学位論文要旨



No 113661
著者(漢字) 長瀬,美樹
著者(英字)
著者(カナ) ナガセ,ミキ
標題(和) 食塩感受性高血圧の分子機構の解明
標題(洋) Molecular Mechanisms of Salt-Sensitive Hypertension
報告番号 113661
報告番号 甲13661
学位授与日 1998.03.30
学位種別 課程博士
学位種類 博士(医学)
学位記番号 博医第1322号
研究科 医学系研究科
専攻 内科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 大内,尉義
 東京大学 教授 飯野,正光
 東京大学 助教授 後藤,淳郎
 東京大学 助教授 安藤,譲二
 東京大学 講師 平田,恭信
内容要旨 (1)研究の背景と目的

 食塩感受性高血圧とは食塩過剰摂取により血圧が上昇するタイプの高血圧である。その成因として腎臓におけるNa排泄能の障害が関与すると考えられている。臨床的にみて血圧の食塩感受性は遺伝的素因に大きく影響される。従ってその遺伝子レベルでの異常の解明は、高血圧の発症予知や進展抑制という意味で非常に重要と考えられる。しかし現時点では特殊な疾患(Liddie症候群、グルココルチコイド反応性アルドステロン症、apparent mineralocorticoid excess症候群など)においてのみ遺伝子異常が明らかにされているにすぎず、既報の遺伝子のみでは食塩高血圧の詳細な分子機構は未だ説明できない。

 本研究においては、以上の問題意識に基づき、食塩感受性高血圧の病態に関与する候補遺伝子を探索することを目的とした。

(2)研究の方法論

 ヒトの高血圧は多因子遺伝で、成因が不均一で、かつ遺伝因子と環境因子の相互作用により発症するためアプローチが難しい。これに比しモデル動物における解析は、homogeneousな系であり環境因子をコントロールしやすいといった利点を有する。食塩感受性高血圧のモデル動物としてはDahlラットが広く用いられている。すなわち、Dahl食塩感受性(DS)ラットは高食塩食で飼育すると高血圧を呈するのに対し、Dahl食塩抵抗性(DR)ラットでは血圧は上昇しない。また、Dahlラットにおいても腎交換移植実験などからその病因に腎臓が重要と考えられている。そこで今回の研究では主にDahlラットの腎臓を用いて解析を行った。

 高血圧に関与する遺伝子探索の戦略としては、(i)高血圧動物とそのコントロールを交配させたF2世代の動物において血圧と相関を示す遺伝子多型性マーカーを検索する方法、(ii)生理機能や遺伝子操作動物の表現型などの従来の知見に基づき、高血圧への関与が予想される物質に関して解析を行う方法、(iii)高血圧動物とコントロール動物とで発現量の異なる遺伝子を検索する方法、などが考えられる。このうち(i)は最も基本的かつ信頼性が高い方法であるが、これのみでは作業能率が低く実際的ではない。むしろ最初の段階では(ii)または(iii)にて候補遺伝子のスクリーニングを行い、その後(i)のアプローチにて遡及的に確定するのが妥当と考えられる。

 今回の研究では、(ii)のアプローチとして具体的には、病態生理上その関与が予想されるNa利尿ペプチド系および酸化LDL系の遺伝子の解析を行った(以下研究1、2)。しかしこのアプローチはあらかじめ候補を絞ることが不可欠であり、現時点で予想外もしくは未知の遺伝子は同定できないという欠点を持つ。これを補うのが(iii)のアプローチであり、本研究では特にdifferential display法を用いた解析を行った(以下研究3)。

(3)研究1、2:既知の遺伝子の病態生理学的解析研究1

 Na利尿ペプチド系は、強力な利尿・降圧作用を有することから食塩感受性高血圧の病態に関与することが示唆されていた。近年、そのリガンド(proANP)のノックアウトマウスが食塩感受性高血圧を発症したと報告され、食塩感受性高血圧の病態に本系が深く関与していることが裏付けられた。一方、受容体側であるNa利尿ペプチド受容体(NPR)-Aのノックアウトマウスも作製されたが、このマウスは予想に反して食塩抵抗性高血圧を呈した。ANPのもうひとつの受容体であるNPR-Cはクリアランス受容体として知られているが、その生理機能は未だ不明である。本研究では、NPR-Cが食塩感受性高血圧の病態生理に関与するという仮説の元に、Dahlラットの腎臓において食塩負荷時のNPRの発現の変動を解析した。

 4週齢DSおよびDRラットを各々2群に分け、一方に8%の高食塩食を投与し、他方は0.3%食塩食の対照群とした(DS0.3%,DS8%,DR0.3%,DR8%)。4週間後、腎臓におけるNPR-A,-B,-Cの遺伝子発現をRNase protection assayにて比較した。さらにその組織内局在をin situ hybridizationにて検討した。

 その結果、血圧はDS8%群においてのみ著しい上昇を認めた。腎臓におけるNPRの遺伝子発現は、NPR-A,NPR-Bが4群間で差がなかったのに対し、NPR-Cは食塩負荷でDR・DSいずれにおいても発現が減弱し、その減弱の程度はDSで著明であった。腎臓においてはNPR-Cは主に糸球体のpodocyteに発現していた。食塩負荷時のNPR-Cの発現減少は腎臓においてのみみられた。

 食塩負荷時にNPR-Cの発現が抑制されるということは、"クリアランス説"に基づけば、腎臓局所におけるANPの作用が高まり、Na利尿・降圧効果が増強されるということになり、食塩負荷による高血圧に対して代償的に作用しているものと理解しうる。しかしこれでは説明できない点もあり、ノックアウトマウスの成績も併せ考えると、NPR-Cが食塩感受性高血圧の病態の成立に直接的に関与している可能性もありうると思われる。

研究2

 近年、血管内皮細胞の新たな酸化LDL受容体(LOX-1)がクローニングされた。酸化LDLは動脈硬化の強力な危険因子であるが、内皮細胞では一酸化窒素(NO)を介する血管拡張反応を抑制する。これは高血圧性血管病変の病態と類似している。本研究では、酸化LDL/LOX-1系が食塩高血圧の病態に関与するという作業仮説に基づき高血圧モデルラットにおけるLOX-1発現の変化を解析した。

 PCRにてラットLOX-1部分配列を合成し、それをプローブにDahlラットの腎臓、大動脈におけるLOX-1の遺伝子発現をノーザン法にて調べた。

 その結果、LOX-1の遺伝子発現は、DR0.3%,DR8%,DS0.3%では低く、他方、DS8%では著明に亢進していた。

 血圧の上昇している群でLOX-1の発現が亢進していたことから、高血圧の病態に酸化LDL/LOX-1系が重要な役割を担うことが示唆された。

(4)研究3:新規遺伝子検索

 differential display法とは、実験群に特異的に発現している遺伝子を対照群との比較により同定する、発現量の差に基づく遺伝子クローニング法である。研究3では本法をDahlラット4群の腎臓mRNAに応用して、食塩感受性群と抵抗性群、高食塩食群とコントロール食群の間で発現量に差のある遺伝子の同定を通して原因候補遺伝子の同定を試みた。

 DS0.3%,DS8%,DR0.3%,DR8%の腎臓mRNAをRNAarbitrarily-primed PCR法にて増幅し、電気泳動にて4群間で差のあるバンドよりcDNAを回収し、その塩基配列を既知の登録配列と比較した。発現量の差はノーザンブロット法にて確認し、新規クローンについてはcDNA libraryのスクリーニングにて全長塩基配列を決定した。

 その結果、4群間で発現量に差のある3種のクローンが得られた。クローン1は高血圧ラットの既知の原因候補遺伝子とされるSA遺伝子と同一で、その発現はDSで亢進しており、食塩負荷にて減少した。クローン2はneurotrophin-3受容体(trkC)遺伝子の一部と同一で、発現量はDR・DSともに食塩負荷にて減少した。クローン3は新規遺伝子であって、アセチルコリン受容体7遺伝子の3’非翻訳領域と90%のホモロジーのある部分を含み、DSで発現が亢進していた。in situ hybridizationでは、腎臓の近位尿細管に特異的に発現していた。この遺伝子の全長配列を決定したところ、レトロウイルスのpol遺伝子相同部分、逆転写酵素が作用する際のprimer binding siteを含み、両端にlong terminal repeat(LTR)様配列を有する新規レトロポゾンであることが判明し、REPT1(rat retrovirus-like element transcribed in proximal tubules)と命名した。

 本研究にてSAという既知の原因候補遺伝子が同定されたことより、このアプローチの有用性が示されたと考えられる。またtrkC及びレトロポゾンの高血圧への関与は従来報告がなく今回の結果は高血圧研究に新展開をもたらしうる知見であると考える。ことにレトロトランスポゾンは、ある種の疾患の原因になっていることが近年明らかになり注目を集めている。血友病、筋ジストロフィーなどの遺伝病、腫瘍などの原因であるのみならず、心血管系領域でも急性心筋梗塞とACE遺伝子中のレトロトランスポゾンの有無が相関を示すことが報告された。さらにごく最近、I型糖尿病の原因遺伝子がIDDMk1.222というレトロポゾンであることが報告されたが、pol遺伝子産物の系統樹により、今回同定したREPT1遺伝子はIDDMk1.222に非常に近縁であることが明らかになり、これら疾患の予想外の類縁関係を示唆するものとも言えよう。

(5)総括

 以上、食塩感受性高血圧のモデル動物を用いた解析により、その病態にNPR-C,LOX-1,SA,trkC,REPT1が関与しうることが示された。

 本研究はあくまで食塩感受性高血圧に関与する遺伝子のスクリーニングとして位置づけられる。従って今後、上述のアプローチ(i)すなわち各遺伝子のgenotypeがF2世代ラットの血圧値と相関するか否か、などのさらなる検討により食塩感受性高血圧における役割が明らかになっていくものと思われる。

審査要旨

 本研究は、食塩感受性高血圧の分子機構を明らかにするために、その疾患モデル動物として広く用いられているDahlラットの腎臓における遺伝子発現を解析することにより本症の病態に関与しうる候補遺伝子のスクリーニングを試みたものであり、下記の結果を得ている。

 Dahl食塩感受性ラットとそのコントロールであるDahl食塩抵抗性ラットを通常食ないし高食塩食で4週間飼育し、各群(計4群)の腎臓よりRNAを調製し以下の解析を行った。

 1.Na利尿ペプチド系は、その生理作用やノックアウトマウスの解析結果などから食塩感受性高血圧の病態に関与することが示唆されている。本研究ではNa利尿ペプチドの3種類の受容体(NPR-A,B,C)の遺伝子発現をDahlラット4群の腎臓で比較し、食塩負荷によりNPR-Cの発現のみが著明に低下し、しかもその程度が食塩感受性ラットで過大であることを見い出した。さらにin situ hybridizationにてNPR-Cは主に糸球体のpodocyteに発現していることが示された。NPR-Cはクリアランス受容体として知られているが、未だその生理機能の詳細は不明であり、今回の結果はNPR-Cが食塩感受性高血圧の病態生理に関与する可能性を示唆するものである。

 2.近年血管内皮細胞の新たな酸化LDL受容体(LOX-1)がクローニングされた。本研究では、このLOX-1の遺伝子発現をDahlラット4群の腎臓で比較し、その発現が高食塩食で飼育したDahl食塩感受性ラットで著明に亢進していることを見い出した。酸化LDLは動脈硬化の強力な危険因子と考えられているが、今回の結果は酸化LDLと高血圧の新たな関連性を示唆するものである。

 3.differential display法とは、実験群に特異的に発現している遺伝子を対照群との比較により同定する、発現量の差に基づく遺伝子クローニング法である。本研究ではDahlラット4群の腎臓にdifferential display法を応用して、食塩感受性群と抵抗性群、高食塩食群とコントロール食群の間で発現量に差のある遺伝子を3種類同定した。

 クローン1は高血圧ラットの既知の原因候補遺伝子とされるSA遺伝子と同一で、その発現はDSで亢進しており、食塩負荷にて減少した。クローン2はneurotrophin-3受容体(trkC)遺伝子の一部と同一で、発現量はDR・DSともに食塩負荷にて減少した。クローン3は新規遺伝子であって、アセチルコリン受容体7遺伝子の3’非翻訳領域と90%のホモロジーのある部分を含み、DSで発現が亢進していた。in situ hybridizationでは、腎臓の近位尿細管に特異的に発現していた。この遺伝子の全長配列を決定したところ新規LTR型レトロポゾンであることが判明し、REPT1(rat retrovirus-like element transcribed in proximaltubules)と命名した。

 食塩感受性高血圧の原因候補遺伝子として近年いくつかの報告がなされている。しかし本症は多因子遺伝と考えられており、既報の遺伝子のみではまだその分子機構は十分説明できない。

 本研究では、食塩感受性高血圧のモデル動物の腎臓において、differential display法を中心とした発現量の差に基づく解析によりその病態に関与しうる候補遺伝子として、NPR-C、LOX-1、SA、trkCおよび新規遺伝子(REPT1)を同定した。differential display法は近年開発された方法であるが、この方法を高血圧の原因候補遺伝子の同定に応用することにより、新規遺伝子を含む興味深い遺伝子が同定された。これらの結果は高血圧研究領域に重要な貢献をなすと考えられ、学位の授与に値するものと考えられる。

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