I緒論 音声によって伝達される情報は、言語の記号学的な情報だけでなく、発話者の特徴や、発話に伴う感情、音声としての自然さや芸術性まで、多様な側面がある。人間の発声した声に含まれる情報は、言語情報と言語外の情報とに分けることができる。これまでの音声の研究では、話しことばを中心として主に言語情報に関連したものが多く、言語外の情報の研究はあまりなされていない。言語外の情報には個人の声の特性や、情緒・美的感情などの感性情報が含まれる。 人間の情緒や美的感情の伝達の表現法の一つに歌唱がある。歌唱法について従来報告されているのは、実践面からの主観的な記述や表出された歌声の知覚に関する物理的特徴を記述したものが多く、生理学的研究は少ない。本研究は、主観的に記述されてきた歌唱における発声法や、発声者の感情や情緒の変化に伴う音声表出の違いを生理音響学的に解明しようとするものである。 II目的 本研究は、意味内容としての言語情報を除いた"声"だけで、歌手の感情がどのように聞き手に伝わるのか、またその歌声の感情表現に関連する音響・生理学的パラメータを検討し、従来主観的に記述されてきた歌唱における発声法や、発声者の感情や情緒の変化に伴う音声表出の違いを生理音響学的に解明しようとするものである。いかに歌声に感情表現を与えるか、というテーマは歌唱指導、声楽教育のためにも有効であると考える。 III方法 本研究に用いられた手法は、主観的に歌手が意図した感情表現が、歌声を使って聞き手にどのように伝わっているのかを検討するための聴覚心理的評価と、それに対応する生理音響パラメータの分析に大きく分けられる。本研究では持続母音発声/a:/のみで10名の歌手に4種類の感情(Happiness,Anger,Sadness,Fear)の表現を意図して歌ってもらった。歌唱課題は音の高さを一定にした同一の母音/a:/の持続音声と無意味な旋律(長調・短調)を歌わせることである。同時に声帯振動の状態を示す指標として電気声門図(electroglottogram:EGG)を記録した。EGGは喉頭の左右皮膚上に電極をはり、微弱な高周波電圧を負荷し、声帯振動に伴うインピーダンス変化を測定するものである。これは声門の開閉の状態を示す指標になると考えられている。音声をそれぞれランダムな順にDATテープに編集し、聴取テープとした。聴取者(音楽専攻生、音声専門医:計25名)は、3種類のテープ(長調・短調・持続母音)の中の音声サンプル一つ一つを、4つの感情項目について7段階評定(7:非常に〜1:全然)を行った。なお、テープごとに日を変えて聴取させた。 評定された各音声サンプルより、音響分析によって歌声の感情表現に関連する音響現象として考えられる音色(フォルマント周波数、長期平均パワー・スペクトル:LTAS)とビブラートを検討した。音色に関しては、視察によってビブラートの安定している定常部分の1秒を決定し、音色の検討の資料とした。ビブラートについてその周期と基本周波数のゆらぎの幅を検討した。ビブラートの周期は1周期ごとの時間を測定し平均1周期の時間を求めた。 また、声帯振動様式をEGGを用いて解析した。EGG波形において1周期分のうち、EGGの微分波形の極大値から極小値までの区間を"A"、極小値から次の極大値までの長さを"B"とし、EGGOQ(%)を100B/(A+B)と定義した(今泉,1993)。区間Aの始まりの急峻な立ち上がりが声門閉鎖期にほぼ対応すること、区間Aの終わりの急峻な立ち下がりが声門開大期にほぼ対応すること、声帯振動1周期内で声門が閉鎖している区間が短くなるとAが短くなる傾向があること、などからこのパラメータEGGOQ(%)は声門開放時間率(%)に対応すると考えられる。また、声帯振動各周期内でのpeak-to-peak値を検出しEGGHとした。左右両声帯の接触面積が増大するとEGGの振幅は増大することから、EGGHは両側声帯の接触の度合を表すと考えられる。 IV結果及び考察 歌手10名による持続母音発声サンプルの全聴取者の評定平均点は、Happinessを意図した感情表現ではHappinessの感情項目では3.9、Angerの感情項目では2.6、Sadnessの感情項目では3.6、Fearの感情項目では2.9であった。以下同様に、Angerでは(Happiness,Anger,Sadness,Fear:3.3,5.0,2.8,2.7),Sadnessでは(2.0,2.1,5.6,4.1),Fearでは(1.9,2.6,5.2,4.9)だった。つまり、聴取評価の結果、歌手が表現しようと意図した感情項目は、他の感情項目より有意に高い評定得点を得ていた。なお、Fearの感情表現はSadenssと聞き取られる傾向があった。これらの結果から、歌声の感情表現は確かに聞き手に伝わるが、伝わりやすい感情と伝わりにくい感情があること、またFearとSadnessの表現が歌声で混同されやすいのは、これらの感情が心理的に近い位置にある可能性があることが示唆された。この傾向は長調・短調においても同様にみられた。聴取者間での評価の傾向におおむね違いはなかった。以上より、聴取者は歌手の意図した感情表現を持続母音でも検出できることが明らかになった。 フォルマント周波数の分析結果から、持続母音発声ではHappinessを意図した表現は第1フォルマントを有意に高く上げていた。この結果は、歌手はHappinessを意図した表現で口腔をより広くして歌っていることを意味し、持続母音発声では母音の音色が歌声の感情表現に有効に働くことが示唆された。一方、旋律においてはこの傾向は一定せず、旋律独特のパラメータを用いている可能性が考えられた。 さらに、それぞれの音声サンプルについて、ビブラートの周期とその基本周波数のゆらぎの幅の変動を検討した。その結果、10名のビブラート1周期の平均時間はSadnessを意図した感情表現が0.20sec.でHappiness,Fearのそれに比べ有意に長かった。一方、Fearを意図した感情表現では0.19sec.でAnger,Sadnessのそれに比べ有意に短かった。基本周波数のゆらぎの幅に関しては、Angerを意図した感情表現では他の感情より有意に大きく、Fearで小さかった。これらの結果から、テンポ、高さ、リズム、和声、旋律の音楽的要素を排除した持続母音発声では、歌手がビブラートの速度やその基本周波数のゆらぎの幅に感情表現を反映させていることが明らかになった。 また、歌手の感情表現による声帯振動様式の違いをEGGを用いて検討した結果、EGGの開放時間率EGGOQ(%)はSadnessを意図した感情表現で有意に低かった。Sadnessの感情表現は他の感情より音圧も低く聴覚的に小さな声だが、歌手の用いるSadnessの表現では声帯の接触時間は長いことを意味している。逆にAngerの感情表現はEGGOQ(%)が高く、声帯の開いている時間の1周期に対する割合が他の感情表現より大きかった。歌声でAngerを表現する時には、呼気の使用量が大きいことが感覚的に知られているが、生理学的にも裏付けるデータと考えられた。 V結論 1)言語情報や音楽における調、テンポ、高さ、リズム、和声、旋律のパラメータを排除した持続母音発声のみでも、歌手の意図した感情表現の歌声が聞き手に伝わることが明らかになった。 2)歌声の感情表現に関連する音響パラメータとして、母音の音色、ビブラートの速度と幅の変化が有効に働くことがわかった。 3)歌声の声帯振動パターンは感情表現によって変わりうることが明らかになった。 |