学位論文要旨



No 113656
著者(漢字) 鈴木,亨
著者(英字)
著者(カナ) スズキ,トオル
標題(和) 平滑筋に特異的なミオシン重鎖による大動脈解離の生化学的診断
標題(洋) SMOOTH MUSCLE SPECIFIC MYOSIN HEAVY CHAIN AS A USEFUL TOOL FOR BIOCHEMICAL DIAGNOSIS OF AORTIC DISSECTION
報告番号 113656
報告番号 甲13656
学位授与日 1998.03.30
学位種別 課程博士
学位種類 博士(医学)
学位記番号 博医第1317号
研究科 医学系研究科
専攻 内科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 中原,一彦
 東京大学 教授 高本,真一
 東京大学 教授 前川,和彦
 東京大学 教授 山本,一彦
 東京大学 教授 小俣,政男
内容要旨 第1部:血管平滑筋の基礎血管平滑筋の形質の分子マーカーとしての平滑筋ミオシン重鎖の解析及び平滑筋のin vitro発生分化モデルの構築

 血管平滑筋の増殖は、動脈硬化、虚血性心疾患の治療として行われる冠動脈血行再建術後の再狭窄の発症に深く関わっている。心筋梗塞や脳卒中など心血管系疾患が増加傾向にある今日、これらの疾患を予防し、有効な治療法を開発することは極めて重要な課題である。私はこの課題に対し、血管平滑筋の増殖と細胞分化を制御する分子レベルの要因に焦点を絞り、研究を進めてきた。これまでに、私及び共同研究者らは、1)平滑筋に特異的に発現しているミオシン重鎖遺伝子(SM1/2)を同定し、成熟した平滑筋細胞にはSM1とSM2という2種類の平滑筋に特異的ミオシン重鎖アイソフォームが発現し、未分化な胎児期平滑筋には非筋型ミオシンであるSMembが発現すること、2)血管平滑筋は個体の発生過程や成長と共に分化し、ミオシン重鎖アイソフォームの遺伝子発現を変換すること、3)血管病変では胎児期の細胞形質に変換した平滑筋細胞が増殖することを明らかにしてきた。

 私は、平滑筋特異的に発現するミオシン重鎖遺伝子に注目し、最初は抗体を用いた免疫組織染色法を確立し、正常発生・血管疾患における同遺伝子の発現様式を解明した。とくに、胎児の体循環と肺循環を連結し、出生直後の呼吸開始時に閉鎖する動脈管(ボタロ管)の平滑筋細胞では、他の血管平滑筋よりも細胞分化状態が先行していることを明かにした。また、ヒトの心内膜には平滑筋層が存在し、ミオシン重鎖アイソフォームの発現様式から分化した収縮型の平滑筋であることも明らかにした。

 同時に、平滑筋の発生分化の過程を研究するために適したin vitroの系が存在しないため、胚性腫瘍細胞を用いて平滑筋の発生を分子レベルで調べるのに適した細胞の系を確立した。すなわち、平滑筋が関わる病態を理解するのには、平滑筋組織の分化を司る機構を理解する必要があると考え、平滑筋の分化過程を調べるために、細胞を用いた平滑筋の分化モデルを構築した。平滑筋の発生分化を司る分子機構は不明な点が多いが、その原因の一つとして、同細胞の発生・分化過程を反映する実験系が存在しなかったことがあげられる。同様の筋組織である骨格筋の場合、C2細胞に代表される培養細胞があるため、細胞レベルで未分化な筋芽細胞から分化した筋管細胞までの過程を再現でき、分子レベルでの発生分化の研究が可能である。しかし、平滑筋の場合、培養細胞では形質変換等が起きるため、安定した形質が得られず、分子レベルでの発生分化を再現できる系が存在しなかった。

 P19胚性腫瘍細胞を特定の細胞へ分化誘導することが可能であるという性質に注目し、同培養細胞を用いて平滑筋への分化誘導の細胞系の確立に成功した。種々の誘導戦略を検討した結果、高濃度レチノイン酸(1mol/L)が最も効率良くP19胚性腫瘍細胞を平滑筋へと分化誘導させることが判明した。しかし、この場合、分化した細胞の大半が神経細胞であるため、さらに神経細胞の分化をブロックする方法を考案した。P19胚性腫瘍細胞が、神経細胞に分化するためにはPOU系神経系転写因子Brn-2が必須であることに注目し、同転写因子に対するアンチセンス戦略で神経細胞への分化を特異的に抑えて、平滑筋への分化を著しく増幅させ、平滑筋が全細胞の約半数を占める割合まで分化誘導させることに成功した。なお、この特性は平滑筋特異的遺伝子(SM1等)をマーカーとし、RNA解析、免疫組織化学的染色、蛋白解析を用いて確認した。

 上述の系は平滑筋の発生・分化の分子モデルであるとともに、遺伝子発現の解析に有用な系であり、今後、平滑筋の発生分化の分子レベルでの解明(転写・遺伝子発現調節の研究等)に活用されると期待される。

第二部:血管平滑筋の臨床血中平滑筋ミオシン重鎖及びクレアチンキナーゼBB型アイソザイムによる大動脈解離の生化学的診断

 ミオシンは人体内に最も多く存在する蛋白の一つであり、特に筋組織では豊富で、アクチンとともに重合して筋収縮機構を形成する。平滑筋に特異的に発現するミオシン重鎖に対して特異的な抗体を用いた免疫組織学的検討によるヒト組織における平滑筋ミオシン重鎖の発現を検討した結果、平滑筋ミオシン重鎖は特にヒト大動脈中膜の平滑筋層に豊富に存在することが認められ、血管中膜の平滑筋の分子マーカーとしての平滑筋ミオシンの有用性が確立された。このことから、同蛋白の平滑筋特異性に注目し、大動脈解離に代表される血管中膜の平滑筋層が傷害される疾患の検出の応用を目的として、平滑筋ミオシン重鎖のイムノアッセイ法を開発した。

 急性大動脈解離症例40例を用いて血中平滑筋ミオシン重鎖値の測定を行った結果、平滑筋ミオシン重鎖の血清中の値は、大動脈解離の急性期において有意な上昇を示した。特に発症後24時間以内の上昇は顕著で、ほぼ全例で10ng/ml以上の値を示したが、その後はほぼ全例で急速に2.5ng/ml以下の正常域に減少した。カットオフ値が2.5ng/mlの場合、発症12時間以内の感度は85%、24時間以内の感度は78%であった。また、限局した病変においては血中平滑筋ミオシンの入院時の値と12時間後の値に有意差がみられたことから、定量的な性質も示唆された。さらに、胸部・背部痛の鑑別疾患として重要な急性心筋梗塞症50例においては異常高値は示されず、また腎不全により修飾されることもなかった。

 他の大動脈疾患においても平滑筋ミオシン重鎖値を検討した。大動脈炎症候群の症例では高値は認められなかったが、比較的稀な疾患である外傷性の急性大動脈破裂数例では、血中平滑筋ミオシン重鎖値は大動脈解離と同様で、発症直後に著しい高値を示すことが判明した。経時的変化のプロフィールも大動脈解離と同様に、発症直後の顕著な高値の後に急激に減少する傾向が認められた。ただし、外傷の患者は血管障害や他の平滑筋組織の障害を伴うこともあり、血中の値の解釈に注意を要する。

 大動脈解離の生化学的診断に有用な血液生化学マーカーについてさらに詳細に検討した結果、平滑筋や脳に選択的に発現していするクレアチンキナーゼのBB型アイソザイム(CK-BB)も大動脈解離で高値を示すことが明らかになった。興味深いことに、CK-BBのピークは平滑筋ミオシン重鎖よりやや遅れてみられ、両マーカーの併用による大動脈解離の生化学的診断・病態把握が今後期待できる。

 ただし、平滑筋ミオシン重鎖とCK-BBはともに、子宮等の平滑筋組織を含む他臓器の疾患でも高値を示す可能性があることから、検査結果の解釈には十分な注意を要する。

 平滑筋ミオシン重鎖値の測定、CK-BBによる大動脈解離の生化学的診断は、特殊な技術等を必要とせず、心臓血管専門医以外でも使用できる同疾患の簡便な診断法として、今後臨床の場で幅広く活用されると期待される。スクリーニング法としての活用の他に、確立された画像診断法に血液生化学的指標の測定を併用することで、病勢、活動性等の貴重な情報が得られ、急性大動脈解離の鑑別、経過中の病態の管理指標として用いることも可能と考えられる。

審査要旨

 本研究は血管疾患における平滑筋の役割を明らかにするため、基礎的・臨床的検討を行った。すなわち、基礎的検討として、血管平滑筋の形質の分子マーカーとしての平滑筋ミオシン重鎖の解析及び平滑筋のin vitro発生分化モデルの構築を試み、また、臨床的検討として、血中平滑筋ミオシン重鎖及びクレアチンキナーゼBB型アイソザイムによる大動脈解離の生化学的診断を試みたものであり、下記の結果を得ている。

1。血管平滑筋の形質の分子マーカーとしての平滑筋ミオシン重鎖の解析及び平滑筋のin vitro発生分化モデルの構築

 平滑筋特異的に発現するミオシン重鎖遺伝子に注目し、抗体を用いた免疫組織染色法を確立し、正常発生・血管疾患における同遺伝子の発現様式を解明した。とくに、胎児の体循環と肺循環を連結し、出生直後の呼吸開始時に閉鎖する動脈管(ボタロ管)の平滑筋細胞では、他の血管平滑筋よりも細胞分化状態が先行していることを明かにした。また、ヒトの心内膜には平滑筋層が存在し、ミオシン重鎖アイソフォームの発現様式から分化した収縮型の平滑筋であることも明らかにした。

 同時に、平滑筋の発生分化の過程を研究するために適したin vitroの系が存在しないため、胚性腫瘍細胞を用いて平滑筋の発生を分子レベルで調べるのに適した細胞の系を確立した。P19胚性腫瘍細胞を特定の細胞へ分化誘導することが可能であるという性質に注目し、同培養細胞を用いて平滑筋への分化誘導の細胞系の確立に成功した。種々の誘導戦略を検討した結果、高濃度レチノイン酸(1mol/L)が最も効率良くP19胚性腫瘍細胞を平滑筋へと分化誘導させることを明らかにした。しかし、この場合、分化した細胞の大半が神経細胞であるため、さらに神経細胞の分化をブロックする方法を考案した。P19胚性腫瘍細胞が、神経細胞に分化するためにはPOU系神経系転写因子Brn-2が必須であることに注目し、同転写因子に対するアンチセンス戦略で神経細胞への分化を特異的に抑えて、平滑筋への分化を著しく増幅させ、平滑筋が全細胞の約半数を占める割合まで分化誘導させることに成功した。なお、この特性は平滑筋特異的遺伝子(SM1等)をマーカーとし、RNA解析、免疫組織化学的染色、蛋白解析を用いて確認した。

2。血中平滑筋ミオシン重鎖及びクレアチンキナーゼBB型アイソザイムによる大動脈解離の生化学的診断

 平滑筋に特異的に発現するミオシン重鎖に対して特異的な抗体を用いた免疫組織学的検討によるヒト組織における平滑筋ミオシン重鎖の発現を検討した結果、平滑筋ミオシン重鎖は特にヒト大動脈中膜の平滑筋層に豊富に存在することを認め、血管中膜の平滑筋の分子マーカーとしての平滑筋ミオシンの有用性を確立した。このことから、同蛋白の平滑筋特異性に注目し、大動脈解離に代表される血管中膜の平滑筋層が傷害される疾患の検出の応用を目的として、平滑筋ミオシン重鎖のイムノアッセイ法を開発した。

 急性大動脈解離症例40例を用いて血中平滑筋ミオシン重鎖値の測定を行った結果、平滑筋ミオシン重鎖の血清中の値は、大動脈解離の急性期において有意な上昇を示した。特に発症後24時間以内の上昇は顕著で、ほぼ全例で10ng/ml以上の値を示したが、その後はほぼ全例で急速に2.5ng/ml以下の正常域に減少した。カットオフ値が2.5ng/mlの場合、発症12時間以内の感度は85%、24時間以内の感度は78%であった。また、胸部・背部痛の鑑別疾患として重要な急性心筋梗塞症50例においては異常高値は示さず、また腎不全により修飾されるないことも明らかにした。

 他の大動脈疾患においても平滑筋ミオシン重鎖値を検討した。大動脈炎症候群の症例では高値は認めなかったが、比較的稀な疾患である外傷性の急性大動脈破裂数例では、血中平滑筋ミオシン重鎖値は大動脈解離と同様で、発症直後に著しい高値を示すことを明らかにした。

 また、大動脈解離の生化学的診断に有用な血液生化学マーカーについてさらに詳細に検討した結果、平滑筋や脳に選択的に発現していするクレアチンキナーゼのBB型アイソザイム(CK-BB)も大動脈解離で高値を示すことが明らかにした。

 以上、本論文は血管平滑筋の血管疾患における役割を明らかにするため、基礎的な検討を通して、血管平滑筋の形質の分子マーカーとしての平滑筋ミオシン重鎖の有用性を確立するとともに平滑筋のin vitro発生分化モデルの構築をした。また、臨床的な検討を通して、血中平滑筋ミオシン重鎖及びクレアチンキナーゼBB型アイソザイムによる大動脈解離の生化学的診断の可能性を示した。本研究はこれまで未知に等しかった、血管疾患における平滑筋の役割を基礎的・臨床的側面から重要な貢献をなすと考えられ、学位の授与に値するものと考えられる。

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