学位論文要旨



No 113587
著者(漢字) 松岡,勝人
著者(英字)
著者(カナ) マツオカ,マサト
標題(和) 鋤鼻嗅覚系神経路をモデルとしたシナプス可塑性の機能的解析
標題(洋)
報告番号 113587
報告番号 甲13587
学位授与日 1998.03.30
学位種別 課程博士
学位種類 博士(獣医学)
学位記番号 博農第1946号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 獣医学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 森,裕司
 東京大学 教授 小川,智也
 東京大学 助教授 塩田,邦郎
 東京大学 助教授 西原,真杉
 東京大学 助教授 高橋,伸一郎
内容要旨

 脳がどのように外界からの刺激を記憶するのかはきわめて重要な問題である。中枢神経系を構成するニューロン間の接点にはシナプスが存在しインパルスという電気的な信号を伝達物質という化学的な信号に変換することでニューロン間の機能的連結を仲介している。シナプスには脳内外からの刺激に応じてその形態に変化を生じる性質があることが知られており、このいわゆるシナプスの可塑性がニューロン間の情報伝達効率に反映されると考えられる。このようにシナプスの形態変化は単純な電気的増強だけでは維持するのが困難な長期の記憶の固定化に関与している可能性が示唆されている。

 本研究では鋤鼻嗅覚系神経路の第一次中枢である副嗅球をモデルとして、フェロモン情報の記憶形成に関連して生じるシナプスの可塑的変化を超微形態学的に解析し、感覚器を介した外界からの刺激が中枢神経系の構造に及ぼす影響について検討を行った。フェロモンは個体の体外に放出されて同種の他個体に一定の行動や生理的反応を引き起こす物質の総称である。本論文は6章から構成され、第1章では当該分野におけるこれまでの研究成果を概観し、フェロモン情報が副嗅球におけるシナプスの可塑的変化として記憶される、という作業仮説を立て、以下の2章から5章ではこれを検証するための実験を行い、その結果をもとに第6章で総合考察を行った。

 第2章ではハムスターの鋤鼻器および副嗅球を光学顕微鏡および透過型電子顕微鏡を用いて詳細に観察した。嗅覚情報の伝達経路には、主嗅覚系および鋤鼻嗅覚系の二つの神経路が知られている。鋤鼻嗅覚系神経路は種保存のための繁殖行動に関与し、フェロモンの受容と情報伝達、これに関わる行動発現に関係する経路であると考えられており、感覚受容器官である鋤鼻器に始まり、副嗅球を経て扁桃体内側核に至り、さらに視床下部に向かう一連の経路である。鋤鼻器感覚上皮には粘膜表面に微絨毛が存在し、構成する細胞群としては表層近くに支持細胞の細胞体が、基底膜よりには感覚細胞の細胞体が観察された。また主嗅球の後背側部に位置する副嗅球は5層構造をしており表層側から鋤鼻神経層、糸球体層、僧帽房飾細胞層、嗅索層、さらに顆粒細胞層が確認された。電子顕微鏡を用いた観察では糸球体層のシナプスは感覚細胞の軸索終末と僧帽房飾細胞の樹状突起間に形成されており、感覚細胞の軸索終末は前シナプス部として電子密度が高く暗く観察され、シナプス小胞が高密度に観察された。一方、僧帽房飾細胞の樹状突起は後シナプス部として電子密度が比較的低く明るく観察された。この僧帽房飾細胞層では特徴的な相反シナプスが観察された。相反シナプスは僧帽房飾細胞と顆粒細胞の間に存在する樹状突起間シナプスであり、僧帽房飾細胞の樹状突起は微小管を多数含んだ太い樹状突起として、また顆粒細胞の樹状突起は棘突起を形成した小型の樹状突起としてそれぞれ明瞭に区別された。

 第3章では、飼育環境が副嗅球の構造にどのような影響を及ぼしうるかという点について、特にシナプスの形態変化を指標に検討を行った。性成熟後の雄ハムスターを、雌との混合飼育群および一匹だけの単独飼育群の二群に分け、60日間飼育したのち副嗅球を回収して組織学的に検索した。この実験では副嗅球糸球体層に存在するシナプスに着目し、平面上でのシナプスの後膜肥厚(後突起側の膜近辺のレセプターやチャネルが集まっている電子密度の高い部分)の長さを計測した。この後膜肥厚長をシナプスのサイズの指標とし上記の二群間で比較検討した。その結果、より複雑な社会的環境である混合飼育下において糸球体層のシナプスが単独飼育群に比べて有意に大きくなることが明らかになった。このことから感覚器を経由した外界からの刺激によって中枢神経系のシナプス形態が変化しうることが示された。鋤鼻嗅覚系の機能的性質から考えて、この変化はフェロモンによって引き起こされた可能性が高い。しかし、本章の実験システムでは実験に用いた雄を雌と同居させているため、フェロモン情報以外に様々な刺激(視覚・聴覚・接触・交尾経験による内分泌系の変化など)を受けており、これらの要因の関与が否定できなかった。

 そこで第4章では、フェロモンによる刺激が副嗅球の構造に及ぼす影響についてより特異性の高い実験系を用いて解析することを目的に、フェロモン効果を期待しうる生物材料として尿を選び雄動物に対して刺激した際のシナプス形態の変化について解析を行った。単独飼育状態の雄ハムスターに対し、水、雌ハムスター尿、雄ハムスター尿、および雌ラット尿を15日間曝露し、副嗅球の僧帽房飾細胞層に存在する相反シナプスを電子顕微鏡で観察した。相反シナプスは上記のように僧帽房飾細胞と顆粒細胞を連絡する樹状突起間シナプスであり、興奮性シナプスと抑制性シナプスが一対となって構成される特殊なシナプスである。興奮性シナプスと抑制性シナプスはその形態から容易に区別することができるため、ここでは両者のサイズを計測し、それぞれについて群間での比較を行った。その結果、僧帽房飾細胞から顆粒細胞への興奮性シナプスのサイズが雌ハムスター尿への曝露群で有意に小さくなるという結果が得られた。一方、顆粒細胞から僧帽房飾細胞に向かう抑制性シナプスには群間に有意差は見られなかった。

 フェロモンを受容した鋤鼻器の感覚細胞は副嗅球の僧帽房飾細胞を興奮させるが、その興奮は僧帽房飾細胞から顆粒細胞へ興奮性シナプスを経由して伝達され、これを受けて顆粒細胞は逆に抑制性シナプスでGABAを放出して僧帽房飾細胞に抑制的なフィードバックを与えると推察される。このように相反シナプスは副嗅球から高次中枢への情報の出力調整をしていると考えられ、シナプスの後膜肥厚はレセプターやイオンチャネルが多数集まっている部分なので、そのサイズの減少は以後の同様な入力に対する抑制の低下をもたらすものと推察される。言い換えれば、雌ハムスターの尿中に含まれるフェロモン情報がより効率よく中枢に伝達されることになり、結果的に繁殖効率を高め、個体の適応度を上げる意味を持つものと思われる。

 第5章ではフェロモンの記憶とシナプス可塑性の関係についてブルース効果として知られる現象をモデルとして解析した。交尾直後の雌マウスを交尾相手以外の系統の雄と一緒にしておくと着床阻害が起きるが、一般にブルース効果と呼ばれているこの生理現象は雄マウスの尿でも再現されることから、尿中フェロモンにより引き起こされ、その情報は鋤鼻嗅覚系神経路を介して中枢に伝達されていると考えられている。交尾相手の尿中に含まれるフェロモンも本来はそうした効果を有していることから、雌マウスが交尾相手の雄のフェロモンを記憶することにより特定の雄のフェロモン効果が中枢伝達されるのを遮断し、妊娠に対する保証を獲得していると推察される。このように雌マウスには雄フェロモンに対する高度な識別・記憶機構が備わっていると考えられる。雌マウスの雄尿中フェロモンに対する記憶形成のためには、フェロモンへの曝露と交尾刺激の二つの条件が同時に必要であり、どちらか一方が欠けても記憶は成立しない。このためブルース効果をモデルに用いると実験的に記憶形成群、非形成群を容易に作出しうる点に着目した。Balb/c雌マウスを二つの群に分け、一群はフェロモン曝露下で交尾をさせフェロモンに対する記憶を形成させた。もう一群は交尾無しでフェロモンに曝露させ記憶の形成されない対照群とした。この二群について僧帽房飾細胞層に存在する相反シナプスを観察し、両シナプスのサイズを群間で比較検討した。その結果、僧帽房飾細胞から顆粒細胞への興奮性シナプスのサイズが記憶形成群で有意に大きくなる結果が得られた。一方、顆粒細胞から僧帽房飾細胞への抑制性シナプスには両群間で有意な差は見られなかった。前述のように興奮性シナプスのサイズの増加によってより多くの情報が伝達されると仮定すると、以後のフェロモン曝露時に記憶形成以前に比べてより強い抑制が生じ妊娠阻害を引き起こす情報の伝達が遮断されることになる。これが交尾相手のフェロモンでは着床阻害が引き起こされない機構の背景になっているものと推察された。

 第6章では総合考察を行った。本研究で明らかにされたシナプスの可塑的な変化だけでフェロモンに対する記憶機構が維持されていると断定することはできないが、少なくともこのような変化が長期記憶の一端を担っているであろうことが強く示唆された。このように、おそらくはシナプスの一般的特性として敷衍できようが、鋤鼻嗅覚系のシナプスに刺激が加わるとその状況に応じて形態的変化が起こると考えられる。そしてこのフレキシブルなシナプスの可塑的変化こそが、動物の記憶・学習を可能とならしめ、動物が環境に適応し進化する上で重要な役割を演じてきたと推察される。

 以上、本研究では鋤鼻嗅覚系神経路をモデルとして記憶の形成に関連する中枢神経機構の可塑的変化について解析を行い、行動や生理的な反応に関連する記憶現象をシナプス形態の可塑的変化として捉えることに初めて成功した。

審査要旨

 中枢神経系を構成するニューロン間の接点にはシナプスが存在し電気的信号であるインパルスを伝達物質という化学的信号に変換することでニューロン間の機能的連結を仲介している。シナプスには脳内外からの刺激に応じてその形態に変化を生じる性質があることが知られており、このいわゆるシナプスの可塑性がニューロン間の情報伝達効率に反映され長期記憶の固定化に関与している可能性が示唆されている。本研究は、鋤鼻嗅覚系神経路の第一次中枢である副嗅球に着目してフェロモン情報の記憶形成に関連して生じるシナプスの可塑的変化を超微形態学的に解析しようとしたものであり、6章から構成される。

 第1章では、本論文の背景となるシナプス可塑性および鋤鼻嗅覚系に関する過去の研究成果が概観され、本研究の目的が解説されている。哺乳類における嗅覚情報の伝達経路には、主嗅覚系および鋤鼻嗅覚系の二つの神経路が知られているが、後者は主として性行動や育子行動といった繁殖行動に関与し、フェロモンの受容と情報伝達を司る経路である。本研究では、フェロモン情報が副嗅球におけるシナプスの可塑的変化として記憶されるという作業仮説が立てられ、以下の2章から5章においてこの仮説を検証するための実験が行われた。その結果をもとに第6章で総合考察が展開されている。

 第2章では、第3章および第4章で行われた実験のための基礎検討として、これまでに報告のなかったハムスターの鋤鼻器および副嗅球について、光学顕微鏡および透過型電子顕微鏡を用いた詳細な観察が行われ、他の動物種との間で比較形態学的考察が行われている。

 第3章では、動物をとりまく飼育環境が、副嗅球の神経構造にどのような影響を及ぼしうるかという点について検討するため、シナプスの形態変化を指標とした解析が行われた。成熟雄ハムスターを、雌との混合飼育群および単独飼育群の二群に分けてそれぞれ60日間飼育したのち副嗅球を回収し、糸球体層に存在するシナプスに着目して透過型電子顕微鏡を用いた組織学的検索が行われた。その結果、糸球体層におけるシナプスの後膜肥厚長は、より複雑な社会的環境である混合飼育下で飼育された動物において、単独飼育の場合との比較において有意に増大することが明らかになり、このことからフェロモン刺激を含む外界からの感覚刺激の多寡を反映して中枢神経系のシナプス形態が変化しうることが示された。

 第4章では、フェロモン刺激が副嗅球の構造に及ぼす影響について、より特異性の高い実験条件下で解析することを目的に、雄動物を尿サンプルにのみ暴露した際のシナプス形態の変化について解析が行われた。単独飼育状態の雄ハムスターに対し、水、雌ハムスター尿、雄ハムスター尿あるいは雌ラット尿を連続15日間曝露した結果、副嗅球の僧帽房飾細胞層に存在する相反シナプスのうち僧帽房飾細胞から顆粒細胞への情報伝達を仲介する興奮性シナプスが、雌ハムスター尿への曝露により縮小することが見出された。

 第5章では、4章の実験成績を基盤として、記憶形成とシナプス可塑性との関係について検討するため、マウスで知られているブルース効果をモデルとした副嗅球シナプス可塑性についての解析が行われた。ブルース効果は交尾直後の雌マウスを交尾相手以外の系統の雄と一緒にしておくと着床阻害が引き起こされる現象であるが、雌マウスが交尾相手の雄のフェロモンを記憶するためには、フェロモンへの曝露と交尾刺激の二つの条件が同時に成立することが必要であり、このためブルース効果をモデルに用いると実験的に記憶形成群、非形成群を容易に作出しうる点が着目された。その結果、僧帽房飾細胞から顆粒細胞への興奮性シナプスのサイズが記憶形成群で有意に増大し、一方、顆粒細胞から僧帽房飾細胞への抑制性シナプスには変化のないことが明らかとなった。

 第6章では総合考察が展開され、本研究で明らかにされた鋤鼻嗅覚系シナプスの可塑的な変化がフェロモン情報の記憶の基盤として重要であると同時に、他の神経系で見られる長期的記憶にも敷衍可能なメカニズムであろうと推察されている。

 以上要するに、本研究は鋤鼻嗅覚系をモデルとして記憶の成立・維持と関連するシナプスの可塑的変化を形態学的に明示したものであり、神経行動学や脳科学の研究分野において学術上貢献することが少なくない。よって審査委員一同は本論文が博士(獣医学)の学位論文として価値あるものと判定した。

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