ジステンパーはイヌにおける代表的なウイルス性伝染病で、1950年代に生ワクチンが開発されて以来本病の発生数は激減し、世界的によく制御されていると考えられていた。しかし近年、世界各地でジステンパーの流行が報告され、ウイルスが新たに変異を起こした可能性が考えられている。そこで、近年の流行の拡散と原因およびイヌジステンパーウイルス(CDV)の持続感染機構を解明する目的で、これらの機序に重要な役割を担うとされるCDV膜糖蛋白に着目し解析を行った。本研究は5章より構成される。 第1章では免疫組織化学的手法により、リンパ系組織での標的細胞サブセットの同定と、リンパ球の消長や分布などの変化について検討した。病理組織検索では全身臓器にCDV感染に特徴的な病変と、その病変部にウイルス抗原陽性像を認めた。凍結標本の二重染色の結果、脾臓ではCD4陽性リンパ球の減少がみられ、ウイルス抗原はCD4およびThy-1陽性リンパ球や細網内皮系の細胞に多く、また、CD8、CD21、IgM陽性細胞にも認められた。リンパ節ではThy-1陽性領域は比較的保持されていたが、二次瀘胞の形成は認められずB細胞の反応の抑制が示された。以上の結果から、CDVはT、Bリンパ球に直接感染し、リンパ球の減少や分布に影響を及ぼすと考えられた。 第2章では近年の野外分離株3株(Ueno株、Hamamatsu株、Yanaka株)について、ワクチン株(Onderstepoort株)を対照としてH蛋白解析を行った。H蛋白の分子量はOnderstepoort株が78kDa、野外株は84kDaと異なったが、糖鎖付加を阻止すると、全株とも68kDaを示した。アミノ酸配列解析では、N-linkの糖鎖付加可能部位がOnderstepoort株は4ケ所、野外株は9ケ所であった。以上の結果から、H蛋白性状の異なるCDVの存在が示唆された。さらに、他のCDV株との遺伝的距離を比較したところ、日本で分離した3株間の相同性は高く1つの群を形成し、日本の野外株と外国の野外株との相同性も高く、これらの野外株は1つの大きな群を形成した。しかし、全野外株とワクチン株との相同性は低く別の群を形成した。このことから、ワクチン株とは異なる野外株の世界的な流行が示唆された。 第3章ではF蛋白について検討した。F蛋白の分子量は、Onderstepoort株と野外株の間に顕著な差はみられなかった。アミノ酸配列解析では、親水性領域、システイン残基、N-linkの糖鎖付加可能部位は全て保存されていた。以上の結果から、野外株におけるF蛋白の変異はH蛋白より少ないと考えられた。近年の野外株であるPDV-2と、Yanaka株、Onderstepoort株について遺伝的距離を調べたところ、PDV-2とYanaka株は近く、Onderstepoort株は遠いという結果が得られ、F蛋白解析においてもワクチン株とは異なる野外株によるジステンパーの流行説が支持された。 第4章では抗H蛋白モノクローナル抗体(MAb)を用いて各ウイルス株との反応性を検討した。1977年の野外株を免疫原として、ワクチン株(YSA-TC株)に対する中和活性を指標に作製されたMAb7種から、免疫沈降法によりH蛋白を認識するものを3種同定した(JD-5、JD-7、JD-11)。これらの抗体と従来の抗H蛋白MAb1種(d-7)を用いて、ワクチン株および近年の野外株との反応性を比較した。d-7、JD-5、JD-11は蛍光抗体法、免疫沈降法および中和活性において全ての株とよく反応したが、JD-7はワクチン株と高く、野外株とは低い反応性を示した。この結果は、近年の野外株において、H蛋白のJD-7認識部位に変異が起こっている可能性を示唆している。また、H蛋白遺伝子の欠損クローンを作製し、抗H蛋白MAbの抗原認識部位を検索した。JD-5およびJD-7は反応性が低く抗原部位の検索は出来なかったが、d-7およびJD-11はH蛋白全長遺伝子の発現系とは強く反応し、欠損クローンのそれとは反応しなかった。この結果から、この2種のMAbはH蛋白遺伝子の1609-1836番目か、またはこの部分を必要とする高次構造によって表れる部位を認識していると考えられた。 第5章では持続感染ウイルス株の作出と、性状解析を行なった。B95a細胞にYanaka株を持続感染させた細胞から回収したウイルスは、新たにB95a細胞に感染させてもCPEや細胞死をおこさないにも関わらず、蛍光抗体法、免疫沈降法により感染および増殖していることが確認出来た。そこでこの変異株をYanaka-BP株と命名した。Yanaka-BP株膜蛋白のアミノ酸配列をYanaka株と比較した結果、アミノ酸変異がH蛋白では4ケ所、F蛋白では6ケ所認められた。特にF蛋白遺伝子では、Onderstepoort株でin vitroでの開始コドンと考えられている3番目のATGコドンがATAに変異していた。Yanaka-BP株は今後の持続感染の機序の解明に有用であると考えられる。 以上の通り、本研究の成果は世界的なジステンパー流行の要因の解明や伝播経路の研究に多大な知見を与え、膜蛋白の機能の解明にも寄与すると考えられた。また、本研究で得られたCDV持続感染株は、終生免疫やウイルスの持続感染機構を解明するために有用な実験系を提供すると考えられた。これらの知見は学術上貢献するところが少なくない。よって審査員一同は、本論文が博士(獣医学)の学位論文として価値あるものと判定した。 |