学位論文要旨



No 113574
著者(漢字) 岩附,研子
著者(英字)
著者(カナ) イワツキ,キヨコ
標題(和) イヌジステンパーウイルス糖蛋白の分子生物学的研究
標題(洋) Studies on the Molecular Biological Properties of Glycoproteins of Canine Distemper Virus
報告番号 113574
報告番号 甲13574
学位授与日 1998.03.30
学位種別 課程博士
学位種類 博士(獣医学)
学位記番号 博農第1933号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 獣医学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 見上,彪
 東京大学 教授 長谷川,篤彦
 東京大学 教授 高橋,英司
 東京大学 教授 大塚,治城
 東京大学 助教授 甲斐,知恵子
内容要旨

 ジステンパーはイヌにおける代表的なウイルス性伝染病で、狂犬病と同様にイヌに致死的感染をおこす疾病として知られている。イヌジステンパーウイルス(CDV)は、麻疹ウイルス、牛疫ウイルスなどと共に、パラミクソウイルス科(Paramyxoviridae)のモービリウイルス属(Morbillivirus)に分類されている。1950年代に発育鶏卵順化生ワクチンおよび細胞順化生ワクチンが開発されて以来、イヌでの本病の発生数は激減し、世界的によく制御されていると考えられていた。しかし近年、世界各地でCDV感染症の流行が報告されるようになった。さらに、これまで感受性宿主とは考えられていなかったネコ科の大型獣や、海棲哺乳類からもジステンパーに似た感染症による大量死が相次いで報告されていることから、ウイルスは新たに変異を起こした可能性が考えられている。

 また、ジステンパーはヒトの麻疹と同様に終生免疫を起こす疾患であることが知られている。これは、ウイルスが生体内で持続感染し免疫記憶が続くためと考えられているが、持続感染部位やその機構などは明らかになっていない。

 CDVのエンベロープは、matrix、hemagglutinin(H)およびfusion(F)の3つの蛋白から構成されている。このうちH蛋白とF蛋白は糖蛋白で、レセプターとの吸着や、ウイルス膜と細胞膜、感染細胞の細胞膜どうしの融合などに関与している蛋白質である。本研究は、近年の流行の拡散とその原因およびCDVの持続感染の機序を解明するために、これらの機序に重要な役割を担うと考えられる膜蛋白に着目し、近年のCDV野外分離株の膜糖蛋白遺伝子の解析と、CDV持続感染株の膜糖蛋白性状の解析を行った。本論文は以下の5章より構成される。

第1章;リンパ系組織におけるCDVの免疫組織化学的検索

 リンパ系組織はCDV感染における主要標的組織の一つであり、また持続感染に関与していると考えられている。本章では野外感染例のイヌについて、近年利用できるようになった抗イヌリンパ球抗体を用いた免疫組織化学的手法により、脾臓およびリンパ節での標的細胞サブセットの同定と、リンパ球の消長や分布などの変化について検討した。臨床的に呼吸器症状と神経症状を示し、重篤なCDV感染症と認められた仔イヌ3匹から、全身臓器のホルマリン固定パラフィン包埋標本と、脾臓およびリンパ節の凍結標本を作成した。病理組織検索では全身臓器にCDV感染に特徴的な病変がみられ、これらの病変部にウイルス抗原陽性像を認めた。凍結標本の二重染色の結果、脾臓ではCD4陽性リンパ球の減少がみられ、ウイルス抗原は主にCD4およびThy-1陽性リンパ球や細網内皮系の細胞に認められ、また、CD8、CD21、IgM陽性細胞にも認められた。白脾髄の壊死は主に瀘胞に存在していた。リンパ節においてはThy-1陽性領域は比較的保持されていたが、二次瀘胞の形成は認められずB細胞の反応が抑制されていることが示された。これらの結果よりCDVはT、Bリンパ球に直接感染して、その減少を引き起こすとともに、主要標的細胞と考えられたTリンパ球への感染が、リンパ球の減少や分布に影響を及ぼすことが示唆された。これらの現象はCDVが宿主の免疫応答の阻害に関与していることを示唆しており、その阻害機序の解明に有用な知見が得られたと思われる。さらに、CDVの持続感染機構の解明の糸口ともなると考えられた。

第2章;野外分離CDVのH蛋白性状解析

 近年、日本においてワクチン接種犬でのジステンパー発症例が相次いで報告されている。また、アメリカやヨーロッパでもジステンパーの流行が報告された。そこで、第2章では近年の野外発症例から分離されたCDVについて、その抗原解析ならびにH蛋白遺伝子解析を行った。ジステンパー症状を呈したイヌの末梢血由来単核球と、B細胞由来の培養細胞であるB95a細胞との混合培養により分離された3株の野外ウイルス株(Ueno株、Hamamatsu株、Yanaka株)について、B95a細胞で継代したワクチン株(Onderstepoort株)を対照としてウイルス抗原の解析を行った。間接蛍光抗体法では顕著な差は認められなかったが、免疫沈降法ではOnderstepoort株の分子量が78kDaであったのに対し、野外株は84kDaと異なる値を示した。Tunicamycinを用いて糖鎖付加を阻止すると、Onderstepoort株、野外株ともに68kDaを示した。H蛋白遺伝子の塩基配列から予測されるアミノ酸解析においては、N-linkの糖鎖付加可能部位がOnderstepoort株は4ケ所、野外株は9ケ所と異なっていた。以上の結果から、野外にはH蛋白性状の異なるCDVの存在することが示唆された。さらに、他のCDV株との遺伝的距離を比較したところ、日本で分離した3株間のホモロジーは約99%と高く1つのクラスターを形成し、また日本の野外株と外国の野外株とのホモロジーも約95%と高い値を示し、これら野外株は1つの大きなクラスターを形成した。しかし、全野外株とワクチン株とのホモロジーは低く異なるため別のクラスターを形成した。このことから、ワクチン株とは異なる野外株が、世界的に流行していると考えられた。

第3章;野外分離CDVのF蛋白性状解析

 第3章では他の膜糖蛋白であるF蛋白についてYanaka株とOnderstepoort株の性状を比較検討した。F蛋白の免疫沈降法による電気泳動度にはYanaka株とOnderstepoort株間に顕著な差は認められなかった。Yanaka株の塩基配列を決定し、その塩基配列から予測されるアミノ酸配列を解析した結果、親水性領域、システイン残基、N-linkの糖鎖付加可能部位は全て保存されており、Onderstepoort株とのホモロジーは95.7%と高かった。これらの結果から、野外株におけるF蛋白の変異はH蛋白より少ないことが明かとなった。さらに、近年の野外株の一つであるPDV-2と、Yanaka株、Onderstepoort株について遺伝的距離の比較を行ったところ、PDV-2とYanaka株は近く、Onderstepoort株は遠いという結果が得られ、F蛋白解析においてもワクチン株とは異なる野外株によるジステンパーの流行説が支持された。第2章と比較し、吸着に関与するH蛋白に、より顕著な変異が認められたことから、流行の原因解明においてH蛋白の抗原性状解析および機能解析が必要と考えられた。

第4章;CDVH蛋白に対する中和モノクローナル抗体(MAb)の作製と反応性の検討

 第2章、第3章において野外株のH蛋白に顕著な変異が認められたことから、H蛋白の抗原部位の解析を進めるため、MAbを用いて各ウイルス株との反応性を検討した。1977年の野外株(MD77株)を免疫原として、ワクチン株(YSA-TC株)に対する中和活性を指標に作製されたMAb7種から、免疫沈降法によりH蛋白を認識するものを3種同定した(JD-5、JD-7、JD-11)。これらの抗体と従来の抗H MAb1種(d-7)を用いて、Onderstepoort株、ワクチン株、および5種の近年の野外株との反応性を比較した。d-7、JD-5、JD-11は蛍光抗体法、免疫沈降法および中和抗体価において全ての株とよく反応したが、JD-7はワクチン株との反応性は高かったものの、野外株とは低い反応性を示した。この結果は、近年の野外株において、H蛋白のJD-7認識部位に変異が起こっている可能性を示唆している。また、H蛋白遺伝子のdeletion clonesを作製し、これらのMAbの認識する抗原部位を検索した。JD-5およびJD-7は現行のH蛋白発現系では反応性が低く、抗原部位の検索は出来なかった。しかし、d-7およびJD-11はH蛋白遺伝子全長cloneの発現系とは強く反応したが、deletion clonesのそれとは反応しなかった。この結果から、この2種のMAbはH蛋白遺伝子塩基配列の1609-1836番目を認識しているか、またはこの部分を必要とする高次構造によって表出する部位を認識していると考えられた。

第5章;CDV持続感染株の作出

 ジステンパーはヒトの麻疹と同様に終生免疫を誘導する疾患で、体内でウイルスの持続感染がおこっていると考えられているが、持続感染部位やその機構などは不明である。そこで第5章では、CDV感染の標的細胞であるリンパ球系の細胞を用いて、ウイルスの持続感染機構を検討するために、持続感染ウイルス株を作出し、性状解析を行なった。Bリンパ球由来の株化細胞であるB95a細胞に、CDV・Yanaka株を感染させ、生残、増殖した細胞を約20代継代した。この細胞はYanaka株感染初期に認められた細胞変性効果(CPE)を示さず、非感染細胞と同様の増殖性を示した。継代日数100日を超えた時点で、免疫沈降法によりF蛋白およびH蛋白の検索を行なったところ、両蛋白とも発現が認められた。さらに10種のMAb(抗NP、H、F)を用いた蛍光抗体法でも全てに反応が認められ、本細胞にはウイルスが持続感染していると考えられた。この細胞からウイルスを回収し、新たにB95a細胞に感染させてもはCPEをほとんど示さず、ウイルスによる細胞死も観察されなかった。しかし蛍光抗体法、免疫沈降法によりウイルスの感染および増殖が確認出来た。このことから、本ウイルス株をCPEや細胞死を引き起こさないCDV持続感染株、Yanaka-BP株と命名した。Yanaka-BP株膜蛋白の塩基配列を解析し、予測されるアミノ酸配列をYanaka株と比較したところ、H蛋白のアミノ酸変異は4ヶ所、F蛋白では6ヶ所認められた。特にF蛋白遺伝子においては、Onderstepoort株でin vitroで開始コドンとして使われていると考えられている3番目のATGコドンがATAに変異していた。この変異の持続感染への関与は明らかではないが、Yanaka-BP株は今後の持続感染の機序の解明に有用であると考えられる。

 本研究の成績は世界的なジステンパー流行の要因の解明や伝播経路の研究に多大な知見を与え、膜蛋白の機能の解明にも寄与すると考えられる。また、本研究で得られたCDV持続感染株は、終生免疫やウイルスの持続感染機構を解明するために有用な実験系を提供すると考えられる。

審査要旨

 ジステンパーはイヌにおける代表的なウイルス性伝染病で、1950年代に生ワクチンが開発されて以来本病の発生数は激減し、世界的によく制御されていると考えられていた。しかし近年、世界各地でジステンパーの流行が報告され、ウイルスが新たに変異を起こした可能性が考えられている。そこで、近年の流行の拡散と原因およびイヌジステンパーウイルス(CDV)の持続感染機構を解明する目的で、これらの機序に重要な役割を担うとされるCDV膜糖蛋白に着目し解析を行った。本研究は5章より構成される。

 第1章では免疫組織化学的手法により、リンパ系組織での標的細胞サブセットの同定と、リンパ球の消長や分布などの変化について検討した。病理組織検索では全身臓器にCDV感染に特徴的な病変と、その病変部にウイルス抗原陽性像を認めた。凍結標本の二重染色の結果、脾臓ではCD4陽性リンパ球の減少がみられ、ウイルス抗原はCD4およびThy-1陽性リンパ球や細網内皮系の細胞に多く、また、CD8、CD21、IgM陽性細胞にも認められた。リンパ節ではThy-1陽性領域は比較的保持されていたが、二次瀘胞の形成は認められずB細胞の反応の抑制が示された。以上の結果から、CDVはT、Bリンパ球に直接感染し、リンパ球の減少や分布に影響を及ぼすと考えられた。

 第2章では近年の野外分離株3株(Ueno株、Hamamatsu株、Yanaka株)について、ワクチン株(Onderstepoort株)を対照としてH蛋白解析を行った。H蛋白の分子量はOnderstepoort株が78kDa、野外株は84kDaと異なったが、糖鎖付加を阻止すると、全株とも68kDaを示した。アミノ酸配列解析では、N-linkの糖鎖付加可能部位がOnderstepoort株は4ケ所、野外株は9ケ所であった。以上の結果から、H蛋白性状の異なるCDVの存在が示唆された。さらに、他のCDV株との遺伝的距離を比較したところ、日本で分離した3株間の相同性は高く1つの群を形成し、日本の野外株と外国の野外株との相同性も高く、これらの野外株は1つの大きな群を形成した。しかし、全野外株とワクチン株との相同性は低く別の群を形成した。このことから、ワクチン株とは異なる野外株の世界的な流行が示唆された。

 第3章ではF蛋白について検討した。F蛋白の分子量は、Onderstepoort株と野外株の間に顕著な差はみられなかった。アミノ酸配列解析では、親水性領域、システイン残基、N-linkの糖鎖付加可能部位は全て保存されていた。以上の結果から、野外株におけるF蛋白の変異はH蛋白より少ないと考えられた。近年の野外株であるPDV-2と、Yanaka株、Onderstepoort株について遺伝的距離を調べたところ、PDV-2とYanaka株は近く、Onderstepoort株は遠いという結果が得られ、F蛋白解析においてもワクチン株とは異なる野外株によるジステンパーの流行説が支持された。

 第4章では抗H蛋白モノクローナル抗体(MAb)を用いて各ウイルス株との反応性を検討した。1977年の野外株を免疫原として、ワクチン株(YSA-TC株)に対する中和活性を指標に作製されたMAb7種から、免疫沈降法によりH蛋白を認識するものを3種同定した(JD-5、JD-7、JD-11)。これらの抗体と従来の抗H蛋白MAb1種(d-7)を用いて、ワクチン株および近年の野外株との反応性を比較した。d-7、JD-5、JD-11は蛍光抗体法、免疫沈降法および中和活性において全ての株とよく反応したが、JD-7はワクチン株と高く、野外株とは低い反応性を示した。この結果は、近年の野外株において、H蛋白のJD-7認識部位に変異が起こっている可能性を示唆している。また、H蛋白遺伝子の欠損クローンを作製し、抗H蛋白MAbの抗原認識部位を検索した。JD-5およびJD-7は反応性が低く抗原部位の検索は出来なかったが、d-7およびJD-11はH蛋白全長遺伝子の発現系とは強く反応し、欠損クローンのそれとは反応しなかった。この結果から、この2種のMAbはH蛋白遺伝子の1609-1836番目か、またはこの部分を必要とする高次構造によって表れる部位を認識していると考えられた。

 第5章では持続感染ウイルス株の作出と、性状解析を行なった。B95a細胞にYanaka株を持続感染させた細胞から回収したウイルスは、新たにB95a細胞に感染させてもCPEや細胞死をおこさないにも関わらず、蛍光抗体法、免疫沈降法により感染および増殖していることが確認出来た。そこでこの変異株をYanaka-BP株と命名した。Yanaka-BP株膜蛋白のアミノ酸配列をYanaka株と比較した結果、アミノ酸変異がH蛋白では4ケ所、F蛋白では6ケ所認められた。特にF蛋白遺伝子では、Onderstepoort株でin vitroでの開始コドンと考えられている3番目のATGコドンがATAに変異していた。Yanaka-BP株は今後の持続感染の機序の解明に有用であると考えられる。

 以上の通り、本研究の成果は世界的なジステンパー流行の要因の解明や伝播経路の研究に多大な知見を与え、膜蛋白の機能の解明にも寄与すると考えられた。また、本研究で得られたCDV持続感染株は、終生免疫やウイルスの持続感染機構を解明するために有用な実験系を提供すると考えられた。これらの知見は学術上貢献するところが少なくない。よって審査員一同は、本論文が博士(獣医学)の学位論文として価値あるものと判定した。

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