学位論文要旨



No 113673
著者(漢字) 小林,誠
著者(英字)
著者(カナ) コバヤシ,マコト
標題(和) 8字コイルを用いた神経磁気刺激における誘導電界の方向と誘発反応の関係
標題(洋)
報告番号 113673
報告番号 甲13673
学位授与日 1998.03.30
学位種別 課程博士
学位種類 博士(医学)
学位記番号 博医第1334号
研究科 医学系研究科
専攻 外科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 加我,君孝
 東京大学 教授 神谷,暸
 東京大学 教授 花岡,一雄
 東京大学 教授 桐野,高明
 東京大学 助教授 長野,昭
内容要旨

 【緒言】磁気刺激は,痛みが少ない反面,刺激の範囲を限局できない欠点があったが,8字コイルの開発により,刺激の方向と強さを制御するベクトル磁気刺激を行うことが可能になった.このコイルを用いて,誘導電界の向きによる誘発反応の違いを調べた研究報告がされているが,これらには,観察結果を必ずしも合理的に解釈できないという,共通の難点がある.その理由の第一は,コイル電流の波形と生体内に生じる誘導電界のベクトル特性との関係が不明なことで,第二の理由は,生体組織の導電率が均一でないことである.また,8字コイルで経頭蓋磁気刺激を行う場合に,コイルの方向によって,起源の異なる多相性成分をもつ誘発反応が得られるという仮説があり,まだ実験的な証明がない.

 本研究の目的は,磁気による神経刺激について,1)コイル電流波形によって誘導電界の向きと誘発反応の関係がどう変わるか,2)容積導体の導電率の不均一性が誘導電界の向きと誘発反応の関係に与える影響,3)一つの磁気刺激によって起源の異なる複数の反応が誘発される可能性を,それぞれ実験的に証明することである.

第I章コイル電流波形の違いが誘導電界の向きと誘発反応の関係に与える影響

 【方法】本章では,コイル電流の相の数の問題を単純化し,立ち上がり時間の等しい単相性及び2相性のコイル電流を用いた場合だけを扱った.神経系の複雑な形態及び機能に由来する要因と,生体を構成する物質の複雑さに由来する要因とを単純化するため,刺激の対象として正中神経を選び,誘導電界の方向は,二つの方向に限った.8字コイルの電流の2つの向き(近位向き:PROXと遠位向き:DIST)と,2つのコイル電流波形(単相性:MONOと2相性:BI)とを組み合わせた4つの刺激条件(MONO-PROX,MONO-DIST,BI-PROX,BI-DIST)で,1)閾刺激強度,2)誘発筋電図の振幅,3)反応の潜時,がどう変化するかをヒトでの刺激実験で調べた.左正中神経を肘部で刺激し,短母指外転筋から誘発筋電図を記録した.ヒトでの実験のあと,コンピュータシミュレーション解析を行って,両者の結果を比較した.

 【結果】ヒトでの刺激実験:閾刺激強度はBI-DISTで最も小さく,MONO-DISTで最も大きかった.MONO-PROXとBI-PROXでは有意差がなかった.誘発筋電図の振幅が大きい順に,BI-DIST,BI-PROX,MONO-PROX,MONO-DISTであった.出力を増すとMONO-PROX,BI-PROX,BI-DISTの3つの条件の潜時が,MONO-DISTの潜時よりも短い一定の値で一致した.コンピュータシミュレーション:BIのほうがMONOより閾刺激強度が低かったが,コイル電流の方向の影響はなかった.ヒトでの実験同様,充電電圧を上げると,MONO-PROX,BI-PROX,BI-DISTの潜時が等しくなった.

 【考察】閾刺激強度と振幅:誘導電界波形と基線の囲む面積が大きく,仮想陰極(神経に沿った誘導電界が負の大きな勾配を持つ部位)が仮想陽極(神経に沿った誘導電界が正の大きな勾配を持つ部位)より遠位側に生じるとき,閾刺激強度が小さくなり,振幅が大きくなるといえる.その理由として,波形の面積と膜を通過する電荷量が比例することと,仮想陽極における伝導ブロックが起きることが考えられた.誘導電界の方向によって,MONOの方がBIより閾刺激強度が高くなることあるが,その逆はない.また誘発筋電図の振幅は誘導電界の方向によらずBIの方が大きい.潜時:BI-DISTの2nd cathodeの遠位への広がりが,2nd cathodeでの活動電位の発生の時間的遅れを丁度相殺したために,3条件で潜時が一致すると考えた.

 【結論】

 1)神経磁気刺激における誘導電界のベクトル特性は,誘導電界波形と基線が囲む面積,及び仮想陰極と仮想陽極の位置関係によって決まる.

 2)誘導電界のある相において,この面積が大きく,かつ仮想陰極が仮想陽極よりも遠位に位置する場合に,最も有効な刺激が行われる.

 3)8字コイルによる末梢神経刺激で単相性コイル電流を用いる場合,コイル交点の電流が近位を向くときに,誘発筋電図の閾刺激強度が低く,振幅が大きい.

 4)同様の刺激で,2相性コイル電流を用いる場合,コイル交点の電流が遠位方向を向くようにときに,誘発筋電図の閾刺激強度が低く,振幅が大きい.

第II章末梢神経磁気刺激において軟部組織の不均一性が誘導電界の向きと誘発反応の関係に与える影響

 【方法】8字コイルを用いて肘部で正中神経を刺激する際,コイルの両翼が神経と平行で,かつ神経がコイルの交点直下を通るように保持した場合に,大きな振幅の誘発筋電図が得られることが報告されている.この結果は,均一導体中の神経を想定した従来のモデルでは説明できない.従来のモデルでは,神経に沿った誘導電界が負の大きな勾配をもつ部位(仮想陰極)で神経興奮が起きるとされるが,均一導体中の計算では,上に述べた刺激法で仮想陰極ができないからである.上記の現象を説明するため,本章では次のような仮説を立てた.「肘部で正中神経を磁気刺激する際,神経周囲の脂肪と筋肉の電気伝導度が異なるため,均一導体中での計算では生じないような仮想陰極が生じて,有効な刺激が起こる場合がある.」この仮説を検証するため,ヒトでの正中神経刺激実験と,容積導体モデル中の誘導電界測定実験を行った.ヒトの実験:単一被験者で,8字コイルを用いて肘部で正中神経を磁気刺激し,短母指外転筋から誘発筋電図を記録した.4つの異なるコイル電流方向(コイル交点の電流方向.近位:PROX,遠位:DIST,橈側:RAD,尺側:ULN)を用いた時の誘発筋電図の振幅の変化を調べた.また,磁気刺激による誘発筋電図の潜時を,電気刺激による潜時と比較することによって,コイル電流の方向と神経興奮の起こる部位との関係を調べた.モデル実験:脂肪を表す大水槽と,筋を表す小水槽の境界をセロハンで区切った.小水槽に0.9%,大水槽に0.1%食塩水を満たすことで,筋と脂肪の導電率の違いを表現する不均一モデルとした.小水槽と大水槽の境界付近に,境界と平行に神経の経路を仮想し,神経に沿った誘導電界を測定して,その空間勾配を計算した.コイル電流方向については,橈側:RADと尺側:ULNの二通りを調べた.不均一容積導体モデル中の仮想陰極の生じ方から,ヒトでの刺激実験の結果が説明可能であるかどうかを検討した.

 【結果】ヒトにおける正中神経刺激では,振幅が大きい順に,PROX,ULN,RAD,DISTであった.刺激が強いとき,ULNとPROXで振幅に差がなかった.ヒトにおいて推定した興奮部位は,ULNの条件ではモデル内の電界と一致したが,RADの条件では一致しなかった.

 【考察】1)8字コイルの両翼を神経と直交させたとき,刺激結果が均一モデルで説明でき,2)平行とした場合は説明できない,ことがわかった.生体の構造が複雑であるために,解剖学的構造を用いて上記1),2)の事態を説明するモデルは,過去に報告がない.本章では,濃度の異なる2つの電解質溶液を,それぞれ皮下脂肪と上腕二頭筋にみたてるという単純なモデル化により,上記1),2)の事態の説明ができた.RADの条件における,ヒトの刺激とモデル実験との興奮部位の不一致は,上腕二頭筋の形状を直方体でモデル化したために起きた可能性がある.ULNの条件ではコイル交点直下で起きた強い興奮が遠位側の筋に,途中で弱まらずに伝わるため,誘発筋電図の振幅が大きくなると考えられた.RADの条件では,弱い興奮が筋に伝わるか,もしくは強い興奮が途中で弱められてから筋に伝わることにより,振幅が小さくなると考えられた.

 【結論】

 1)単相性コイル電流を用いた肘部の正中神経磁気刺激で,8字コイルの交点を神経直上に置いて,コイルの両翼を神経と平行にした場合,コイル電流の向きによって誘発筋電図の振幅が異なる.

 2)この現象は,均一導体中の神経を想定したモデルでは説明できない.

 3)神経周囲の脂肪と筋肉に着目し,神経走行の両側に異なる導電率の容積導体を配した不均一モデルにより,この現象を説明できる可能性がある.

第III章一発の経頭蓋磁気刺激により誘発される起源の異なる複数の反応

 【方法】Wilsonらは,運動野の経頭蓋磁気刺激において,8字コイルの当て方によっては多相性の運動誘発電位(motor evoked potentials:MEPs)を誘発できることを示し,その早期成分は錐体路の直接刺激によるD波に,後期成分は錐体路の間接刺激によるI波に由来すると述べている.しかしこの説はMEPsの頂点潜時だけを根拠としたものである.シナプスを介するI波は経頭蓋2連発刺激による抑制を受けやすく,D波は受け難いと考えられているので,MEPsの異なる成分に対する2連発刺激の効果を比較することにより,Wilsonらの説を検証した.被験者は健常成人10名(男性8,女性2,24-33才)であった.条件刺激(1発目)は円形コイルを頭頂に置いて与え,コイル電流の向きは頭頂から見て時計回りとした.試験刺激(2発目)は8字コイル(外径7.3cm,内径5.3cm)を右運動野に置いて与え,コイル交点の電流の向きを内側から外側へ向かう向きとした.随意収縮下の第一背側骨間筋から多相性MEPsを記録した.条件刺激強度は閾刺激強度の80%,試験刺激強度は130-140%とした.多相性MEPsの陰性,陽性頂点を出現順にN1,N2,P1,P2と名付けた.基線からN1までの振幅を第1相の振幅N1-AMPと定義した.P1-N2振幅とN2-P2振幅の平均を第2相の振幅N2-AMPと定義した.刺激間隔(interstimulus interval:ISI)は1-7,10,15msとし,それぞれの条件で16回の刺激を行って2回ずつ加算平均を取り,8つの波形を得た.試験刺激単独の場合と各ISIで条件刺激と試験刺激を組み合わせた場合について,N1-AMP,N2-AMPを比較した.

 【結果】全てのISIにおいて試験刺激単独と2連発刺激でN1-AMPに有意差はなかった.N2-AMPはISIが1-5msで有意に抑制され,ISIが10msと15msの時有意に促通された.

 【考察】本章実験では多相性MEPsの早期成分と後期成分が2連発刺激によって異なる影響を受けることが示され,Wilsonらを支持する結果が得られた.本章の結果に対側条件刺激の影響があるとすれば,5ms以下のISIでの促通効果と5msより長いISIでの抑制効果があるはずだが,いずれも認められなかった.同側皮質からの抑制効果は,条件刺激が閾下の時最も強いのに対し,対側からの効果は条件刺激が強いほど明らかであることを考え合わせると,本章実験におけるN2-AMPの変化に対し,対側皮質刺激の影響は存在しないか又は同側皮質刺激の影響に打ち消されていたと考えられる.

 【結論】

 1)8字コイルを用いて,コイル電流が内側から外側へ向かうように運動野磁気刺激を行い,第1背側骨間筋から多相性MEPsを記録した.

 2)この多相性MEPsの後期成分は2連発刺激により刺激間隔1-5msで抑制,10,15msで促通されたが,早期成分は影響を受けなかった.

 3)早期成分は錐体路のシナプスを介さない直接刺激によって,後期成分はシナプスを介した間接刺激によって誘発されていると考えられた.

審査要旨

 本研究は,磁気による神経刺激について,1)コイル電流波形(単相性と2相性)によって誘導電界の向きと誘発反応の関係がどう変わるか,2)容積導体の導電率の不均一性が誘導電界の向きと誘発反応の関係にどのような影響を与えるか,3)特定の方向の誘導電界を用いた経頭蓋刺激により錐体路の直接刺激が可能であるかどうかを調べたものであり,以下の結果を得ている.

 1.立ち上がり時間の等しい単相性コイル電流と2相性コイル電流,近位向きと遠位向きの誘導電界を組み合わせた4つの条件で,8字コイルによるヒト正中神経刺激を行った.閾刺激強度,誘発筋電図の振幅・潜時が条件によりどう変わるかを見た.また有髄神経モデルによる神経膜電位の興奮シュミレーションも行い,閾刺激強度と潜時を計算した.

 ヒトでの刺激実験:閾刺激強度は2相性電流で誘導電界が近位向きの時に最も小さく,単相性電流で誘導電界が近位向きの時に最も大きかった.誘導電界が遠位向きの時には,単相性電流と2相性電流で有意差がなかった.刺激強度を増すと単相性電流・誘導電界誘導電界近位向き以外の3つの条件で,潜時が一致した.

 コンピュータシミュレーション:2相性コイル電流のほうが単相性コイル電流より閾刺激強度が低かったが,誘導電界の方向の影響はなかった.充電電圧を上げると,単相性電流・誘導電界誘導電界近位向き以外の3つの条件で,潜時が一致した.

 2.0.1%食塩水と0.9%食塩水をセロハンシートで隔てた二重水槽で不均一容積導体モデルを作成した.モデルの底面から8字コイルで磁気刺激を行い,モデル内の誘導電界分布を測定した.測定された誘導電界分布から神経活動電位の発生部位を推定した.またヒト正中神経を8字コイルで刺激して誘発筋電図の潜時を求め,電気刺激による潜時との差から神経興奮部位を推定した.不均一モデルでの測定結果とヒトでの刺激結果を比較して,モデル実験の妥当性を検証した.不均一容積導体中では,2種の導体の境界上に神経活動電位を生じるような誘導電界分布ができることがわかった.

 3.健常成人10名を被験者とし,頭頂においた円形コイルで条件刺激を,右運動野においた8字コイルで試験刺激を与え,随意収縮下の第一背側骨間筋から誘発筋電図を記録した.8字コイルによる誘導電界は内側から外側へ向かう向きとし,誘発筋電図が多相性となるようにした.条件刺激と試験刺激の間隔(interstimulus interval:ISI)を変えて,筋電図の第1成分と第2成分の振幅の変化を調べた.ISIは1-7,10,15msとした.

 筋電図の第1成分の振幅はISIによらなかった.第2成分の振幅はISIが5ms以下の時抑制され,10,15msの時促通された.2連発刺激による抑制は抑制性介在ニューロンの働きによって起こると考えられている.第1成分が抑制を受けなかったことから,この成分は錐体路の直接刺激に由来すると考えられた.

 以上,本論文は神経磁気刺激における誘導電界の方向と誘発反応の関係に対して,コイル電流波形,容積導体の不均一性が及ぼす影響を明らかにした.また経頭蓋磁気刺激において,誘導電界の方向を調節することで錐体路の直接刺激が可能であることを明らかにした.本研究は神経磁気刺激の臨床応用に必要な基礎的研究であり,学位の授与に値するものと考えられる.

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