学位論文要旨



No 113584
著者(漢字) 原口,清輝
著者(英字)
著者(カナ) ハラグチ,セイキ
標題(和) マウス胚の初期卵割における細胞周期制御機構に関する研究
標題(洋)
報告番号 113584
報告番号 甲13584
学位授与日 1998.03.30
学位種別 課程博士
学位種類 博士(獣医学)
学位記番号 博農第1943号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 獣医学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 勝木,元也
 東京大学 教授 高橋,迪雄
 東京大学 教授 東條,英昭
 東京大学 助教授 塩田,邦郎
 東京大学 助教授 内藤,邦彦
内容要旨

 有糸分裂(mitosis)を行う哺乳類細胞において、体細胞と初期胚の分裂様式を比較したとき、初期胚には体細胞と異なった特殊な現象が存在することが知られている。例えば、マウス初期胚の体外培養時には、2細胞期におけるS期終了後のG2/M期停止、いわゆる"2-cell block"が見られる。体細胞では一旦S期が終了したら次のG1期までは細胞周期が進行し、G2/M期で停止することはない。また、体細胞の増殖には増殖因子(mitogen)が不可欠であるのに対し、初期胚では外因性のmitogenがなくても正常発生を行うことが可能である。これらのことは、体細胞と初期胚の細胞周期制御機構に、何らかの相違があることを示唆している。

 そこで本研究では、体細胞と異なった初期胚特異的な細胞周期制御機構を探ることを目的とした。この目的のためには、初期胚に特異的な現象を示す材料において、細胞周期制御因子の動態を探るのが一つの有効な手段であると考え、マウス初期胚特異的な現象である2-cell blockに焦点をあてた。すなわち、これを起こしている胚と、これを解除しM期に進行した胚を比較すれば初期胚特異的な細胞周期の停止、進行を制御する機構が見つかるのではないかと期待し実験を開始した。

 本実験を進めていく上では、"G2/M期停止胚"が確実に得られ、またこれが解除されて、正常発生が可能となった"M期進行胚"を高率に得ることが必要となる。そこで第一章では、この様な胚を得るための実験系の確立を行った。本実験ではAKRマウス胚を材料に用いたが、これはAKR胚がほぼ完全に2-cell blockを示すことが知られているためである。しかしながら、これまで2-cell blockの解除に有効とされてきたEDTAやSODは、AKR胚には全く効果が認められないことが報告されていた。本実験では、培地中のリン酸を除去することでAKR胚の2-cell blockが顕著に解除(90%以上)されることを初めて明らかにすることができた。次に、2細胞期のDNA合成をBrdUの核内への取り込みにより調べた結果、第一卵割後およそ8時間でS期が終了していることが示唆され、この2-cell blockがS期終了後のG2/M期停止であると考えられた。2-cell blokが解除された胚が、生理的な状態にあるかどうかを知るために胚移植を行ったところ、正常胎子を得ることができた。これは、リン酸除去培地で2-cell blockが解除された胚は正常発生であることを裏付ける結果である。以上より、AKR胚を用いた本培養系では、本研究を行う上で十分均一なG2/M期停止胚とM期進行胚を容易に得ることができ、非常に優れた実験系になるものと考えられた。

 この実験系を用いて、第二章では細胞周期制御因子の一つでM期誘導機構の中心的役割を果たすことが知られているMPF、およびその活性化因子であるcdc25Bの動態を探った。MPFは酵素活性を持つcdc2と、その活性を制御するサイクリンBの複合体であり、一般にその活性化にはサイクリンBの合成によるpre-MPF(リン酸化型cdc2)の蓄積とcdc25Bによるpre-MPFの脱リン酸化が必要であることが知られている。その結果G2/M期停止胚では、サイクリンBの合成に伴うpre-MPFの蓄積が認められたが、cdc2の脱リン酸化が認められず、MPF活性も低値を維持したままであった。初期胚においても体細胞と同様にcdc25Bが存在するかどうかを調べた結果、mRNAおよびタンパク質は、G2/M期停止胚、M期進行胚ともに同レベルで存在していたが活性化されていないことが示唆された。よって、G2/M期停止胚ではcdc25Bの活性化が起こっていないためにcdc2の脱リン酸化が誘導されないのではないかと考えられた。この結果は、体細胞のG2/M期チェックポイント機構が働いて停止している状態と同様であった。そこで、cdc25Bの活性化を引き起こすことが知られているオカダ酸でG2/M期停止胚を処理した結果、MPF活性の有意な上昇とcdc2の脱リン酸化、さらに核膜の崩壊に続く染色体の凝集が認められた。これらの現象は、cdc25Bが活性化され、G2/M期停止胚がM期に誘導されたことを示すものであり、G2/M期停止胚もMPF活性の支配下にあること、またこの活性化さえ起こせばM期に誘導されることが明らかとなった。一方、M期進行胚では体細胞と同様に、間期におけるサイクリンBの合成とリン酸化型cdc2の蓄積が起こり、M期にMPFの活性化、およびcdc2の脱リン酸化が認められた。以上より、マウス初期胚の細胞周期制御機構におけるM期誘導機構は、本実験で調べた限りでは明らかな体細胞との相違は検出されなかった。

 第三章では、体細胞の細胞周期がmitogen依存性であるのに対し、初期胚では非依存性であることから、探索の焦点を体細胞で認められているmitogenにより活性化されるMAPキナーゼカスケードに当てた。その結果、それを構成しているras、raf-1、14-3-3、MEK、ERKの各因子は、G2/M期停止胚およびM期進行胚に同じタンパク質量が存在していることが明らかとなった。これらの分子量はいずれも体細胞で認められている分子量と一致していた。Raf-1は、未受精卵、1細胞期、および2細胞期のM期で活性化していることが示された。体細胞ではras→raf-1の活性化において、14-3-3が不活性型のraf-1に結合し、raf-1が活性化した後14-3-3は遊離することが知られているが、この機序は初期胚においても採用されていることが免疫沈降によって確認できた。MEKの活性化は、raf-1と全く同様にM期に起こることが認められた。しかしながら、MEKの下流に位置しているERKの活性化は未受精卵でのみ検出され、初期卵割のM期には活性化が見られず、この時期、MEKとERKが乖離していることが示唆された。一方、MAPK活性の指標となるMBPキナーゼ活性は初期胚のM期においても検出された。G2/M期停止胚をオカダ酸処理した結果、MEKは活性化されたが、ERKは活性化されないこと、しかしMBPキナーゼが活性化することが確認された。これらの結果から、マウス初期胚のM期においてMAPキナーゼカスケードの活性化が起こることが明らかとなった。そしてマウス初期胚に特異的な制御機構として、MEKとERKは乖離しておりERKは活性化しないことが示され、何らかの別のMAPKが活性化されるていることが示唆された。

 本研究では、体細胞と異なった初期胚特異的な細胞周期制御機構を探ることを目的としたわけであるが、その結果MAPキナーゼカスケードにおいてMEKとERKが乖離していることを示すことができた。初期胚特異的な卵割の制御機構の全容解明にむけて、初期胚がなぜこの様な特殊な機構を用意しているのか、この機構が卵割に見られる特殊な現象とどのように結びついているのかといった点は今後さらに研究していく必要がある。

審査要旨

 哺乳類の体細胞と初期胚の分裂を比較すると種々の相違点が存在しており、減数分裂から体細胞型有糸分裂への移行期にある初期胚の分裂制御機構には、体細胞とは異なる点があることが予想される。しかしながら近年の生殖工学、発生工学分野への初期胚利用の増加とその重要性にもかかわらず、これまで初期卵割過程の分裂制御を詳細に検討した報告は少ない。本論文は、体細胞と異なった初期胚特異的な細胞周期制御機構の一端を明らかにしたものであり、序論、3章からなる本論、及び総括から構成されている。本論文を要約すると以下の通りである。

 まず序論において本研究の進め方として、哺乳類初期胚培養に特異的に見られるS期終了後のG2/M期停止に注目し、このような"G2/M期停止胚"と、これを解除してM期に進行した胚を比較すれば、初期胚特異的なM期誘導機構が見つかるのではないかという考え方を示している。

 そのため第1章では、"G2/M期停止胚"と、これが解除された"M期進行胚"を高率に得るための実験系の確立を検討している。本実験では、ほぼ完全に"G2/M期停止"を示すことが知られるAKRマウス胚を材料に用い、培地中のリン酸を除去することでこれが顕著に解除されることを明らかにしている。次に、AKR胚の"G2/M期停止"が胚特異的なS期終了後の停止であることを確認するため、ブロモデオキシウリジンの核内への取り込みにより、第一卵割後およそ8時間でS期が終了していることを示唆している。さらにこの"M期進行胚"が生理的な状態にあることを、胚移植を行って妊娠17日目に正常胎子を得たことによって裏付けている。以上より、AKR胚が本研究の目的において、優れた実験材料であると考察している。

 第2章ではこの実験系を用いて、初期胚に特異的なM期誘導機構を探るため、M期促進因子(MPF)に焦点を当てて検討を行い、"M期進行胚"では体細胞と同様に、間期におけるサイクリンBの合成とリン酸化型cdc2の蓄積が起こり、M期にcdc2の脱リン酸化、およびヒストンH1キナーゼの活性化が起こること、また、"G2/M期停止胚"ではリン酸化型cdc2が蓄積されているがcdc2の脱リン酸化が認められず、ヒストンH1キナーゼ活性は低値を維持したままで活性化は起こらないことを示している。さらに体細胞のcdc2脱リン酸化はcdc25Bが起こすことから、次にcdc25BのmRNAの発現状態、およびタンパク質の存在について調べ、初期卵割過程を通し"G2/M期停止胚""M期進行胚"ともに等量のcdc25Bが存在していることを示唆している。またこの活性化を起こすオカダ酸で"G2/M期停止胚を処理すると、cdc2の脱リン酸化とヒストンH1キナーゼの活性化、染色体の凝縮、核膜の崩壊を認めることから、初期胚もMPF活性の支配下にあり、この活性化さえ起こせばM期に誘導されることを示唆している。以上より、マウス初期胚におけるM期誘導機構はMPFに関する限り、体細胞と同じであると考察している。

 第三章では、体細胞の増殖には増殖因子の添加が不可欠であるのに対し、初期胚では外因性の増殖因子がなくても正常発生を行うことが可能である点に着目し、初期胚特異的な細胞周期制御機構の探索の焦点を、体細胞で認められる増殖因子により活性化されるMAPキナーゼカスケードに当てている。まず、それを構成しているras、raf-1、14-3-3、MEK、ERKの各因子が、初期卵割過程を通しタンパク質レベルで一定量存在していることを初めて明らかにしている。さらにraf-1はM期に活性化していることを示し、また14-3-3が不活性型のraf-1に結合し、raf-1が活性化した後14-3-3は解離することを免疫沈降によって確認し、体細胞同様のraf-1活性化機構が初期胚にも存在することを示唆している。またraf-1の下流に位置するMEKの活性化は、raf-1と同様にM期に起こるが、MEKの下流に位置するERKの活性化は初期卵割のM期には認められないことを示している。これに対しMAPキナーゼ活性の指標となるMBPキナーゼ活性は初期胚のM期においても検出されたことから、初期胚特異的にERK以外のMAPキナーゼが存在している可能性を示唆している。

 以上、本論文は、マウス初期胚卵割過程ではMPFによるM期誘導機構は体細胞と同様であることを示唆し、さらにM期にrasからMEKに至るMAPキナーゼカスケードが活性化されること、またMEKが活性化されるにも関わらずERKが活性化されないという体細胞とは明らかな相違点が存在していることを明らかにしたものであり、獣医学ならびに発生生物学学術上貢献するところが少なくない。よって審査員一同は本論文が博士(獣医学)の学位論文として価値あるものと認めた。

UTokyo Repositoryリンク http://hdl.handle.net/2261/54648