学位論文要旨



No 113590
著者(漢字) 曺,圭完
著者(英字) Cho,Kyu-Woan
著者(カナ) チョ ,キュウワン
標題(和) ネコの免疫グロブリンおよびT細胞レセプター遺伝子の分子細胞遺伝学的研究
標題(洋) Cytogenetic studies on feline immunoglobulin and T-cell receptor genes
報告番号 113590
報告番号 甲13590
学位授与日 1998.03.30
学位種別 課程博士
学位種類 博士(獣医学)
学位記番号 博農第1949号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 獣医学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 長谷川,篤彦
 東京大学 教授 小野寺,節
 東京大学 教授 土井,邦雄
 東京大学 教授 吉川,泰弘
 東京大学 助教授 辻本,元
内容要旨

 ヒトおよび動物における細胞遺伝学的研究は、遺伝性疾患および腫瘍において臨床的に重要な意味を持つと同時に、分子生物学と遺伝子工学の発展に寄与することができる。リンパ系細胞のB細胞およびT細胞は、それぞれの抗原認識分子である免疫グロブリンおよびT細胞レセプターをその細胞表面に発現する。B細胞とT細胞においてはその分化過程において、免疫グロブリン遺伝子(immunogloblin heavy chain,IgH;immunogloblin light chain,IgL)とT細胞レセプター遺伝子(T-cell receptor,,,,chains,TcR,TcR,TcR,TcR)の再構成が行われる。免疫グロブリン遺伝子とT細胞レセプター遺伝子の多様性はgerm lineにおける遺伝子分節(V,variable;D,diversity;J,joining:C,constant)の再構成によってもたらされる。したがって免疫グロブリン遺伝子とT細胞レセプター遺伝子の再構成はB細胞系とT細胞系の特異的遺伝子マーカーである。ヒトのリンパ系腫瘍における転座、逆位、欠失、重複、挿入などの染色体異常は細胞遺伝子を活性化あるいは不活化する重要な機構の一つで、腫瘍化に関与すると考えられる。とくに白血病およびリンパ腫において染色体異常は高頻度に認められ、染色体の切断部位近傍の遺伝子から腫瘍化と関連する多くの遺伝子が単離されてきた。なかでもリンパ系腫瘍における染色体異常には免疫グロブリン遺伝子やT細胞レセプター遺伝子が存在する染色体が高頻度に関与することが明らかになっている。これら細胞遺伝学的研究はヒトと実験動物を用いた系で長い間行われているが、最近になるまで獣医学領域においては詳細な細胞遺伝学的研究は行われていなかった。近年、比較ゲノムマッピングに関する研究や動物の腫瘍における細胞遺伝学的研究によって獣医学領域における細胞遺伝学的研究が可能となった。ヒトの染色体とネコの染色体の間には明らかな類似性を示す領域が数多く見い出されたことから、ヒトにおける細胞遺伝学的成果がネコにおける細胞遺伝学的研究に応用することが可能となった。また、同様にして、ネコの細胞遺伝学的研究による成果はヒトにおける細胞遺伝学的研究にも貢献することができるものと考えられ、細胞遺伝学的研究分野において、ネコはヒトの動物モデルとしてもみなすことが可能となった。

 ネコではリンパ腫およびリンパ系白血病が高頻度に発生しており、なかでも胸腺由来のT細胞系リンパ種の発生が多いことが知られている。また、最近ではネコのリンパ腫や白血病で多くの染色体異常が報告されている。しかし、それらリンパ腫・白血病において染色体異常と免疫グロブリン遺伝子またはT細胞レセプター遺伝子の座位との関連については報告がない。ネコのリンパ腫および白血病において、分子細胞遺伝学的研究を発展させるためには、ネコの免疫グロブリンおよびT細胞レセプター遺伝子に関する基盤研究およびネコの染色体の詳細なバンド命名法に関する研究が必要とされており、本研究においては、一連のネコの免疫グロブリン遺伝子およびT細胞レセプター遺伝子の分子細胞学的研究を行った。第一章においてはネコの免疫グロブリン遺伝子およびT細胞レセプター遺伝子をそれぞれ単離し、ネコとマウスまたはハムスターの雑種細胞パネルを用いてそれら遺伝子のネコにおける染色体マッピングを行った。第二章においてはG-bandingにおけるネコの各染色体bandの詳細な命名法を提唱した。第三章においては、Fluorescence in situ hybridization(FISH)法を用い、IgH遺伝子およびTcR遺伝子のネコ染色体上における詳細な座位を決定した。

第一章ネコの免疫グロブリン遺伝子およびT細胞レセプター遺伝子のクローニングと染色体マッピング

 lipopolysaccharide(LPS)で刺激したネコの末梢血単核球(PBMC)のmRNAから作成したcDNAを鋳型とし、ヒトおよびマウスの免疫グロブリン(IgH C,IgH C)遺伝子およびT細胞レセプター遺伝子(TcR C,TcR C,TcR C)のそれぞれにおいて種間でよく保存されている領域の塩基配列をもとに作成したプライマーを用いてpolymerase chain reaction(PCR)を行った。PCRによって増幅されたDNAフラグメントをpCRIIベクターに組み込み、その塩基配列を決定した。それぞれの単離されたDNAクローンの長さはIgH Cが691bp,IgH Cは396bP,TcR Cは381bP,TcR Cは498bp,TcR Cは418bpであった。ネコのIgH C,IgH C,TcR C,TcR C,TcR Cの各遺伝子がコードするアミノ酸配列は、ヒトにおけるこれらの遺伝子がコードするものとそれぞれ59.0%,66.1%,50.9%,65.7%,60.5%の相同性を示した。これら遺伝子から得られた塩基配列およびすでに報告されているネコIgL C,IgL C,TcR Cの塩基配列をもとにネコの各遺伝子に特異的なプライマーを作成し、ネコとマウスまたはハムスターの雑種細胞パネル37株DNAを鋳型としてPCRを行った。増幅されたPCR産物について、ネコの免疫グロブリン遺伝子およびT細胞レセプター遺伝子クローンをプローブに用いたサザンブロット分析を行った。その結果、IgH(C,C)はネコ染色体B3と97%、IgL Cはネコ染色体A3と97%、IgL Cはネコ染色体D3と97%、TcR CとTcR Cはネコ染色体B3とそれぞれ95%および87%の一致率を、TcR CとTcR Cはともにネコ染色体A2と89%の一致率を示した。これらの結果から、IgH、TcR C、TcR Cはネコ染色体B3、TcR CとTcR Cはネコ染色体A2、IgL Cはネコ染色体A3、またIgL Cはネコ染色体D3に存在することが明らかとった。これらの結果は、ネコにおける免疫グロブリンおよびT細胞レセプターの分子細胞遺伝学的研究およびこれら遺伝子の座位と関連した染色体異常およびリンパ系腫瘍の発生機構の解析に有用であると考えられ、また獣医臨床においては腫瘍の診断ならびに治療の対策に寄与すると思われる。

第二章ネコのG-band染色体標本に関する新しい命名法の提唱

 これまでネコの染色体に関しては、遺伝子マッピングに必要な詳細なバンドの命名法が確立されていなかった。そこで、染色体国際命名規約ISCN(International System of Human Cytogenetic Nomenclature)(1995)に従ってネコ常染色体18対と性染色体X、Yにlandmarkを入れ、新しい命名法を提唱した。ネコの末梢血単核細胞を分離し、より長い染色体標本を得るため高精度分染法(synchronyおよびelongation methods)による染色体標本を作成した。染色体標本をトリプシン処理し、ギムザ液で染色して良好な分散と分染像が現れるpro-metaphaseとmid-metaphaseを観察し、その模式図を作成した。一本の常染色体または性染色体に付き、約470本のバンドを有するpro-metaphaseと約270本のバンドを有するmid-metaphaseの模式図にlandmarkを入れ、それぞれのバンドにナンバーを付けた。また、蛍光物質を用いて染色体分析と遺伝子マッピングを行う場合、Q-bandによるネコ染色体の識別と領域の確定が要求されるため、キナクリンとHoechst33258を用いて、作成したmetaphaseのQ-band像にlandmarkを記した。これらネコのG-band染色体命名マップはネコの遺伝学および分子細胞遺伝学的研究に非常に有用であると思われる。

第三章FISH法を用いたIgH遺伝子およびTcR 遺伝子に関するネコ染色体上の座位の同定

 ネコの末梢血単核球DNAのgenomic libraryから、第一章で単離したネコのIgH C,IgH C,TcR Cの各遺伝子クローンをプローブに用い、それぞれのgenomicクローンを単離した。これらgenomicクローンをビオチン標識してプローブに用い、高精度分染法によって作成した末梢血単核細胞とネコのリンパ系腫瘍細胞株(FT-1)の染色体標本においてFISH解析を行い、特異的にハイブリダイズするシグナルを染色体上で検出した。その結果、IgH遺伝子プローブを用いた場合、ネコのB3染色体長腕部の末端に特異的なシグナルが観察された。またTcR C遺伝子の特異的なシグナルはネコのA2染色体の長腕に観察された。これらの結果を第二章で作成したネコの染色体命名マップにあてはめて解析したところ、IgH遺伝子はネコ染色体B3q26に、TcR C遺伝子はネコ染色体A2q12-13にマッピングされた。今回の研究によるネコのIgH遺伝子およびTcR C遺伝子の染色体上の座位決定は、ネコにおけるこれら遺伝子が関連した染色体転座およびリンパ腫・白血病発症の分子機構の解析に有用と思われる。

 本研究によって得られた一連の知見は、ネコの染色体を用いた広い分野における細胞遺伝学的研究にとって不可欠であるとともに、ネコのリンパ系腫瘍の分子機構解明のためにきわめて有用な手段を提供するものと考えられる。また、ネコにおけるこれら分子細胞遺伝学的研究の成果は、多様な動物種の進化を取り扱う比較細胞遺伝学に関する研究においても重要な貢献をするものと思われる。

審査要旨

 ネコではリンパ腫およびリンパ性白血病が高頻度に発生しているが、これらリンパ系腫瘍においては免疫グロブリン遺伝子またはT細胞レセプター遺伝子と関連した染色体異常が重要と考えられる。これらネコのリンパ腫および白血病において、分子細胞遺伝学的研究を発展させるためには、ネコの免疫グロブリンおよびT細胞レセプターの分子生物学的研究およびネコの染色体の詳細なバンド命名法に関する研究が必要である。そこで、本研究では、ネコの免疫グロブリン遺伝子およびT細胞レセプター遺伝子を中心とした分子細胞遺伝学的研究を行った。

 第一章では、ネコの免疫グロブリン遺伝子およびT細胞レセプター遺伝子のクローニングと染色体マッピングを行った。Lipopolysaccharide(LPS)で刺激したネコの末梢血単核球(PBMC)mRNAから作成したcDNAを鋳型とし、ヒトおよびマウスの免疫グロブリン遺伝子およびT細胞レセプター遺伝子の種間でよく保存されている領域の塩基配列をもとに作成したプライマーを用いてPolymerase chain reaction(PCR)を行い、ネコIgH,TcRC,TcRC,TcRCの塩基配列を決定した。これらおよびすでに報告されているネコIgLC,IgLC,TcRCの塩基配列をもとにネコの各遺伝子に特異的なプライマーを作成し、ネコとマウスまたはハムスターの雑種細胞パネル37株DNAを用いて染色体マッピングを行った。その結果、IgH、TcRC、TcRCはネコ染色体B3、TcRCとTcRCはネコ染色体A2,IgLCはネコ染色体A3、またIgLCはネコ染色体D3に存在することが明らかとなった。これらの結果はネコにおける免疫グロブリンおよびT細胞レセプター遺伝子の座位と関連した染色体異常の解析に有用であり、獣医臨床における腫瘍の診断ならびに治療の対策に寄与すると思われた。

 一方、これまでネコの染色体に関しては、遺伝子マッピングに必要な詳細なバンド命名法が報告されていなかった。そこで、第二章では、染色体国際命名規約(ISCN)にしたがってネコのG-band染色体標本に関する新しい命名法を提唱した。染色体標本をトリプシン処理し、ギムザ液で染色して良好な分散と分染像が現れるpro-metaphaseとmid-metaphaseを観察し、その模式図を作成した。ネコの染色体に関し、約470本のバンドが観察されるpro-metaphaseと約270本のバンドが観察されるmid-metaphaseの各模式図にlandmarkを入れ、それぞれのバンドを命名した。また、蛍光物質を用いて染色体分析と遺伝子マッピングを行う場合、Q-bandによるネコ染色体の識別と領域の確定が要求されるため、キナクリンとHoechst33285を用い、作成したmetaphaseのQ-band像にlandmarkを識した。これらネコの染色体命名マップはネコの遺伝学および分子細胞遺伝学に極めて有用であると思われた。

 第三章では、Fluorescence in situ hybridization(FISH)法を用い、IgH遺伝子およびTcR遺伝子のネコ染色体上の座位を同定した。ネコの末梢血単核球DNAのgenomic libraryから、第一章で単離したネコのIgHC,IgHC,TcRCの各遺伝子クローンをプローブとし、それぞれのgenomicクローンを単離した。これらgenomicクローンをビオチン標識したプローブを用い、高精度分染法によって作成した末梢血単核細胞とネコのリンパ系腫瘍細胞株(FT-1)の染色体標本についてFISH解析を行い、特異的にハイプリダイズする部位を染色体上で検出した。その結果、IgH遺伝子プローブではネコのB3染色体長腕部の末端に、またTcRC遺伝子プローブではA2染色体の長腕に特異的なシグナルが観察された。これらの結果を第二章で作成したネコの染色体命名マップにあてはめて解析したところ、IgH遺伝子はネコ染色体B 3q26に、TcRC遺伝子はネコ染色体A 2q12-13にマッピングされた。

 以上、本研究によってネコの免疫グロブリンおよびT細胞レセプター遺伝子に関する分子細胞遺伝学的所見が明らかになった。本研究はネコの染色体に関する分子細胞遺伝学的研究にとって不可欠な基盤を与え、ネコのリンパ系腫瘍の分子機構解明のためにきわめて有用な手段を提供するものであり、また、多様な動物種の進化を取り扱う比較細胞遺伝学にも貢献するものと考えられる。したがって本論文は学問的ならびに応用上高く評価されるもので、審査員一同は博士(獣医学)の学位論文として価値あるものと認めた。

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