学位論文要旨



No 113663
著者(漢字) 潟永,博之
著者(英字)
著者(カナ) ガタナガ,ヒロユキ
標題(和) 中枢神経系におけるHIV-1の感染と治療によって選択されるウイルスの解析
標題(洋) HIV-1 infection in the central nervous system and its selection by anti-HIV chemotherapy
報告番号 113663
報告番号 甲13663
学位授与日 1998.03.30
学位種別 課程博士
学位種類 博士(医学)
学位記番号 博医第1324号
研究科 医学系研究科
専攻 内科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 永井,美之
 東京大学 教授 森,茂郎
 東京大学 教授 中原,一彦
 東京大学 教授 柴田,洋一
 東京大学 助教授 増田,道明
内容要旨 (はじめに)

 AIDS脳症は、鬱・失認・ぼけなどの症状を呈し、HIV-1感染者の重要な神経学的問題の一つである。AIDS脳症患者の脳には、白質の淡明化などの非特異的所見がみられるが、重症のAIDS脳症患者では、マイクログリアの増生や多核巨細胞などのHIV脳炎と呼ばれる所見がみられる。中枢神経系における主なHIV感染細胞はマイクログリアであり、また、脳のプロウイルスの量はHIV脳炎と相関があると報告されている。しかし、中枢神経系のHIVが独立に増幅しているのか、あるいは、血液とのあいだにウイルスの交通が頻繁にあるのかは、治療上重要な問題であるが十分に調べられていない。

 HIVのenv V3領域のシークエンスは、血中では多様であるが、中枢神経系ではほぼ均一でマクロファージ親和性の性質を持つと報告されている。しかし、V3領域は免疫反応の主要なターゲットであり、一個体内でも極めて多様であるため、V3のみでウイルスの動態を調べるのは困難である。

 そこでpol遺伝子を調べることとした。pol遺伝子の5つの変異が、AZT耐性に関与し、これらの変異はAZT投与中、蓄積することが知られている(RT遺伝子のM41L,D67N,K70R,T215YorF,K219QorE)。近年、プロテアーゼ阻害薬などの強力な抗ウイルス薬が治療に用いられるようになり、患者の体内からHIVを駆逐できる可能性が論じられるようになってきた。しかし、血液脳関門を十分に通過できる薬剤は少数であり、中枢神経系はHIVにとっての聖域となる可能性がある。従って治療のうえからも、中枢神経系の薬剤耐性の研究は重要である。

 HIV脳炎のない患者二人とある患者二人において、AZT耐性に関与する変異とpol遺伝子のシークエンスを血中と中枢神経系で比べることにより、この二つのコンパートメント間のウイルスの動態と耐性ウイルスが中枢神経内で出現し得るかを調べた。

(方法)

 4人のHIV感染者について調べた。患者1と2はHIV脳炎のない患者、患者3と4はHIV脳炎のある患者である。HIV脳炎の診断は、剖検時の脳組織の多核巨細胞の存在とマイクログリアの増加に基づいている。

 患者の脳と脾臓からDNAを抽出し、nested PCR法により、HIVプロウイルスを増幅した。患者4については、経時的に得られた血清と髄液からもRNAを抽出し逆転写の後nested PCR法により増幅した。得られたPCR産物をクローニングの後、シークエンスを行った。

(結果)

 HIV脳炎のなかった患者1と2の脳と脾臓から得られたpol遺伝子のシークエンスより系統樹を作成した。この二人については同じパターンが得られた。すなわち、脳と脾臓から得られたシークエンスが互いに別れて別々のグループを形成した。

 HIV脳炎のあった患者3と4についても同様に系統樹を作成したところ、患者1と2とは異なるパターンが得られた。患者3では、脳由来と脾臓由来のシークエンスが入り混じって、個々のグループは形成されなかった。患者4では、一部の脳由来のシークエンスは脾臓由来のものと入り混じったが、残りの脳由来のシークエンスはそれらとは別に独立のグループを形成した。後者のグループのシークエンスはAZT耐性に関与する変異を持たないか、あるいは1個だけ持っていた。逆に、2個以上のAZT耐性変異を持つシークエンスは脾臓由来のものと入り混じった。

 脳においては比較的均一なV3シークエンスを持つマクロファージ親和性のウイルスが選択的に増殖すると報告されている。そこで、脳内のウイルスが単に血中から来たものか、あるいは中枢神経系で増幅したものかを調べるため、ウイルスの細胞親和性に重要なenv V3領域をHIV脳炎患者で調べた。

 患者3、4ともに脾臓では多様なV3シークエンスを持っていたが、脳ではほぼ均一であった。患者3においては、高い電荷を持ち、T細胞株親和性に関与する変異を持つアミノ酸シークエンスが、脳と脾臓の両方に見つかった。T細胞株親和性ウイルスは、臨床経過上後期に現れるので、この患者の脳は後期に出現したウイルスに感染していると考えられる。患者3と4のV3のpairwise distanceを比較したところ、いずれの患者でも脳由来のものは脾臓由来のものより小さかった。これらは、単に血中から感染したのではなく、脳で選択的に増殖したことを示すと考えられる。

 患者4の脾臓由来のクローンはすべて3個か4個のAZT耐性変異を持っていたが、脳においては半分のクローンがAZT耐性の変異を持たなかった。この2つのコンパートメントのウイルスの経時的な変化を調べるため、血清と髄液中のウイルスのpol遺伝子についても調べた。AZT治療前の血清と髄液からのクローンはすべてAZT耐性の変異を持たなかったが、治療後(死亡14カ月前と死亡時)のクローンはすべて4個のAZT耐性変異を持っていた。脳由来のクローンのうちAZT耐性変異を4個持っていたのは10%のみであり、脳のプロウイルスの大部分はウイルスを産生していないと思われる。また、AZT耐性変異を持たない脳のプロウイルスは、血清と髄液のウイルスがすべてAZT耐性になる前に感染したと思われるので、これらのウイルスに感染した細胞は少なくとも14カ月生存した可能性がある。

(考察)

 プロテアーゼ阻害剤を含む強力な抗ウイルス療法によりHIVの治療は大きく進歩したと言われる。しかし、血液脳関門を十分に通過する抗ウイルス薬は少なく、髄液中の薬剤濃度を上げるのは困難である。中枢神経系はウイルスにとって聖域となる可能性がある。この研究では、HIV脳炎のない患者二人では、血中と中枢神経系で比較的独立したウイルスの進化が見られた。薬剤耐性を獲得したウイルスが低い頻度で血液脳関門を越えたか、あるいは、中枢神経のウイルスがそこで薬剤耐性を獲得したと思われる。後者の場合特に、血液脳関門の通過性が良好な抗ウイルス薬の開発が必要である。

 AIDS脳症とHIV脳炎の病因はほとんどわかっていない。この研究では、HIV脳炎のある患者では脳由来と脾臓由来のシークエンスが遺伝的に近い関係にあった。おそらく、ウイルスが末期に血液脳関門を通過したため、中枢神経内で進化する時間がなかったのであろう。しかし、脳のV3シークエンスのpairwise distanceは小さかったので、これらのウイルスも脳内で増殖したと思われる。脳由来のV3シークエンスはマクロファージ親和性であるとする報告が多い。この研究の患者3は、脳にT細胞株親和性のV3シークエンスも持っていた。近年、マイクログリアはHIVのco-receptorとして働くCCR3を持っており、CCR3は両親和性(マクロファージにもT細胞株にも感染する)ウイルスのco-receptorであると報告された。従って、脳に認められたT細胞株親和性のV3シークエンスは両親和性であった可能性がある。AIDS脳症の発症機序はわからないが、この研究のHIV脳炎のある患者では、末期に血中より侵入したウイルスが脳で活発に増殖していることが示された。

 患者4では脳内の多くのプロウイルスがウイルスを産生していないと思われ、そのうちの半分は14カ月以上も脳内にとどまっていた可能性が示された。これらのプロウイルスは活性化されたり、あるいは組み換えウイルスをつくる可能性もある。一例でしか示されていないが、このように脳内で感染細胞が長期間生存する可能性があることは、感染者からHIV-1を駆逐しようとする際には十分考慮すべきであろう。

図: pol 遺伝子のシークエンス系統樹。br,spはそれぞれ脳由来、脾臓由来のクローンを示す。太線の楕円の領域は脳由来のクローンを含み、細線の楕円の領域は脾臓由来のクローンを含む。重要な分枝についてはbootstrap probabilityも示した。
審査要旨

 本研究はHIV-1感染者における血液と中枢神経の間のウイルスの動態を明らかにするため、HIV脳炎のあった患者となかった患者のウイルスおよびプロウイルスのシークエンスを解析することにより、下記の結果を得ている。

 1.HIV脳炎のあった患者2名となかった患者2名の脳と脾臓のプロウイルスのpol遺伝子をシークエンスし、系統樹を作成した。HIV脳炎のなかった患者では、脳と脾臓から得られたシークエンスが互いに別れて、別々のグループを形成した。一方、HIV脳炎のあった患者では、少なくとも一部の脳由来のシークエンスが脾臓由来のものと入り混じり、個々のグループは形成されなかった。これらのことより、HIV脳炎のある患者では、血中から中枢神経へのウイルスの移行が比較的頻繁に起こっていることが示唆された。

 2.HIV脳炎のあった患者2名の脳と脾臓のプロウイルスのenv V3領域をシークエンスし解析したところ、いずれの患者でも、脳由来のシークエンスは脾臓由来のものより有意に多様性が低かった。すなわち、HIV脳炎のある患者では、血中から中枢神経へのウイルスの移行が頻繁に起こっていると思われるが、脳においては、特定のV3シークエンスを持つウイルスが選択的に増殖していることが示唆された。また、1人の患者では脳と脾臓のいずれにもマクロファージ親和性のシークエンスしか認められなかったが、もう1人の患者では脳と脾臓のいずれにもマクロファジー親和性のみならずT細胞株親和性のシークエンスも認められた。T細胞株親和性のウイルスの脳への感染と、HIV脳炎との間には直接の関係はないことが示された。

 3.HIV脳炎のある患者1名では、脾臓由来のシークエンスはすべて3個または4個のAZT耐性変異を持っていたが、脳においては半分のクローンがAZT耐性変異を持たなかった。この患者の血清中と髄液中のウイルスのシークエンスを調べたところ、治療前のウイルスはAZT耐性変異を持たないが、AZT治療9カ月以降のウイルスはすべて4個のAZT耐性変異を持っていた。脳由来のシークエンスのうちAZT耐性変異を4個持っていたのは10%のみであり、脳のプロウイルスの大部分はウイルスを産生していない可能性が示された。また、AZT耐性変異を持たない脳のプロウイルスは、血液中と髄液中のウイルスがすべてAZT耐性になる前に感染したと思われるので、脳内の感染細胞は長期にわたって生存する可能性が示唆された。

 以上、本論文はHIVのシークエンスの解析から、病理学的診断に基づいたHIV脳炎と、血液から脳へのウイルスの移行との間には密接な関係があることを示した。本研究は、これまでまったく未知に等しかったHIV脳炎の病態の解明と、中枢神経におけるウイルスと感染細胞の動態の解明に重要な貢献をなすと考えられ、学位の授与に値するものと考えられる。

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