学位論文要旨



No 113615
著者(漢字) 庾,海燕
著者(英字)
著者(カナ) ユ,ハイヤン
標題(和) 血小板由来細胞増殖因子によるホスホリパーゼC1の783位のチロシンリン酸化は細胞骨格の再構築を調節する
標題(洋) Phosphorylation of phospholipase C1 on tyrosine 783 by platelate-derived growth factor regulates re-organization of the cytoskeleton
報告番号 113615
報告番号 甲13615
学位授与日 1998.03.30
学位種別 課程博士
学位種類 博士(医学)
学位記番号 博医第1276号
研究科 医学系研究科
専攻 病因・病理学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 澁谷,正史
 東京大学 教授 芳賀,達也
 東京大学 助教授 仙波,憲太郎
 東京大学 助教授 中村,義一
 東京大学 助教授 井上,純一郎
内容要旨

 ホルモン、神経伝達物質、細胞増殖因子などの各種細胞外刺激によりイノシトールリン脂質代謝が亢進することは良く知られている。レセプターが刺激を受けると活性化されたホスホリパーゼC(PLC)は生理的な基質であるホスファチジルイノシトール4、5二リン酸(PIP2)を分解し、セカンドメッセンジャーであるイノシトール1、4、5-三リン酸(IP3)とジアシルグリセロール(DG)を産生する。IP3は細胞内Ca2+を貯蔵部位から動員し、Ca2+依存的なキナーゼを活性化することにより、またDGはプロテインキナーゼC(PKC)を活性化することにより、種々の生理作用を発揮することが明らかにされている。現在までに、PLCはそれらの一次構造によって、,,の三種類に分類されているが、その中でPLCは2種類のアイソフォームPLC1とPLC2の存在が明かになっている。血小板由来因子(PDGF)の刺激により、PDGF受容体は自己リン酸化され、そのチロシンリン酸化部位にPLC1がSH2領域を介して結合すると、PLC1の第771、783、1254番目のチロシンがリン酸化されて、活性化される。in vivoでのPLC1変異体の解析では、Tyr-783のチロシンをフェニルアラニン残基に置換すると、PDGF刺激後のPLC1の活性化が完全に阻害されることが判明している。又、Tyr-1254のチロシンを置換した時には、PLC1の活性化は部分的に阻害されるのに対して、Tyr-771のチロシンをフェニルアラニン残基に置換すると、PLC1の活性は逆に促進される。この様に、in vivoでは、受容体を介したPLC1のリン酸化がPLC1の活性化を調節しているにもかかわらず、in vitroでは、PLC1のTyr-783の変異体の活性は全く変わらない。こうした細胞内におけるPLC1チロシンリン酸化はPDGF等の増殖因子刺激時のシグナル伝達に重要であるとの報告は多く出されているが、どの様な機能に関与しているのか、又それがどの様な伝達経路を介しているかについてはほとんど分かっていない。そこで、私は第783位のチロシンでリン酸化されたPLC1を認識する抗体(抗PLC1PY抗体)を作成して、それを用いて細胞増殖時の形態変化や増殖に、PLC1のリン酸化がどの様な役割を持っているのかを検討した。

方法と結果

 抗PLC1PY抗体の作成、精製及び特異性の検討。約150gの合成したリン酸化ペプチドGFpYVEANPMPTFK(PLC1の781番から793番までの残基)をキャリア蛋白質ヘモシアニン(KLH)に結合後、うさぎに2週間おきに3ヶ月免疫した。抗血清の50%硫安画分をリン酸化ペプチドアフェニテイーカラムにかけることにより、抗体を精製した。次に、抗体がTyr-783のリン酸化したもののみを認識するか、その特異性を、PDGFであらかじめ処理又は未処理のBalb/c3T3細胞から調整した抽出液を用いて、検討した。イムノブロッテイング及び免疫沈降実験の結果から確かにこの抗PLC1PY抗体はリン酸化されたPLC1のみを認識することが確認された。

 次に、PLC1の第783位のチロシンリン酸化がどの様なの生理機能持っているかを明らかにするために、増殖因子刺激後のリン酸化したPLC1の局在をこの抗体を用いて検討した。Balb/c3T3細胞をPDGF刺激後細胞骨格画分及び細胞可溶化画分に分画し、PLC1と783位のチロシンでリン酸化されたPLC1の局在変化をイムノブロット及び細胞染色により検討した。イムノブロットの結果から、PDGF刺激前には、PLC1は細胞骨格と可溶化画分の両方に存在するが、PDGF刺激した後30分で可溶化画分に存在する多くのPLC1が細胞骨格画分へトランスロケーションし、90分後には、PLC1は刺激する前の状態に戻ることが判明した。抗PLC1PY抗体を用いてこの時のリン酸化状態を検討したところ、PDGF刺激30分での細胞骨格画分に局在するPLC1の783位のチロシンの著しいリン酸化がみられ、90分経つと、リン酸化されたPLC1がかなり減っていることが観察された。この結果より、PLC1の783位のチロシンリン酸化がPLC1の細胞骨格へのトランスロケーションと相関していることが示唆された。一方細胞を抗PLC1抗体とrhodamine phalloidinで二重染色したところ、PDGF刺激時には、PLC1の783位がチロシンリン酸化を受けると共に、リン酸化したPLC1は細胞骨格画分と細胞膜のラッフリング部位に存在する様になるのが観察された。細胞を抗PLC1抗体と抗PLC1PY抗体で二重染色した結果からは、PDGFの刺激によって783位がチロシンリン酸化されたPLC1は細胞骨格に多く局在していることが明らかになった。このことから、PLC1の783位のチロシンリン酸化とPLC1の細胞骨格へのトランスロケーションが相関することが判明した。

 さらに、PLC1783位のチロシンリン酸化の生理的な作用を調べるために、抗PLC1PY抗体を細胞内に微量注入して、細胞形態変化が起こるかどうかを検討した。PDGF刺激した後、正常細胞では、アクチン線維の切断と細胞膜ラッフリングが見られるが、抗PLC1PY抗体を微量注入した場合は、PDGF刺激によるアクチン線維と細胞膜の変化は完全に阻害された。

 PLC1は自身のSH2領域を介して、PDGFレセプターの自己リン酸化部位に結合し、PLC1の783位のチロシンがリン酸化される。従って、PLC1のSH2領域を細胞内に注入すると、PLC1とPDGFレセプターの相互作用が阻害されて、下流へのシグナール伝達が抑えられると予想される。そこでPLC1-SH2領域を細胞内に微量注入したところ、抗PLC1PY抗体の微量注入と同じように、PDGFによるアクチン線維の切断と細胞膜ラッフリングを阻害した。この結果から、PLC1の783位のチロシンリン酸化は細胞骨格の再構築を調節していることが明らかになった。

 次に、PLC1の783位のチロシンリン酸化が細胞骨格再編にどの様に働くのかを調べるため細胞内にチロシン783リン酸化ペプチドを微量注入し、細胞形態、細胞骨格系への影響を見た。すると、予想に反して、PDGF刺激と同じように、細胞内アクチン線維の切断と細胞膜ラッフリングが誘導された。更に、リン酸化ペプチドは細胞骨格と細胞膜ラッフリングに局在していることも判明した。この時、リン酸化していないPLC1の分布には変化認められなかった。

 最後に、細胞増殖においてもPLC1のリン酸化が重要であることが示唆されているので、このチロシンリン酸化の影響を検討した。抗PLC1PY抗体を微量注入すると、PDGFによるDNAの合成がほぼ完全に抑制された。この結果から、PLC1は増殖因子PDGFの下流に存在し、PLC1の783位のチロシンリン酸化はDNAの合成にも重要であることが判明した。

考察

 受容体型チロシンキナーゼは増殖因子の刺激によって自己リン酸化される。PLC1はSH2領域を介して、受容体の自己リン酸化部位を認識して結合し、PLC1が活性化される。PLC1が受容体のチロシンリン酸化部位に結合し、PLC1の783のチロシンリン酸化が生じることがPLC1のin vivoでの活性に必要であるが、in vitroではPLC1のリン酸化はPLC1の活性に全く影響しないことが報告されている。即ち、in vivoで、リン酸化されたPLC1はなんらかの蛋白質を介して、PLC1の生理機能を調節していると考えらる。リン酸化されたPLC1のin vivoでの機能を調べるため、まず抗PLC1PY抗体を用いた細胞染色により、その局在を検討したところ、PDGF刺激後、PLC1は主に細胞核周辺に存在するのに対して、783位チロシンでリン酸化されたPLC1はアクチン線維と細胞膜ラッフリング部位に局在することが明らかになった。同時に、イムノブロットより、783位チロシンでリン酸化されたPLC1は主に細胞骨格に存在することも分った。従って、783位チロシンのリン酸化はPLC1の細胞骨格へのトランスロケーションを起こし、細胞骨格の再構築を調節していると思われる。

 又、リン酸化された783位チロシンを含むリン酸化ペプチドを細胞内への注入はPLC1の下流シグナルを遮断することが予想されたが、実際にはPDGF刺激と同じように、アクチン線維の脱重合を引き起こすことが判明した。このことは、PLC1783位のチロシンリン酸化部位が下流分子例えばSH2領域を含む分子への結合部位として働くことで、細胞骨格へのシグナル伝達に重要な役割を果たしている可能性を示唆している。一方、PDGFで引き起こされる細胞骨格の再構築とDNA合成が抗PLC1PY抗体の微量注入によって抑制されることも明らかになった。このことは、リン酸化された783位チロシンと下流蛋白質との結合が抗PLC1PY抗体に阻害されて、PLC1の酵素活性が抑制された結果、細胞骨格とDNA合成両方へのシグナルがブロックされたと考えられる。Goldsmidt-Clermontらにより、in vitroでは、PLC1はチロシンリン酸化によりプロフィリンなどのアクチン調節蛋白質と結合しているPIP2の分解を制御していることが報告されている。又、PDGFで刺激すると、-アクチニン、ビンキュリンに結合したPIP2が減少することも判明している。PLC1783位のチロシンのリン酸化がPLC1の細胞骨格へのトランスロケーションに関与し、アクチン線維の脱重合を引き起こすという実験結果は、in vivoにおいてもPLC1のチロシンリン酸化が細胞骨格の構築に重要であること示している。細胞増殖因子刺激時にPLC1783位のチロシンのリン酸化により未知の下流蛋白質と結合し、この蛋白質を介して直接細胞骨格の調節が行われているのか、未知の蛋白質と結合することでPLC1の活性化を生じ、プロフィリン、-アクチニン等に結合したPIP2を加水分解できるようになるのか、そうした細胞骨格へ至るシグナル伝達経路については現在解析中である。

審査要旨

 本研究は細胞内イノシトールリン脂質代謝で主役を演じるイノシトールリン脂質特異的ホスホリパーゼC(PLC)のアイソザイムの1つPLC1の機能を明らかにすることを目的として行われたものである。著者は第783位のチロシンでリン酸化されたPLC1を認識する抗体(抗PLC1PY抗体)を作成し、それを用いて、細胞増殖時の形態変化やDNA合成に、PLC1の783位のチロシンリン酸化がどの様に関与するかを解析し、以下の結果を得ている。

 1、細胞を抗PLC1PY抗体とrhodamine phalloidinで二重染色したところ、PDGF刺激時には、PLC1の783位がチロシンリン酸化を受けると共に、リン酸化したPLC1は細胞骨格画分と細胞膜のラッフリング部位に局在する様になるのが観察された。細胞を抗PLC1抗体と抗PLC1PY抗体で二重染色した結果からは、PDGFの刺激によって第783位がチロシンリン酸化されたPLC1は細胞骨格に多く局在していることが明らかになった。このことから、PLC1の783位のチロシンリン酸化とPLC1の細胞骨格へのトランスロケーションが相関することが判明した。イムノブロットの結果からは、PDGF刺激前には、PLC1は細胞骨格と可溶化画分の両方に存在するが、PDGF刺激した後30分には可溶化画分に存在する多くのPLC1が細胞骨格画分へトランスロケーションし、90分後には、PLC1は刺激する前の状態に戻ること、又、PDGF刺激30分での細胞骨格画分に局在するPLC1の783位のチロシンの著しいリン酸化がみられ、90分経つと、リン酸化されたPLC1がかなり減っていることが観察された。これらの結果より、PLC1の783位のチロシンリン酸化がPLC1の細胞骨格へのトランスロケーションと相関していることが強く示唆された。

 2、PDGF刺激した後、正常細胞では、アクチン線維の切断と細胞膜ラッフリングが見られるが、抗PLC1PY抗体を微量注入した場合は、PDGF刺激によるアクチン線維と細胞膜の変化は完全に阻害された。PLC1のSH2領域はPLC1へのシグナルに対しdominant negativeに働き、PLC1のSH2領域を細胞内に注入すると、抗PLC1PY抗体の微量注入と同じように、PDGFによるアクチン線維の切断と細胞膜ラッフリングを阻害した。これらの結果から、PLC1の783位のチロシンリン酸化は細胞骨格の再構築を調節していることが明らかになった。

 3、細胞内にチロシン783リン酸化ペプチドを細胞内に微量注入し、細胞形態、細胞骨格系への影響を調べたところ、予想に反して、PDGF刺激と同じように、細胞内アクチン線維の切断と細胞膜ラッフリングが誘導された。更に、リン酸化ペプチドは細胞骨格と細胞膜ラッフリング部位に局在していることも判明した。これらの結果から、PLC1の783位のチロシンリン酸化が細胞骨格の再構築に重要な役割を担っていることが示された。

 4、抗PLC1PY抗体を細胞内に微量注入したところ、PDGFによるDNAの合成がほぼ完全に抑制された、すなわち、PLC1は増殖因子PDGFの下流に存在し、PLC1の783位のチロシンリン酸化はDNAの合成にも重要であることが判明した。

 以上、本論文は、PDGF刺激後、PLC1の783位のチロシンリン酸化され、リン酸化されたPLC1は細胞骨格と細胞膜ラフリング部位に局在すること、PDGFによるアクチン繊維の切断と細胞膜ラフリングは抗PLC1リン酸化抗体の微量注入よりブロックされ、DNA合成も抑制されること、783位のチロシンリン酸化含むPLC1ペプチドの微量注入はPDGF刺激と同じようにアクチン繊維の切断と細胞膜ラッフリングを引き起こすことを明らかにしている。本研究は、PDGFによるPLC1の783位のチロシンリン酸化は細胞増殖のみならず細胞骨格の再構築に関与していることを解明していく上で、重要な貢献をなすと考えられ、学位の授与に値するものと考えられる。

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