近年の分子生物学の急速な発展により、疾病の原因を究明する病理学においても、組織標本を用いた組織・細胞の形態的研究と並び、病態を分子レベルで解明しようとする分子病理学的研究がさかんに行われるようになり、各種癌遺伝子、癌抑制遺伝子の発見等、様々な報告がなされてきた。チロシンキナーゼの発見もその一つで、細胞膜から核へと伝達される増殖シグナルの解明が進んできた。癌遺伝子の産物で、現在悪性腫瘍において過剰発現・異常発現が知られている増殖因子受容体の多くはチロシンキナーゼである。なかでも、上皮細胞増殖因子受容体は、脳の神経膠芽腫をはじめとして、多くの悪性腫瘍での過剰発現・異常発現が知られるチロシンキナーゼとして代表的なものの一つである。現在ではチロシンキナーゼは細胞の癌化や増殖にとどまらず、免疫応答、細胞の分化、細胞接着、および細胞死にまでも関与することがわかってきている。 さらに、細胞膜のチロシンキナーゼから核へとその信号が伝わるまでを仲介するアダプター分子の存在が明らかにされた。アダプター分子は自身には酵素活性を持たず、多分子同士の結合を仲介し複数分子の複合体形成に寄与することで、多岐にわたるシグナルの配信に貢献する。アダプター分子として知られている分子にはGrb2、Nck、Crkなどがあるが、このなかでもCrkは、チロシンキナーゼにより自身にリン酸化をうけるのが特徴であり、このリン酸化によりCrkが非活性化型に転じるという説が提唱されているが、現時点ではその意義は完全に明らかにされていない。 本論文においては、脳腫瘍において遺伝子増幅や蛋白の過剰発現が認められる上皮細胞増殖因子受容体の癌化に及ぼす役割を評価するために、上皮細胞増殖因子受容体の機能や、アダプター分子Crkの情報伝達系に着目しつつ解析を行った。その際、前半部では上皮細胞増殖因子体活性化に伴うアダプター因子Crkのチロシンリン酸化および他分子との複合体形成の詳細を、これまでわれわれ及び他のグループで用いられてきたNIH3T3細胞を中心に用いた実験系にて解析し、後半部では神経膠芽腫細胞株における上皮細胞増殖因子受容体からの情報伝達におけるCrkの役割を、前半部および他のヒト悪性腫瘍細胞株における結果との対比にて浮き彫りにしようと試みた。その結果は以下の通りである。 1.NIH3T3細胞を中心に用いた実験系における上皮細胞増殖因子受容体によるアダプター分子CrkIIのリン酸化について: アダプター分子CrkIIは上皮細胞増殖因子刺激によりチロシンリン酸化されることが知られているが、Crkのどの部位にリン酸化されるか、また、その意義はなんであるかは不明である。この問題を解決するために、まず、CrkIIのAb1チロシンキナーゼによるリン酸化部位として知られているリン酸化チロシン221を特異的に認識する抗リン酸化CrkII抗体を作成し、その特異性を確認した。 次に、この抗リン酸化CrkII抗体を用いて、上皮細胞増殖因子刺激により、CrkIIのチロシン221がリン酸化されることをCrkIIを発現するマウス3T3細胞を用いて示した。また、チロシン221のフェニルアラニン変異体を作成し、これを293T細胞に発現して上皮細胞増殖因子刺激を加えることにより、この上皮細胞増殖因子依存性チロシンリン酸化が確かにチロシン221に起きることを確認した。 3番目に、上皮細胞増殖因子依存性のCrkIIのチロシンリン酸化に必要なCrkIIのドメインを変異体を用いて決定した。上皮細胞増殖因子依存性のCrkIIチロシンリン酸化にCrkIIのSH2は必須であるが、SH3ドメインは不要であった。これはAb1によるCrkIIのチロシンリン酸化がむしろSH3ドメイン依存性であるのとは対照的であった。また、上皮細胞増殖因子受容体が直接CrkIIをチロシンリン酸化することを、試験管内で証明した。また、Ab1欠損マウス細胞を用いて、上皮細胞増殖因子依存性CrkIIチロシンリン酸化にAb1が必要でないことを証明した。 4番目に、チロシン221のフェニルアラニン変異体を用いて、上皮細胞増殖因子依存性のCrkIIとCb1との結合が、チロシンリン酸化により負に制御されることを見出した。 以上の結果から、上皮細胞増殖因子によりその受容体である上皮細胞増殖因子受容体が活性化され、ShcあるいはCb1などの分子がチロシンリン酸化を受けると、このチロシンリン酸化部位に結合したCrkIIは上皮細胞増殖因子受容体よりリン酸化され、このリン酸化は、CrkIIとCb1の解離を促し、シグナルのネガティブフィードバックを形成するとも考えられた。 2.神経膠芽腫細胞株におけるCrk情報伝達系の異常 まず、神経膠芽腫細胞株における上皮細胞増殖因子受容体とCrkIIの発現を解析した。上皮細胞増殖因子受容体は調べたすべての神経膠芽腫細胞株において高発現し、すべて正常に機能していると考えられた。CrkIIもまた、解析したすべての神経膠芽腫細胞株において発現していたが、他の細胞株とほぼ同程度の発現量であった。 次に、上皮細胞増殖因子刺激依存性にCrkIIのチロシン221が全例にてリン酸化されることを、抗リン酸化CrkII抗体を用いて証明した。 3番目に、神経膠芽腫細胞株におけるCrkIIと上皮細胞増殖因子受容体との結合を解析した。U87MGをはじめとする3つの細胞株において、CrkIIと上皮細胞増殖因子受容体とが刺激前に結合しており、刺激後に解離することを見出した。どの細胞株を用いてもCrkIIが刺激依存性に上皮細胞増殖因子受容体と結合するという現象は見出されなかった。扁平上皮癌由来の細胞株であるA431やヒト上皮細胞増殖因子受容体を発現するNIH3T3細胞においては、上皮細胞増殖因子依存性のCrkIIと上皮細胞増殖因子受容体との結合が観察されたので、神経膠芽腫における上皮細胞増殖因子受容体からCrkIIへの情報伝達は他の細胞とは異なることが確認できた。 4番目に、上皮細胞増殖因子受容体からCrkII以外のチロシンリン酸化される蛋白への情報伝達を解析し、神経膠芽腫においては上皮細胞増殖因子受容体からShc、Gb1への信号伝達は保たれていることが明らかにされた。一方、v-Crkに結合する主たる蛋白として知られるCasやPaxillinは上皮細胞増殖因子刺激により影響を受けないことがわかった。 NRK細胞の変異体を用いた実験より、CrkIIと上皮細胞増殖因子受容体の刺激前からの会合が上皮細胞増殖因子受容体からの癌化シグナルを抑制することが最近発表された。本研究で見出された上皮細胞増殖因子依存性のCrkIIの上皮細胞増殖因子受容体からの解離は、CrkIIが解離することが上皮細胞増殖因子受容体からの癌化シグナルに重要であることをさらに示している。 本研究により、神経膠芽腫において、その遺伝子増幅や蛋白の過剰発現が知られている上皮細胞増殖因子受容体が、正常細胞や他の悪性腫瘍とは異なる信号の伝達を行っている可能性が示唆された。この結果をもとに、現在の脳神経外科領域での最大の難治性腫瘍である神経膠芽腫の新たな治療法への応用法を検討している。 |