ネコ免疫不全ウイルス(FIV)は、1987年にアメリカ合衆国において免疫不全様の症状を示すネコから初めて分離された。FIVはヒト免疫不全ウイルス(HIV)と同じくレトロウイルス科、レンチウイルス属に分類されている。FIVに感染したネコは数週間から数カ月にわたる急性期を経て、数年間の無症候性キャリアー(asymptomatic carrier,AC)期を過ごす。その後、免疫抑制によってさまざまな慢性感染症が認められるエイズ関連症候群(AIDS-associated complex,ARC)期の後、最終的には、末梢血中のCD4+ T細胞が減少し、体重減少、日和見感染症、腫瘍、脳神経疾患などの様々な臨床症状を呈するエイズ(AIDS)期に進行する。これまでの研究により、ヒトにおけるHIV感染症と同様、FIV感染症における病態発現には、ヘルパーT細胞の機能障害およびその減少が関与していることが明らかとなってきた。HIV感染症の病態解析において動物モデルは不可欠である。チンパンジーはHIVに感染するが、免疫不全症の発症には至らず、また他の霊長類のレンチウイルスもサル類に免疫不全症を発症することは稀である。一方、FIVはネコにHIV感染症と類似した免疫不全症を発症させることが知られており、サルと異なり扱いやすく、ネコにおけるFIV感染症はHIV感染症の動物モデルとして非常に有用であると考えられている。 これまでのHIVに対する抗ウイルス剤に関する研究には目を見張るものがあるが、副作用や薬剤耐性株の出現など多くの改良が必要であり、またその臨床応用においても有効性に限界があることが明らかとなっている。本論文では現在までの抗ウイルス剤に関する研究に加え、治療効果の増強および毒性の減少を考慮し、将来的に実用的な抗ウイルス剤の開発を目的として、FIV感染症に対する種々の治療剤のin vitroにおける効果に関し、特にウイルス産生とアポトーシスの抑制に着目して研究を行った。 HIV感染症の病理発生機構においては、ウイルス増殖による直接的な免疫系組織の障害よりも、感染に伴うサイトカイン産生の変化あるいは感染細胞の酸化的障害といった二次的な要素が重要であると考えられており、この酸化的障害によりリンパ球にアポトーシスが誘導されることが知られている。一方、HIV感染症と類似した病態を示すFIV感染症においても、その病態発現にアポトーシスが深く関わっていることが示されている。そこで第一章では、FIV感染細胞における酸化的障害の抑制法を開発するため、ネコの線維芽細胞株(CRFK)およびリンパ系細胞株(Fel-039)を用いたFIV感染系において、N-アセチルシステイン(NAC)およびアスコルビン酸(AA)といった抗酸化剤のアポトーシスとウイルス増殖に対する抑制効果について検討した。FIV感染CRFK細胞では腫瘍壊死因子(TNF-)の添加により、アポトーシスが誘導されるが、NACあるいはAAを添加した場合、TNF-によって誘導されるアポトーシスが著しく抑制されることが見い出された。また培養24時間後の培養上清中のウイルス量も、NACあるいはAAを添加した場合、それぞれ約50%減少していた。また酸化的障害の指標となる細胞内グルタチオン(GSH)量をこれら細胞において測定したところ、TNF-で処理したFIV感染CRFK細胞において減少していたGSH量は、NACあるいはAAの投与によって明らかに回復した。一方、Fel-039細胞にFIVを急性感染させ、同様の検討を行ったところ、NACあるいはAAのいずれを用いた場合にも、著明なアポトーシスの抑制とウイルス産生の抑制が観察された。また、細胞内のGSH量もNACあるいはAAの投与により著しく回復していた。これらin vitroにおける研究結果から、抗酸化剤の添加を行った場合、FIV感染によって減少した細胞内GSH量が回復し、免疫不全症の発現に関与するアポトーシスおよびウイルス増殖の抑制が認められることが明らかとなった。 サイクロスポリンA(CsA)は、HIVのウイルス粒子形成に必要な細胞内のサイクロフィリンA(CsPA)と結合することによって、HIVの増殖を抑制しているものと考えられている。CsAのHIV感染症に対する効果については議論されているが、第二章では、CsAおよびCsAと非常に類似した構造を持つタクロリムス(FK506)について、そのFIVの増殖とアポトーシスに対する効果を検討した。まずはじめに、CsAとFK506の細胞毒性を検討したところ、両薬剤は10g/ml以下の濃度においては今回の実験に用いたFel-039細胞およびCRFK細胞に対する毒性は示さなかった。そこで、FIVを急性感染させたFel-039細胞およびFIVに持続感染したCRFK細胞の培養液中にこれらCsAあるいはFK506を添加し、ウイルス増殖の変化を検討したところ、両細胞においてCsAあるいはFK506は濃度依存的にウイルス増殖を抑制した。次に、これらCsAあるいはFK506の細胞増殖に対する作用を検討したところ、いずれの薬剤もこれら細胞の増殖を抑制した。したがって、このCsAおよびFK506によるウイルス産生の抑制は、ウイルス蛋白とCsPAなどの細胞内蛋白との結合の阻害、細胞増殖の抑制、あるいはその両者の機構によるものと考えられた。また、FIV感染に伴うこれらの細胞におけるアポトーシスも、CsAおよびFK506の濃度依存的に抑制されていた。細胞にアポトーシスが誘導されると、細胞内カルシウムイオン濃度に変化が生じることが知られているが、今回の実験ではCsAあるいはFK506を投与し、アポトーシスが抑制された細胞においても、細胞内カルシウムイオン濃度は上昇していた。このことからCsAおよびFK506は細胞内カルシウム量の上昇以後の機構を抑制しているものと考えられた。FIV感染症の治療には、ウイルスの増殖および産生の抑制、リンパ球減少の原因と考えられるアポトーシスの抑制は非常に重要であると思われる。本章の結果は、CsAおよびFK506のこれらの点における有効性を示しており、CsAおよびFK506はFIV感染症の治療薬として有用であることが示唆された。 FIV感染症においては、免疫異常および病態発現に関与していると考えられるサイトカイン産生に変化が生じることが報告されている。レンチウイルス感染症におけるAC期からARC期およびAIDS期への病期進展の機構は未だ解明されていない。しかし、近年、Th1細胞およびTh2細胞のバランスの変化と病期進展との関連が報告され、Th1細胞優位の反応を示しているHIV感染患者は無症候状態を維持しているが、Th2細胞優位の反応を示している患者は病期が進展することが報告されている。Th1細胞およびTh2細胞の不均衡に伴う病期の進展は、HIV感染症と同様にFIV感染症においても存在することが予想される。そこで第三章では、Th1細胞系が関与する細胞性免疫の誘導に重要なIL-12、およびTh2細胞系が関与する液性免疫の誘導に重要なIL-10に関し、Tリンパ系細胞株(Fel-039)におけるFIVの増殖およびアポトーシスによる細胞死に対する効果について検討した。この細胞にFIVを急性感染させると、逆転写酵素活性値の急激な上昇、および感染細胞のアポトーシスが観察される。このFIV感染系にヒトリコンビナントIL-12を添加した場合、アポトーシスの抑制およびウイルス増殖の抑制が観察された。さらに、IL-12の添加によってIFN-の発現が増強されることが見い出された。一方、IL-10はウイルス増殖の抑制に対しては効果を示さず、細胞増殖を抑制していた。これらの結果から、IL-12を投与することにより、IFN-の発現が増強し、このIFN-がFIVの増殖を抑制しているものと考えられた。このようにFIV感染症においても、宿主の免疫反応が病期の進展に深く関わっていることが考えられ、本章の結果はFIV感染症に対するサイトカインを用いた免疫療法の開発に、有用な知見を提供するものと考えられた。 FIV感染症において、ウイルス増殖の抑制およびリンパ球のアポトーシスを抑制することは、病期の進行の抑制を含めた治療において極めて重要であると考えられる。今回の一連の研究は、NACやAAといった抗酸化剤、CsAやFK506といった免疫抑制剤、さらには細胞性免疫機構において中枢的役割を担っているサイトカインであるIL-12が、FIV感染におけるウイルス複製およびアポトーシスを抑制することを明らかにした。レンチウイルス感染において免疫不全症の発症を抑制する最善の方法は、逆転写酵素阻害剤の投与、免疫系の再構築、サイトカイン療法、遺伝子治療などの多岐にわたる幅広い治療法を有効に利用することであると思われる。本論文において得られた知見は、FIV感染症に対する治療法を開発するための基礎的研究として有用であると考えられ、さらにはヒトにおけるHIV感染症およびAIDSの治療法を開発するための動物モデルを提供するものと考えられる。 |