ヒトの衝動性眼球運動(サッカード)の発現に関わる中枢は空間分解能の優れたpositron emission tomography(PET)やfunctional magnetic resonance imaging(fMRI)などの手法を用いて研究されている。その結果、眼球運動中枢として前頭眼野(Frontal eye field、FEF)、頭頂葉のintraparietal sulcus付近のposterior parietal cortex(PPC)の位置が同定されてきた。しかしこれらの方法の時間分解能では、各皮質領域が働いているタイミングを知ることはできなかった。一方、脳波、脳磁図により眼球運動課題実行中の脳の電位変化や磁場の変化を測定する研究方法が行なわれてきた。これらの方法は時間分解能が優れているが、眼球運動の準備には多数の皮質領域が同時に働くため、記録した電位や電場の発生源を同定することは難しいという欠点を持っている。 従って、これらの方法を組み合わせても、ヒトにおいて眼球運動に関連する各皮質領野が機能しているタイミングを明らかにすることは不可能である。このタイミングを分析する手法として磁気刺激の応用が考えられる。磁気刺激により刺激した局所の皮質部位で行なわれている情報処理を一過性に混乱させてブロックし、その結果として起こる反応の変化から、刺激部位の機能を推測する方法がある。この原理を用いてヒトの眼球運動に関連する皮質領野を一過性にブロックし、それぞれが機能しているタイミングを明らかにするのが、この研究の目的である。 これまでの磁気刺激を用いた眼球運動の研究では、局在性の悪い大型の磁気刺激コイルを用いて大脳皮質の広い領域を磁気刺激しているため、各領野に局在する機能を特定することができなかった。そこで、本研究では局在性の良い小型8の字コイルを用いた磁気刺激により、頭皮上から各眼球運動領野の部位とその部位が機能するタイミングを明らかにした。即ち頭皮上からの眼球運動の皮質地図(マップ)とその経時的な変化を視覚化することを目的とした。ヒトで眼球運動中枢に関して、これ程詳細なマッピングを行なった研究はこれまでない。 本実験は以下の通りである。サッカードを行なっている被検者の頭皮上の様々な部位で、視標呈示後いろいろなタイミングで磁気刺激を行なって、その際のサッカードの開始潜時、速度、振幅などを測定した。これを磁気刺激を行なわなかった場合のサッカードと比較した。例えば、もしある部位での刺激では開始潜時が遅れるのに、他の部位の刺激では遅れないならば、刺激を与えた直下の皮質領野が刺激を与えたタイミングで眼球運動に関わっていると考えられる。頭皮上の位置からその領野の位置を推定することができる。また様々なタイミングで刺激した場合にマップがどのように変わるかを調べた。この方法により、時間とともに機能している皮質領野がどのように変化するかを検討した。最初に2つの予備実験について簡単に述べ、次に本実験の結果について述べる。 予備実験1.fMRIによる大脳運動野磁気刺激部位の同定 健常成人5名を対象として頭皮上で運動誘発反応(motor evoked potential、MEP)を得るための最適刺激部位が、運動野と対応しているかをfMRIを用いて検討した。その結果、頭皮上でMEPを得ることのできる最適点から直下の皮質に投影した点は、中心溝にめくれこむ中心前回の後部にあった。これはfMRIで手指運動中に血流上昇の見られる部位にほぼ一致していた。即ち、頭表から最も効率的にMEPを誘発できる部位は、手指の一次運動野と一致していた。従って、磁気刺激で最大の効果を誘発できる部位は、直下の皮質の解剖学的構造と極めてよく対応していると結論した。そこで、本実験でのマッピングを行なうために小型8の字コイルによる磁気刺激は十分良好な精度を有していると考えられた。 予備実験2.Intersensory facilitationによる単純反応時間の短縮現象 磁気刺激には大脳皮質を刺激する効果の他に、刺激のパルスに伴ってクリック音や頭皮での電流、コイル直下での筋収縮などが伴う。本実験では磁気刺激により大脳皮質が直接刺激されるための効果を見たいのであるが、磁気刺激に随伴する副次的刺激の影響だけでも反応時間が変わりうる。そこで、副次的刺激によって反応時間がどのような影響を受けるかを検討した。 健常成人8名を対象として実験を行なったところ、単純反応時間(simple reaction time、SRT)が適切なタイミング(運動の合図のシグナルの100ms前から200ms後までの間)で加えた運動閾値以下の強度の磁気刺激により短縮することがわかった。この短縮は、頭皮上のどのような場所で磁気刺激を行なっても、末梢の皮膚電気刺激や磁気刺激に伴うクリック音だけを同じタイミングで与えた場合にも起こる。従って短縮の機序は、大脳皮質を刺激した効果ではなく、副次的刺激による効果と考えた(intersensory facilitation)。このintersensory facilitationの効果を考慮して、本実験では刺激コイルを頭皮から離して同じタイミングで音のみを聞かせた場合をコントロールとした。このコントロールの反応時間と、各頭皮上の点で刺激した場合の反応時間とを比較した。これにより副次的刺激による影響を可能な限り除外することができると考えた。 本実験.磁気刺激によるヒトの眼球運動皮質中枢の同定 8人の健常成人を対象として、以下の実験を行なった。課題は最初正面の固視点を注視させ、これが消えると同時に左か右20度の位置にランダムに視標が出るようにし、それと左右対称の位置に向かうサッカード(アンチサッカード)を行なわせた。予め頭皮上に格子状の座標系をつくっておき、視標呈示後80、100、120ms後に、格子上の各点に8の字コイルを置いて磁気刺激を行なった。また第一背側骨間筋のMEPの誘発閾値が最も低い点を手指の運動野(HMA)として、今回のマッピングの基準点とした。磁気刺激の強度は運動野上でのMEP誘発の閾値の5-10%上で、瞬目を誘発しない最大強度とした。各点で刺激した際の眼球運動の潜時、持続時間、振幅、速度、及び視標の方に誤って眼を動かしてしまうプロサッカードの頻度を、コイルを頭部から離して磁気刺激の音だけを被検者に聞かせたコントロールの試行と統計学的に比較した。磁気刺激による主な変化は、潜時及びプロサッカードの頻度であったので、これらのパラメーターがコントロールの試行と比較してどの程度変化したかを各被検者についてはunpaired Student’s t-testを、全員のデータについては分散分析を用いて分析した。各点での磁気刺激による反応潜時の遅れ(ms)を刺激を加えた場所に対してプロットし、磁気刺激の影響のマップを刺激のタイミングごとに作成した。 その結果、眼球運動にかかわる重要な領域として、HMAの2-4cm前方、2-4cm側方(前頭葉領域)とHMAの6-8cm後方、0-4cm側方(頭頂葉後部領域)の二つが同定された。眼球運動の潜時は、視標呈示後80msの刺激では両側の頭頂葉後部領域で有意に遅れた。100msでは両側の前頭葉領域で遅れた。120msでも前頭葉領域で遅れを認めたが、その程度は小さかった。従って刺激の効果のあった領域は時間とともに、後方から前方へ向かって移動したことになる。また視標呈示後120msの時点では、刺激の効果はすでに少なくなっていたことから、これらの領域の活動が既に低下していたことが推定できる。 誤反応であるプロサッカードの頻度は、80msの刺激では、プロサッカードの方向と反対側の前頭葉及び頭頂葉後部領域で増加した。100msでは前頭葉領域でのみ増加を認めた。120msでは頻度はコントロールのレベルに戻った。プロサッカードを誘発される機序としては、本来視標に向かうサッカードを起こさないように抑制している皮質領域を、磁気刺激がブロックしてしまったと考えた。プロサッカードについても、刺激により誤った反応を起こしてしまう領域は後方から前方に向かって移動したことになるが、この場合は効果のある領域は片側優位、すなわちプロサッカードの方向と反対側であった。 この研究では磁気刺激によりアンチサッカードに関与する皮質領域をマッピングすることができた。これらの領域はこれまでのPETやfMRIの知見を考慮にいれると、主としてFEF、PPCに相当すると考えられる。本研究はヒトの大脳皮質での眼球運動情報処理過程を細かい時間分解能をもって初めて視覚化したものである。即ち、アンチサッカード課題施行中には視標呈示後80msでPPCが、100msでFEFが働いていることを示すことができた。これらのタイミングは、サルなどの動物で細胞記録を行なった実験でも明らかにされておらず、今回の実験ではじめて明らかになった。 |