感染馬体内で病原性が増強したものと考えられた。一方、env gp90全領域の塩基配列を比較解析した結果、6株の分離ウイルスと親株間でのgp90アミノ酸配列の相同性は92.0-98.0%、分離株間のアミノ酸変異は2・8%であった。更に、無熱期に分離された3株のウイルスにはPND領域にそれぞれ39-51塩基の付加が認められ、これらの付加塩基配列はオーバーラップする短い配列の集合から成っていた。 (2)PND領域での塩基付加はウイルスの持続感染に関与すると考えられているが、その詳細な機構については不明である。そこでこの点を明らかにする目的で、実験的にP337-V70株(強毒株)を感染させた1頭の馬(H493)から発熱期にあわせて経時的に5種類のウイルス株(20V、44V、62V、83Vおよび155V)を分離した。中和実験の成績から、これらの分離株が異なる抗原性を有することが確認された。これら5種の分離株間でenv gp90領域の塩基配列を比較した結果、PNDドメインと超可変領域(V5)内に比較的大きな変異が認められた。すなわち、5つの分離株中の3株(20V、62Vおよび155V)のPNDドメインには長さが異なる塩基付加が認められた。一方、PNDドメインに変異がなかった2株(44VおよびP337-V70)では、他と比較しても超可変領域内に著明な変異は認められなかった。以上の成績から、EIAVの宿主体内での中和抗体からのエスケープ機構に関連する遺伝子領域がenv gp90領域内のPNDのみならずenv gp90以外の領域にもあると考えられた。つぎにPNDドメインに認められた塩基付加が宿主の中和抗体以外によって誘導される可能性を検討する目的で以下の実験を行った。P337-V70とP337-V26株を2つの細胞株(EDとFEK)に接種し、20代継代した。継代後にウイルス感染ED細胞およびFEK細胞株からEIAVのenv gp90領域をPCRで増幅し塩基配列を解析した。この結果,得られた遺伝子全てのPNDドメイン中に同一の塩基付加が見られた。このことから、EIAVのPNDドメインでは変異が起こりやすく、宿主の免疫からの圧力のみならず非免疫的な因子にも敏感に呼応して突然変異が起こることが判明した。 3、感染組織内のEIAVプロウイルスの特色 EIAVウイルスの標的細胞はマクロファージ系細胞であることが知られており、EIAVウイルスは感染マクロファージ細胞を介して多様な組織への拡散を可能にしていると考えられている。EIAVウイルス感染馬では多様な臓器からプロウイルスが検出されることが報告されている。そこで,感染馬の臓器から分離される各プロウイルスがそれぞれ、どの様な性状を有するのかを明らかにするため、感染馬組織を材料としてPCRで増幅したEIAV env gp90領域の塩基配列を比較した。 (1)まずはじめに、P337-V70株(強毒株)を実験的に感染させた3頭の馬から、接種後14-70日目(感染初期)にウイルス感染組織を採材し、これらの材料からPCRで増幅されたフロウイルスのenv gp90領域の塩基配列を比較した。感染実験は、等量のP337-V70株を3頭の馬に接種 した。1頭目の実験感染馬(G馬)はウイルス接種後14日目に発熱を呈したため、その時点で病理解剖に供された。他の2頭の実験感染馬(S馬およびT馬)ではウイルス接種後40および43日目までの観察で発熱が認められなかった。このうち1頭(S馬)については、その後ウイルスの再接種を試みたが、初回接種から70日目までの観察で発熱が認められなかった。T馬およびS馬は、それぞれ初回接種から43日目および70日目に病理解剖に供された。実験感染馬からはbuffy coat、骨髄、脾臓、肝臓、肺および大脳を採材し、これらの材料からPCRでEIAV env遺伝子の全領域を増幅した。増幅された遺伝子は一度プラスミドにクローニングし、塩基配列の解析を行った。3頭の実験感染馬の組織から合計73のプロウイルスenv遺伝子が得られ、その塩基配列を決定した。得られた塩基配列間には著しい多様性が認められ、それはV3(PND)およびV5(超可変)領域において特に顕著であった。PNDドメインでの塩基付加変異はS馬由来の遺伝子で特に著明で、得られた32クローン中10クローンで認められた。その内訳は、解剖時に分離されたbuffy coat由来6クローン中の4クローン(67%)、肝臓由来5クローン中の4クローン(80%)および脾臓と肺由来の各1クローンであった。PNDの塩基付加配列をsignature配列として考察すると、buffy coatおよび肝臓由来のクローンではPNDにほぼ等比率の付加配列が認められたことになり、このことから、両者には何らかの関係があることが示唆された。ウイルス再接種以前にS馬から採集したbuffy coatに由来する同遺伝子5クローンのPNDドメインには付加配列は認められなかったことから、PNDドメインでの変異が宿主の免疫(中和抗体)によって誘導された可能性が示唆された。一方、G馬由来の30クローン中PNDに付加配列を含むクローンは1クローンであった。また、T馬の組織材料ではプロウイルス量が少なく、得られたenv遺伝子も脾臓と肝臓からの計11クローンのみで、これらのうちPNDに付加配列を有するものはなかった。得られた各クローン間の遺伝距離を推定した結果、感染馬組織内でのウイルスの変異は、発症を免れた個体よりも、症状を呈した個体で速く生じていたことが判明した。作製した無根系統樹において、3頭の実験感染馬から得られた計73クローンの遺伝子は、それぞれ感染個体別に幾つのグループに分類された。このことから、EIAV env遺伝子の変異においても、HIV env遺伝子で報告されている、同一感染個体内でみられる遺伝子の変異の程度は他の感染個体との間で見られる変異の程度よりも小さく、すなわち「遺伝子の変異が宿主個体毎で規定されている」ことが推察された。 (2)次に、P337-V70株(強毒株)を実験的に感染させた3頭の馬から、接種後5-6カ月目(感染後期)にウイルス感染組織を採材し、これらの材料からPCRで増幅されたプロウイルスのenv gp90領域の塩基配列を比較した。3頭中2頭の実験感染馬(SK馬およびTA馬)はウイルス接種後14日目から5峰性の発熱を呈し、接種後6カ月目に病理解剖に供した。他の1頭(M馬)ではウイルス接種後5カ月目までの観察で発熱が認められなかった。M馬はウイルス接種後5カ月目に病理解剖に供した。実験感染馬からはbuffy coat、骨髄、脾臓、肝臓、肺、心臓、腎臓および大脳を採材し、これらの材料からPCRでEIAV env遺伝子の全領域を増幅した。増幅された遺伝子は一度プラスミドにクローニングし、塩基配列の解析を行った。3頭の実験感染馬の組織から合計98のプロウイルスenv遺伝子を増幅し、その塩基配列を決定した。この結果、得られた遺伝子間には、前述した感染初期での成績に同じく、そのV3(PND)およびV5(超可変)領域に著明な多様性が認められた。この他、実験感染馬SKおよびTAの組織由来の12クローンについては、PNDおよびV5以外の領域においても1アミノ酸のdeletionとinsertionが見られた。これらの変異はenv gp90遺伝子の全域にわたって認められた。興味深いことに、実験感染馬SKおよびTAのbuffy coat由来のクローンで見られたPNDドメイン内の付加配列は他の臓器由来のクローンで見られたそれらとは全く異なっていた。このことから、EIAVでは表現型ウイルスが血流中に出現する前に、あらかじめ感染組織中で蓄積される必要はないものと推察された。また、今回得られたenv gp90遺伝子にはinframe-defective stop codonも認められた。その頻度は、特に無症状のM馬組織由来のクローンで高く、20%にのぼった。EIAVの感染組織中での変異程度を評価する目的で、突然変異率が高いことが知られているV3とV5領域の塩基配列を、得られた計98クローンのプロウイルスenv遺伝子と接種ウイルスのそれとの間で比較した。その結果、調べた98クローン中の約50%では上記領域の塩基配列に変異は認められなかった。特に無症状のM馬組織由来のクローンではその80%は変異していなかった。作製した分子系統樹から、EIAVの感染馬体内での変異が宿主個体毎で規定されている可能性が重ねて推察された。また、感染個体に密接に関連して変異が生じる領域は超可変領域(V3)であることも推察された。一方、本研究での8頭の馬体から分離したウイルス株でinsertionの見られたすべての株についてPNDドメイン塩基配列を考察すると、PNDドメイン内に塩基配列付加の突然変異がよく起こるsegmentの存在が推察された。さらに、このsegmentにコードされたアミノ酸断片(7アミノ酸残基)とHIV-1のV3 loopに対応する断片を比較したところ、このinsertion突然変異を起しやすいsegmentがEIAV genome中で重要なmotifとして働いているということも推察された。 以上のようにエンベロープ蛋白質のアミノ酸置換が高頻度に起こることは馬伝染性貧血ウイルスの持続感染機序の一端であると考えられ、この現象が本ウイルスに対する感染防御ワクチンの開発を困難にしている。また今回得られた成績は馬伝染性貧血ウイルスに対する有効なワクチンをデザインするうえで参考となるものと考えられる。最後に、馬伝染性貧血ウイルスの持続感染という生物学的な現象は宿主と病原体との相互作用をも念頭に置いて考察する必要があることと、本研究で得られた成績が現在までに蓄積されたレンチウイルスに関する研究をさらに発展させる成果が得られたものと確信する。 |