学位論文要旨



No 113579
著者(漢字) 河本,麻理子
著者(英字)
著者(カナ) コウモト,マリコ
標題(和) ネコ免疫不全ウイルスの生物学的および病理学的研究
標題(洋) Biological and Pathological Studies on Feline Immunodeficiency Virus
報告番号 113579
報告番号 甲13579
学位授与日 1998.03.30
学位種別 課程博士
学位種類 博士(獣医学)
学位記番号 博農第1938号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 獣医学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 見上,彪
 東京大学 教授 長谷川,篤彦
 東京大学 教授 高橋,英司
 東京大学 教授 大塚,治城
 東京大学 助教授 甲斐,知恵子
内容要旨

 ネコ免疫不全ウイルス(feline immunodeficiency virus:FIV)は1986年にアメリカで初めて免疫不全様症状を呈しているネコより分離され、その生物学的および遺伝学的特徴からレトロウイルス科レンチウイルス属に分類された。その後各国でウイルス分離および抗体調査が行われ、FIVは遅くとも1968年には存在し、現在全世界的に分布することが明らかとなった。またFIVは家ネコのみならず野生大型ネコ科動物からも分離され、希少種の保存の意味からも、致死性疾患であるFIV感染症に関する研究およびワクチンの確立が希求されている。FIVはその外被糖タンパク遺伝子envの超可変領域V3-V5の塩基配列の解析に基き、AからEの5つのサブタイプに分類されている。塩基配列の変異の解析によりサブタイプ間には宿主における病原性に差が見られることが示唆されており、サブタイプ間の病原性の差異を遺伝的差異と関連させることにより、FIVの病原性に関わる遺伝子や遺伝子配列が明らかになると考えられる。

 一方、レンチウイルス属にはヒトおよびサルの後天性免疫不全症候群(acquired immunodeficiency syndrome:AIDS)の病原ウイルスであるヒトおよびサル免疫不全ウイルス(human and simian immunodeficiency virus:HIV and SIV)が含まれている。SIVは様々なサルから分離されているが、本来の宿主であるサル種に対する病原性が弱く、ヒトのHIV感染症の研究に適する自然感染の動物モデルとしては未だ確立されていない。本来の宿主であるネコに病原性を持つFIVとネコの系はHIVとヒトの有用な動物モデルになることが期待されている。近年、HIV感染者が二千万人を超え、異性間性交渉によるものが増加している。異性間性交渉での経膣および経結腸、また母子感染における経口および経子宮等の経粘膜感染を阻止するようなワクチン開発に供する動物モデルの確立が望まれている。

 FIV感染症では、感染末期の免疫不全による慢性の感染症が特徴的である。この病期においてはウイルス、細菌、真菌、原虫、寄生虫など種々の寄生病原体が分離され、免疫不全にはFIVの他にこれらの病原体の関与も考えられる。FIVによるAIDS発症機構の解明にはspecific pathogen-free(SPF)環境およびSPF動物の使用が望ましい。本研究は、以下の三章においてSPFネコを用いてFIVの宿主における病原性を解明し、またFIVの経膣感染実験系を確立し、FIVのみならずHIVにおける経粘膜感染におけるワクチン開発における基礎的な知見を得ることを目的としている。

第一章FIVサブタイプA、Bのin vivoにおける病原性の比較:FIV Petaluma株感染SPFネコのAIDS発症報告

 約5ヶ月齢のSPFネコ3匹にそれぞれFIVサブタイプAに属するPetaluma株、サブタイプBに属するTM1およびTM2株を腹腔内接種し、8年以上、SPF環境下で飼育・観察した。長い無症候期の後、Petaluma株感染SPFネコが感染後8年4ヶ月より口内炎、食欲不振、削痩および脱水等の症状を示した。血液学的には著しい貧血、白血球減少、血小板減少が見られ、CD4/CD8比は0.075にまで低下し、感染後8年8ヶ月で腹腔内出血により死亡した。組織病理学的検索の結果、全身のリンパ節の萎縮と骨髄の異常が見られ、骨髄性白血病(非白血性)と診断された。AIDS発症ネコの血清中ウイルス量は顕著に高く、抗FIV抗体価は他のFIV感染ネコに比してやや低下していた。さらに、これらのネコの経過血清を用い、ウェスタンブロッティングによりFIV構成タンパクに対する抗体の推移を調べた結果、抗Env抗体は全てのネコで維持されていたが、発症したPetaluma株感染ネコでのみ無症候期中に抗Gag抗体の減少、消失が見られた。これらの結果は、抗Gag抗体と血清中ウイルス量がAIDS発症に関連していることを示している。HIV感染においても病期の進行と抗Gag抗体消失の関連が報告されており、そのメカニズムを解明することはFIVをHIVの動物モデル系として確立する上で貴重な知見を与えるものと思われる。また、自然感染ではAIDS発症までに感染後約4年と報告されているが、SPF環境下では8年以上もの長期間が必要であったことからAIDSの発症に他の病原体の関与が強く示唆された。また、サブタイプBはin vivoにおいてサブタイプAより病原性が弱く、弱毒生ワクチンの原株の候補として考えられることが示唆された。

第二章感染性遺伝子クローンを用いたFIVの経膣粘膜感染の成立

 上に述べたように、近年、ヒトのHIV感染では異性間性交渉における経膣、経結腸粘膜感染が重要視されている。そこでHIVの経膣粘膜感染動物モデルを確立するための基礎的知見を得ることを目的として、FIVの経膣粘膜感染を試みた。経粘膜感染では粘膜面でヘテロなウイルス集団から特定の塩基配列を持つウイルスの選択が起こることが報告されている。本研究では接種材料として全遺伝子領域の塩基配列が明らかな感染性遺伝子クローン由来ウイルスを用いた。また、FIVにはゲノム上のアクセサリー遺伝子に加え、long terminal repeat(LTR)内にいくつかのenhancer/promoterタンパク結合部位が存在することが報告されている。そのうちのAP-1結合部位は種々の培養細胞中でのLTRの基礎転写活性に重要であることが報告されている。そこで、第一章で述べたように比較的病原性が弱いとされるサブタイプBに属するTM2株およびそのLTR内の31塩基(bp)を欠損させたAP-1結合部位欠損感染性遺伝子クローン由来ウイルス(△AP-1)をネコリンパ芽球株化細胞であるMYA-1細胞に感染させた。メスのSPFネコ9匹を3匹ずつ3群に分け、それぞれに経膣で1x106/匹でFIV抗原陽性MYA-1細胞および非感染MYA-1細胞を接種した。FIV感染の成立は末梢血単核球(peripheral blood mononuclear cells:PBMC)をMYA-1細胞と共培養してウイルス分離を行い、またPBMC中のプロウイルスDNAをPCRで検出することで確認した。TM2接種群で3匹中1匹で接種後1週(weeks post inoculation:wpi)から、同群の残りの1匹および△AP-1接種群の3匹中2匹で4wpiからPBMC中のプロウイルスDNAが検出された。プロウイルスDNAが検出されたネコ全匹で4wpiから共培養によりウイルスが分離された。TM2接種群および△AP-1接種群のそれぞれ一匹ずつでは、実験期間の8週を超えてFIVプロウイルスDNAは検出されなかった。以前腹腔内にFIV陽性のCRFK細胞を3x104/匹で接種した実験では接種後2週で6匹中5匹でPBMCからプロウイルスDNAが検出されており、この経膣感染では腹腔内接種に比べウイルスのPBMC中への出現は有意に遅れた。一方、血清中の抗ウイルス抗体価はTM2接種群で3wpiから、△AP-1接種群で5wpiから上昇し、△AP-1株は宿主の抗原提示細胞(antigen presenting cell:APC)上における抗原提示が弱いことが示唆された。

 TM2株はリンパ球系細胞でよく増殖し、上皮系の細胞には感染しないことが報告されている。レンチウイルスの膣粘膜上皮での標的細胞は粘膜固有層のランゲルハンス細胞やマクロファージ、リンパ球ではないかと考えられている。SIV/サルを用いた経膣感染ではランゲルハンス細胞およびリンパ球にSIV抗原が検出されたものの、マクロファージにはSIV抗原は検出されなかった。一方、上皮系株化細胞を用いたHIVでの報告ではウイルス粒子は上皮細胞に感染することなく細胞内を通過し、粘膜固有層に到達する可能性が示唆されている。いったん粘膜固有層のランゲルハンス細胞やリンパ球に感染したウイルスは輸入リンパ節に運ばれ、そこで樹上細胞やT細胞に抗原提示するとともに全身に播種される。FIVの膣粘膜上皮での標的細胞は今後明らかにしなければならないが、粘膜固有層内でFIV抗原を検出したという報告もあり、今回の実験でPBMC中への出現がかなり遅れたこと、その時期が血清中抗体価の上昇とほぼ同じであったことから、粘膜固有層に侵入したFIVはAPCに感染あるいはAPCにより輸入リンパ節に運ばれ、ウイルスの増殖、播種と抗原提示が同時に行われたと推察される。今回、感染性遺伝子クローン由来ウイルスを用いて経膣粘膜感染が成立したことより、今後この系を用いてさらに感染性および病原性に関与する因子の検索が可能である。以上の結果からFIV-ネコの系はHIVの経膣感染の動物モデルとして有用であることが示唆された。

第三章AP-1結合部位欠損ウイルスクローンのFIV経膣感染に対するワクチンとしての有効性の検討

 第二章の結果を踏まえ、△AP-1がTM2の感染を阻止し、FIV感染に対するワクチンとして有効であるかを検討した。第二章で△AP-1の感染が成立したネコ2匹、8wpiでPBMC中よりプロウイルスDNAが検出されず△AP-1の感染が成立しなかったネコ1匹、およびコントロールのネコ3匹に9wpiでTM2感染MYA-1細胞5x106を経膣接種した。感染の成立は第二章と同様の方法で確認し、さらに△AP-1とTM2のどちらがあるいは両方が感染しているかどうかを、PBMC中のプロウイルスDNAをPCRで増幅し△AP-1で欠損している31bp内にあるNheI制限酵素部位を切断することにより確認した。その結果、△AP-1感染が成立しなかったネコ、およびコントロールネコではTM2に特異的なバンドのみが検出され、△AP-1感染が成立したネコではTM2に特異的なバンドは検出されなかった。さらに△AP-1を接種したネコについては剖検を行い、各組織中のFIVプロウイルスDNAを検出した。PBMCから得られた結果と同様、△AP-1感染が成立したネコではTM2に特異的なバンドは検出されず、△AP-1がTM2の感染を阻止したことが確認された。興味深いことに、膣粘膜組織中に△AP-1のプロウイルスDNAが検出され、局所でのウイルスの増殖とともに粘膜面でTM2の感染を阻止したことが示唆された。今回粘膜での免疫応答の検討を行わなかったが、ヒトヘルペス2型感染では粘膜組織でのウイルスの活発な増殖が粘膜免疫誘導に効果的であることが報告されている。今後粘膜組織で増殖し、粘膜免疫とともにCTL活性も誘導できるようなウイルスベクターの開発が望まれる。今後のさらなる研究により粘膜免疫について明らかにすることにより、FIV/ネコの系はHIVにおける経粘膜感染の有用な動物モデルとして供することができると考えられる。

審査要旨

 ネコ免疫不全ウイルス(FIV)はレトロウイルス科レンチウイルス属に分類され、現在、全世界的に分布し、FIV感染症に関する研究およびワクチンの確立が希求されている。一方、レンチウイルス属にはヒトの後天性免疫不全症候群(AIDS)の病原ウイルスであるヒト免疫不全ウイルス(HIV)が含まれている。近年、異性間性交渉によると考えられるHIV感染者が増加しており、経膣および経結腸等の経粘膜感染を阻止するようなワクチン開発に供する動物モデルの確立が望まれている。本来の宿主であるネコに病原性を持つFIVとネコの系はHIVとヒトの有用な動物モデルとして期待されている。

 FIV感染症では、感染末期に種々の寄生病原体が分離され、免疫不全の発症にはFIVの他にこれらの病原体の関与も考えられる。そのためFIVによるAIDS発症機構の解明にはspecific pathogen-free(SPF)環境およびSPF動物の使用が望ましい。本研究は、以下の三章においてSPFネコを用いてFIVの宿主における病原性を解明し、またFIVの経膣感染実験系を確立し、FIVのみならずHIVにおける経粘膜感染におけるワクチン開発における基礎的な知見を得ることを目的としている。

 第一章では、約5ヶ月齢のSPFネコ3匹にそれぞれFIVサブタイプAに属するPetaluma株、サブタイプBに属するTM1およびTM2株を腹腔内接種し、8年以上、SPF環境下で飼育・観察した。長い無症候期の後、Petaluma株感染SPFネコが感染後8年4ヶ月よりAIDS様症状を示し、感染後8年8ヶ月で腹腔内出血により死亡した。組織病理学的検索の結果、骨髄性白血病(非白血性)と診断された。AIDS発症ネコの血清中ウイルス量は顕著に高く、これらのネコの経過血清を用いFIV構成タンパクに対する抗体の推移を調べた結果、発症したPetaluma株感染ネコでのみ無症候期中に抗Gag抗体の減少、消失が見られた。これらの結果は、抗Gag抗体と血清中ウイルス量がAIDS発症に関連していることを示している。また、AIDS発症までにSPF環境下では8年以上もの長期間が必要であったことからAIDSの発症に他の病原体の関与が強く示唆された。また、サブタイプBはin vivoにおいてサブタイプAより病原性が弱く、弱毒生ワクチンの原株の候補として考えられることが示唆された。

 第二章では、HIVの経膣粘膜感染動物モデルを確立するための基礎的知見を得ることを目的として、FIVの経膣粘膜感染を試みた。FIVでは末端重複配列(LTR)内のenhancer/promoterタンパク結合部位であるAP-1結合部位が、種々のFIV感染培養細胞中でのLTRの基礎転写活性に重要であることが報告されている。そこで、TM2株およびそのAP-1結合部位欠損感染性遺伝子クローン由来ウイルス(△AP-1)をネコリンパ芽球株化細胞であるMYA-1細胞に感染させた。メスのSPFネコ9匹を3匹ずつ3群に分け、それぞれにTM2株および△AP-1株感染MYA-1細胞および非感染MYA-1細胞を経膣接種した。TM2接種群および△AP-1接種群のそれぞれ3匹中2匹から、末梢血単核球(PBMC)中のプロウイルスDNAが検出され、FIV感染が確認された。△AP-1株はTM2株と比較し宿主の抗原提示細胞上における抗原提示が弱いことが示唆された。FIV陽性のCRFK細胞を腹腔内接種した結果と比較するとウイルスのPBMC中への出現時期は有意に遅れ、また、血清中の抗ウイルス抗体価の上昇はプロウイルスDNAのPBMC中への出現とほぼ同時だった。今回、全遺伝子配列の明らかな感染性遺伝子クローン由来ウイルスを用いて経膣粘膜感染が成立したことより、今後この系を用いてさらに感染性および病原性に関与する因子の検索が可能であり、FIV-ネコの系はHIVの経膣感染の動物モデルとして有用であることが示唆された。

 第三章では、第二章の結果を踏まえ、△AP-1がTM2の感染を阻止し、FIV感染に対するワクチンとして有効であるかを検討した。第二章で△AP-1の感染が成立したネコにTM2感染MYA-1細胞を経膣で攻撃接種した。PBMCおよび各組織中のFIVプロウイルスDNAにつき検討した結果、△AP-1がTM2の感染を阻止したことが確認された。興味深いことに、膣粘膜組織中に△AP-1のプロウイルスDNAが検出され、局所でのウイルスの増殖とともに粘膜面でTM2の感染を阻止したことが示唆された。

 以上の通り、本研究はFIVの宿主に対する病原性を明らかにし、また感染性遺伝子クローン由来ウイルスを用いて経膣粘膜感染系を確立し、遺伝子欠損株の弱毒生ワクチンとしての効果を検討した。これらよりFIV/ネコの系はHIVにおける経粘膜感染の有用な動物モデルとして供することができると考えられた。これらの知見は学術上貢献するところが少なくない。よって審査員一同は、本論文が博士(獣医学)の学位論文として価値あるものと判定した。

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