学位論文要旨



No 113592
著者(漢字) 岡元,智文
著者(英字)
著者(カナ) オカモト,トモフミ
標題(和) 犬の視覚誘発電位に関する研究
標題(洋)
報告番号 113592
報告番号 甲13592
学位授与日 1998.03.30
学位種別 課程博士
学位種類 博士(獣医学)
学位記番号 博農第1951号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 獣医学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 小野,憲一郎
 東京大学 教授 小川,博之
 東京大学 教授 菅野,茂
 東京大学 教授 土井,邦雄
 山口大学 教授 徳力,幹彦
内容要旨

 視覚誘発電位(Visual evoked potentials:VEPs)は視覚刺激により脳内に生じた電位変化を頭皮上から記録するものである.ヒトではフラッシュ刺激およびパターンリバーサル刺激による視覚誘発電位が視覚機能の評価法として用いられ,それぞれflash VEPおよびpattern reversal VEPと称されている.一方,犬の視覚誘発電位の報告はflash VEPに関するものが主体で,pattern reversal VEPについてはほとんど検討されていない.また,得られた波形成分と視覚伝導路あるいは視覚機能との関連については不明の点が多い.

 ヒトでは老齢人口の増加により老人あるいは痴呆症などにおける脳機能の変化に関する研究が進められ,視覚誘発電位は加齢性あるいは痴呆症における脳機能の変化を評価する手段として有用であると報告されている.犬では病理組織学的検査において加齢に伴っていわゆる老人斑の出現がみられるが,脳の機能的変化については評価法が確立されていないため十分検討されていない.

 そこで,本研究では犬における視覚誘発電位の標準的な記録法の確立と,脳機能の評価法として視覚誘発電位が有用であるか否かを明らかにする目的で,まず,健常犬における視覚誘発電位について,ついで視覚誘発電位の波形成分の解析,さらに視覚誘発電位の加齢性の変化について検討した.

1.健常犬の視覚誘発電位

 健常犬(ビーグル犬,1-2歳齢,雄8頭,雌10頭)を用いて暗順応下におけるflash VEPおよびpattern reversal VEPの視覚誘発電位を記録し,波形の特徴ならびに再現性について検討した.また,頭皮上に16個の電極を配してflashおよびpattern reversal刺激で得られた波形から脳電位図を作成し,それぞれの視覚誘発電位と比較検討した.

 Flash VEPおよびpattern reversal VEPの導出は暗順応後,記録電極,基準電極および接地電極をそれぞれ外後頭隆起,前頭部および頭頂部の頭皮の正中線上に配置し,片眼毎の刺激により行った.Flash VEPの光刺激はxenon放電管を用いて0.6Jの白色flash光を1Hzの頻度で与えた.一方,pattern reversal VEPの刺激にはテレビモニターを用い,格子模樣のpattern reversal刺激を1Hzの反転頻度で与えた.Flash VEPでは光刺激後,300msec以内に3つの陽性波(P1,P2,P3)と各陽性波の間に2つの陰性波(N1,N2)が全例で認められ,P1,N1,P2,N2およびP3の潜時の平均値±標準偏差はそれぞれ14.8±1.7,30.6±5.1,52.9±6.0,81.4±7.6および142.0±12.5msecであった.一方,pattern reversal VEPでは18例中11例において300msec以内に1つの陽性波(P1)とその前後に2つの陰性波(N1,N2)が認められたが,記録できない例も存在した.波形が記録された11例におけるN1,P1およびN2の潜時の平均値±標準偏差はそれぞれ37.0±5.7,66.8±6.0および112.0±17.7msecであった.潜時および振幅について各検査日内および検査日間の再現性を検討したところ,flash VEPがpattern reversal VEPに比較して再現性に優れていた.また,flash VEPの振幅は潜時に比較して日内および日間の変動が大きい傾向が認められた.

 一方,flash VEPについて脳電位図を作成したところ,刺激後100msecまでに前頭部(30msec前後)から反対側の前・側頭部(50msec前後)および後頭部(80msec前後)において陰性の電位変動が確認された.これらの電位変動の時間的推移をflash VEPと比較すると,P1は刺激側の前頭部に陽性の電位変動が認められる時間に,N1は刺激側の前頭部に,P2は刺激側と反対側の前頭部に,N2は後頭部に,P3は前頭部にそれぞれ陰性の電位変動が認められる時間に相当した.すなわち,flash VEPのN2までの波形変化が後頭部の視覚領に到達するまでの電位変化を反映していると考えられた.また,pattern reversal VEPではP1に相当する時間には前頭部に陰性の,後頭部に陽性の電位変動が認められ,ヒトで刺激後100msec後に認められるP100と類似した反応と推測された.しかしながら,pattern reversal VEPは再現性に乏しいことから犬ではflash VEPが臨床応用に適した視覚誘発電位であると考えられ,また,振幅は変動の大きいことからその評価には各波形の潜時を指標とすべきであると思われた.

2.視覚誘発電位の波形成分の解析

 Flash VEPの波形成分と視覚伝導路との関係を明らかにする目的で,健常犬(ビーグル犬,1-2歳齢,雄2頭,雌3頭)における網膜電位図(Electroretinogram:ERG)の記録を行った.また,右外側膝状体を高周波電流により破壊した伝導障害モデル(ビーグル犬,1-3歳齢,雄2頭,雌4頭)およびムスカリン受容体阻害剤であるscopolamine(ビーグル犬1-3歳齢,雄2頭,雌4頭)ならびにGABA受容体阻害剤であるbicuculline(ビーグル犬,1-3歳齢,雄3頭,雌2頭)を用いた薬物による視覚中枢の伝導障害モデルを作成し,flash VEPを記録した.

 健常犬のERGでは,光刺激後12msecにa波,29msecにb波が認められた.これらa波およびb波の潜時はflash VEPのP1およびN1の潜時と同等で,P1およびN1が網膜電位の成分と考えられた.右外側膝状体の破壊による伝導障害モデルでは,左眼刺激においてP2の潜時の延長,N2およびP3の波形成分の消失が認められた.一方,右眼刺激では破壊前と同様の波形が記録された.左眼刺激において脳電位図では破壊前に認められた右前頭部および後頭部における陰性の電位変動が破壊後には消失した.薬物による視覚中枢の伝導障害モデルではbicuculline投与によりP3潜時の軽度な延長(6.6msec)が認められたものの,その変化は軽度であった.また,scopolamine投与では各波形成分において明らかな変化は認められなかった.

 これらの結果から,flash VEPにおけるP1およびN1はERGに起因する変化で,また,P2以前の電位変化は外側膝状体破壊時の左眼刺激の脳電位図で反対側前頭部の電位変動が認められなくなることから,綱膜から視交叉を経て反対側の視索に至る電位変化を,P2およびそれ以後の波形は外側膝状体破壊時の左眼刺激で潜時の延長が認められることから,外側膝状体およびそれより後方の視覚伝導路における電位変化を反映していることが明らかとなった.また,bicuculline投与によりP3の潜時が延長することからP3には視覚野におけるGABA作動系の反応を含むものと考えられた.また,scopolamine投与で波形の変化は認められないことから,連合野のコリン作動系の関与はヒトと比較して小さいものと推察された.

3.加齢に伴う変化

 Flash VEPにより加齢に伴う脳機能の変化をヒトと同様に犬で検出可能であるか否かを1〜15歳齢のビーグル犬(雄25頭,雌28頭)を用いて検討した.まず,flash VEP波形の変化の有無を,さらに病理組織学的検査を実施し,脳の加齢変化とflash VEPの変化を比較検討した.Flash VEPではP2,N2およびP3の潜時は加齢に伴って有意に延長することが認められた.また同一個体で2,7および10歳齢時と3年後の5,10および13歳齢時の波形を各5例について比較したところ,7-10歳齢の犬では加齢に伴いN2潜時が延長する傾向が認められた.13歳齢の5例の脳電位図では1-2歳齢の犬と比較し,刺激側の反対側前頭部から後頭部にかけての電位変化に遅延あるいは減弱が認められた.形態学的変化をmagnetic resonance imaging(MRI)で観察したところ,T2強調画像において加齢に伴って黒質および淡蒼球の信号強度の低下が認められた.これらの部位は鉄染色で青染され,鉄沈着によるものと考えられた.また,側脳室の容積は加齢とともに有意に増大し,白質では軽度の高信号領域が16歳齢の2例で観察された.しかしながら,外側膝状体および後頭葉の大脳皮質には明らかな加齢変化は観察されなかった.13歳齢の3例について病理組織学的検査を実施し,1-2歳齢のそれと比較検討した.Glial fibrillary acidic protein(GFAP)の免疫染色とNissle染色の二重染色では外側膝状体および後頭葉の大脳皮質において神経細胞数の変化は明確でなかったが,GFAPに対する染色性の強い星状膠細胞の増加が認められた.PAS染色では外側膝状体および後頭葉の大脳皮質神経細胞にリポフスチンの沈着が認められた.これら視覚伝導路に認められた組織学的変化はflash VEPで認められた加齢に伴うP2,N2およびP3潜時の延長に関連した変化と推測された.したがって,flash VEPはヒトと同様に加齢に伴った視覚伝導路の変化をとらえることが可能であり,臨床応用あるいは毒性評価に応用できると考えられた.

 以上の結果から,犬の標準的な視覚誘発電位として暗順応下で白色光により記録されるflash VEPの各波形はP1およびN1が網膜における電位変化を,P2,N2およびP3が外側膝状体ならびにそれより後方の視覚伝導路における電位変化を表しており,視覚伝導路を評価することが可能で,脳機能の評価法の1つとして有用であることが明らかとなった.

審査要旨

 視覚誘発電位(Visual evoked potentials:VEPs)は視覚刺激により脳内に生じた電位変化を頭皮上から記録するもので、ヒトではフラッシュ刺激およびパターンリバーサル刺激による視覚誘発電位(flash VEPおよびpattern reversal VEP)が視覚機能の評価法として用いられている。一方、犬の視覚誘発電位の報告はflash VEPに関するものが主体で、波形成分と視覚伝導路あるいは視覚機能との関連については不明の点が多い。また、ヒトではVEPsは加齢性あるいは痴呆症における脳機能の変化を評価する手段として有用であると報告されているが、犬では十分検討されていない。本論文は、健常犬における視覚誘発電位とその波形成分を解析し、さらに、加齢性の変化について検討し、脳機能の評価法として視覚誘発電位の有用性を明らかにしたもので、序・総括を含む5章から構成されている。

 第2章では、健常犬を用いて暗順応下におけるflash VEPおよびpattern reversal VEPの波形の特徴、再現性ならびに脳電位図による解析を行った。

 Flash VEPでは光刺激後、300msec以内に3つの陽性波(P1、P2、P3)と各陽性波の間に2つの陰性波(N1、N2)が全例で認められ、P1、N1、P2、N2、およびP3の潜時の平均値±標準偏差はそれぞれ14.8±1.7、30.6±5.1、52.9±6.0、81.4±7.6、および142.0±12.5msecであった。一方、では300msec以内に1つの陽性波(P1)とその前後に2つの陰性波(N1、N2)が認められたが、記録できない例も存在した。N1、P1およびN2の潜時の平均値±標準偏差はそれぞれ37.0±5.7、66.8±6.0、および112.0±17.7msecであった。再現性は、flash VEPがpattern reversal VEPに比較して再現性に優れていた。また、flash VEPの振幅は潜時に比較して日内および日間の変動が大きい傾向が認められた。一方、flash VEPについて脳電位図を作成したところ、刺激後100msecまでに前頭部から反対側の前・側頭部および後頭部において陰性の電位変動が確認された。これらの電位変動の時間的推移をflash VEPと比較すると、P1は刺激側の前頭部に陽性の電位変動が認められる時間に、N1は刺激側の前頭部に、P2は刺激側と反対側の前頭部ならびに側頭部に、N2は後頭部に、P3は前頭部にそれぞれ陰性の電位変動が認められる時間に相当した。すなわち、flash VEPのN2までの波形変化が視覚野に到達するまでの電位変化を反映していると考えられた。また、pattern reversal VEPではP1に相当する時間には前頭部に陰性の、後頭部に陽性の電位変動が認められ、ヒトで刺激後100msec後に認められるP100と類似した反応と推測された。しかしながら、再現性から犬ではflash VEPが臨床応用に適した視覚誘発電位であると考えられ、また、振幅は変動の大きいことからその評価には各波形の潜時を指標とすべきであると思われた。

 第3章では、flash VEPの波形成分と視覚伝導路との関係を明らかにする目的で、健常犬における網膜電位図(Electroretinogram:ERG)の記録、右外側膝状体の熱破壊および視覚中枢の薬物による伝導障害モデルを作成し、flash VEPを記録した。

 健常犬のERGにおけるa波およびb波の潜時はflash VEPのP1およびN1の潜時と同等で、P1およびN1が網膜電位の成分と考えられた。右外側膝状体の破壊では、左眼刺激においてP2の潜時の延長、N2およびP3の波形成分の消失が認められた。一方、右眼刺激では破壊前と同様の波形が記録された。左眼刺激において脳電位図では破壊前に認められた右前頭部および後頭部における陰性の電位変動が破壊後には消失した。Bicuculline投与によりP3潜時の延長が認められたものの、その変化は軽度であった。また、scopolamine投与では各波形成分において明らかな変化は認められなかった。これらの結果から、flash VEPにおけるP1およびN1はERGに起因する変化で、また、P2以前の電位変化は、網膜から視交叉を経て反対側の視索に至る電位変化を、P2およびそれ以後の波形は、外側膝状体およびそれより後方の視覚伝導路における電位変化を反映していることが明らかとなった。

 第4章では老齢犬を用いてflash VEP波形の変化を、magnetic resonance imaging(MRI)および病理組織学的検査と比較検討した。

 Flash VEPではP2、N2およびP3の潜時は加齢に伴って有意に延長することが認められた。13歳齢の脳電位図では刺激側の反対側前頭部から後頭部にかけての電位変化に遅延あるいは減弱が認められた。MRIでは、T2強調MR画像において加齢に伴って黒質および淡蒼球の信号強度の低下が認められた。これらの部位は鉄染色で青染され、鉄沈着によるものと考えられた。また、側脳室の容積は加齢とともに有意に増大し、白質では軽度の高信号領域が16歳齢で観察された。13歳齢の病理組織学的検査では外側膝状体および後頭葉の大脳皮質において神経細胞数の変化は明確でなかったが、glial fibrillary acidic protein(GFAP)に対する染色性の強い星状膠細胞の増加が認められた。また、外側膝状体および後頭葉の大脳皮質神経細胞にリポフスチンの沈着が認められた。これら視覚伝導路に認められた組織学的変化はflash VEPで認められた加齢に伴うP2、N2、およびP3潜時の延長に関連した変化と推測された。したがって、flash VEPはヒトと同様に加齢に伴った視覚伝導路の変化をとらえることが可能であり、臨床応用あるいは毒性評価に応用できると考えられた。

 以上のように、本論文は犬の標準的な視覚誘発電位として暗順応下で白色光により記録されるflash VEPの各波形はP1およびN1が網膜における電位変化を、P2、N2、およびP3が外側膝状体ならびにそれより後方の視覚伝導路における電位変化を表していること、また、視覚伝導路を評価することが可能で脳機能の評価法の1つとして有用であることを明らかとしたもので、獣医学の学術上貢献するところが少なくない。よって、審査員一同は、本論文が博士(獣医学)の学位論文として価値あるものと認めた。

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