学位論文要旨



No 113690
著者(漢字) 山本,太郎
著者(英字)
著者(カナ) ヤマモト,タロウ
標題(和) 日本における妊婦クラミジアトラコマティス感染の疫学と危険因子に関する研究
標題(洋) A Study on the Seroprevalence and Risk Factors of Chlamydia trachomatis Infection among Pregnant Women in Japan
報告番号 113690
報告番号 甲13690
学位授与日 1998.03.30
学位種別 課程博士
学位種類 博士(保健学)
学位記番号 博医第1351号
研究科 医学系研究科
専攻 国際保健学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 吉倉,廣
 東京大学 教授 川名,尚
 東京大学 教授 ソムアツ,ウオンコムトン
 東京大学 教授 徳永,勝士
 東京大学 助教授 福岡,秀興
内容要旨 「背景」

 クラミジアトラコマティス感染症は非淋菌性尿道炎や骨盤炎症性疾患の原因となることが報告されている。また、近年の疫学調査などによりクラミジアトラコマティス感染症が異所性妊娠や不妊の原因となることも明らかになってきた。さらに、妊婦クラミジアトラコマティス感染は母子感染を介して新生児に結膜炎や肺炎を引き起こすことが知られており公衆衛生上の関心を集めている。

 一方、HIV高感染地域の途上国においても、クラミジアトラコマティス感染症を始めとする性感染症の存在はHIV易感染の原因となることが知られており、大きな注目を集めている。

 クラミジアトラコマティス感染症の診断技術は1980年代に入り急速に進歩した。その結果、無症候性感染者が多数存在することが明らかになったと同時に、妊婦や大学生の間にも感染が広がっていることが分かってきた。しかし、クラミジアトラコマティス感染の動向については現在までのところ、一定の見解が得られていない。その原因として、診断技術の進歩により、過去のデータと現在のデータを単純に比較することが困難であるといったことやクラミジアトラコマティス感染に対する関心の高まりによって、報告感染者数が増加したといった側面が指摘されていた。そこで、本調査ではクラミジアトラコマティス感染の近年の動向を明らかにすることを目的として、10年前、5年前及び現在の妊婦に対し同一の検査を用いて血清クラミジアトラコマティス抗体保有率調査を行うこととした。

 一方、以前から、クラミジアトラコマティスは再感染を起こすことや年齢コホート抗体保有率がコホートの年齢が上昇するのにともない低下することが知られていた。この事実は血清クラミジアトラコマティス抗体が時間の経過とともに消失して行く可能性を示している。しかし、血清クラミジアトラコマティス抗体が感染または感染治癒後、どのくらいの期間で、どの程度陰転化していくのかについて調べた研究は現在までのところ存在しない。そこで本研究では、血清クラミジアトラコマティス抗体の陰転化がどのくらいの期間で、どの程度起こるのか検討することにした。

 クラミジアトラコマティス感染に対する危険因子の解析は諸外国から幾多の報告があるが、日本において現在まで詳細な調査は行われていなかった。しかし、今後、性感染症予防対策を立案、推進していく上で日本人に対する危険因子の解析は欠かすことのできない調査である。そこで、質問紙を用い、クラミジアトラコマティス感染に対する危険因子の解析を行うこととした。

「対象と方法」

 対象:1996年6月から1997年5月にかけて妊婦検診に参加した9,652名に対し血清クラミジアトラコマティス抗体スクリーニングを行い、年齢階級別の陽性率を調べた。さらに、1997年6月から9月にかけてクラミジアトラコマティス抗体スクリーニング参加者に対し質問紙による調査を行った。回答者の総数は1,025名であった。

 保存血清:現在の妊婦クラミジアトラコマティス抗体陽性率と5年前、10年前の抗体陽性率を比較するために1987年と1992年に採取、冷凍保存されていた妊婦血清を年齢層化無作為抽出法を用い、1987年保存血清から275検体、1992年保存血清より297検体抽出した。また、血清クラミジアトラコマティス抗体消失の有無を検討するため、三回以上出産を経験し、かつその時点で、血液を冷凍保存されていた妊婦を無作為抽出法にて85名抽出した。この85名の妊婦の保存血清は総計271検体であった。これらの保存血清に対し血清クラミジアトラコマティス抗体が測定された。

 抗体検査:血清クラミジアトラコマティス抗体は酵素抗体法(HITAZYME、日立化成)を用いて測定した。IgA、IgG抗体の内どちらか一方が陽性であれば、クラミジアトラコマティス抗体陽性として判定した。

 質問紙調査:自記式質問紙を用いて、対象者の年齢、職業、教育歴、初婚年齢、初回妊娠年齢、人工流産歴、初回人工流産年齢、妊娠回数、出産回数、コンドーム使用歴について質問を行い、回答を得た。

「結果」

 妊婦クラミジア抗体陽性率:10年前と5年前の妊婦クラミジア抗体陽性率を現在の陽性率と比較したところ、すべての年齢階層において10年前の抗体陽性率が最も高く、現在の陽性率が最も低率であった。さらに、年齢階層別のクラミジア抗体陽性率は妊婦の年齢が高くなるにしたがって低下していることが明らかになった。ただし、1987年および1992年の妊婦集団において40歳以上の妊婦のクラミジア抗体陽性率は20-24歳の妊婦集団と同程度の陽性率を示し、25-39歳の妊婦の陽性率よりは高かった。

 血清クラミジア抗体の陰転化:85名の妊婦から得られた271検体の保存血清に対しクラミジア抗体検査を実施したところ、最初の採血時に抗体陽性であった妊婦は33名(38.8%)であった。この33名の妊婦の内23名(69.7%)が5年以内に血清抗体が陰転化し、24名(72.7%)が10年以内に陰転化した。また,最初の採血時に抗体陰性であった55名の妊婦の内5名(9.6%)が5年以内に血清抗体が陽性となった。

 クラミジア感染の危険因子:質問紙調査により妊婦クラミジア抗体陽性率と関係のある因子を調べたところ(1)短い教育歴(2)低年齢での妊娠(3)人工流産の既往歴が妊婦クラミジア抗体陽性率と強い関連性を示した(p<0.001)。また、(4)低年齢での結婚(p=0.043)(5)低年齢での人工流産の経験(p=0.037)も抗体陽性率と関連性を有していた。

「考察」

 HIVや単純ヘルペスウイルスといったウイルス性の感染症の場合と異なり、血清クラミジアトラコマティス抗体の陰転化は頻繁に見られる現象であることが分かった。このことはクラミジアトラコマティスの血清抗体陽性率が、過去からの累積感染者数を反映しているのではなく、過去からの累積感染者数から抗体の陰転化例が取り除かれたうえに新たな感染例が加わった状態を反映している。

 日本におけるクラミジアトラコマティス感染の動向に関してはこれまでに幾つかの報告があるが、一定の見解が得られていない。しかし、全ての年齢階層において10年前の妊婦クラミジア抗体陽性率が最も高く、現在の陽性率が最も低率であり、5年前の陽性率はその中間であったという本調査における結果は、少なくとも妊婦集団において過去10年間に感染の拡大は見られなかったことを示している。本調査で見られたクラミジアトラコマティス抗体陽性率の変化がどのような要因によってもたらされたかについてはさらに詳しい調査が必要であるが、HIV感染予防活動がクラミジアトラコマティス感染を始めとする性感染症に与えた影響に付いて考慮する必要があると考える。

 さらに、年齢階層別クラミジア抗体陽性率は妊婦の年齢が高くなるにしたがって低下していることが明らかになったが、40歳以上の妊婦はその傾向からはずれていた。そこで、質問紙調査により得られた結果をもとに、40歳以上の妊婦の特徴をみてみると、教育歴が短く、人工流産経験者の割合が高く、コンドーム使用経験の無い者の割合が高いことが分かった。一方、質問紙調査の結果より(1)短い教育歴(2)低年齢での妊娠(3)人工流産の既往歴がクラミジアトラコマティス抗体保有率と強い関連性を有することが分かった。40歳以上の妊婦はこれらの要因の内二つの要因を有していた。現在まで,高齢妊婦を対象としたクラミジアトラコマティス感染のリスク評価に関する報告はほとんどないが今回、本調査から得られた結果は、高齢妊婦がハイリスクである可能性を示唆している。

 最後に、質問紙調査により(1)短い教育歴(2)低年齢での妊娠(3)人工流産の既往歴(4)低年齢での結婚(5)低年齢での人工流産の経験といった要因を有する妊婦集団はクラミジアトラコマティス感染に対してハイリスクである可能性が示唆された。従って今後、性感染症予防教育を始めとする予防活動を進めていく上でこれらの集団に対する啓蒙活動はより重要になると思われる。

審査要旨

 本研究はクラミジアトラコマティス感染の近年の動向を明らかにすることを目的として10年前、5年前及び現在の妊婦に対し同一の検査を用いて血清クラミジアトラコマティス抗体保有率調査を行った。また、クラミジアトラコマティス感染に対する危険因子の解析は今後、性感染症予防対策を立案、推進していく上で日本人に対する危険因子の解析は欠かすことのできない調査であるため、質問紙を用い、クラミジアトラコマティス感染に対する危険因子の解析を行った。その結果、以下のような知見を得た。

 1.10年前と5年前の妊婦クラミジア抗体陽性率を現在の陽性率と比較したところ、すべての年齢階層において10年前の抗体陽性率が最も高く、現在の陽性率が最も低率であった。さらに、年齢階層別のクラミジア抗体陽性率は妊婦の年齢が高くなるにしたがって低下していることが明らかになった。

 2.上記1.で得た疫学的研究結果から血清クラミジア抗体消失の可能性が示唆されたため、凍結保存血清に対しレトロスペクティブ・コホート調査を行い、クラミジア抗体消失の可能性を検討したところ、33名の妊婦の内23名(69.7%)の血清クラミジア抗体が5年以内に血清抗体が陰転化し、24名(72.7%)が10年以内に陰転化した。

 3.質問紙調査により妊婦クラミジア抗体陽性率と関係のある因子を調べたところ(1)短い教育歴(2)低年齢での妊娠(3)人工流産の既往歴が妊婦クラミジア抗体陽性率と強い関連性を示した(p<0.001)。また、(4)低年齢での結婚(p=0.043)(5)低年齢での人工流産の経験(p=0.037)も抗体陽性率と関連性を有していた。

 以上、本論文は妊婦クラミジアトラコマティス抗体保有率の過去10年の動向を明らかにしたと共に、血清クラミジアトラコマティス抗体消失のの可能性を強く示唆し、以てクラミジアトラコマティス抗体保有率の持つ意味にまで踏み込んだ論文であった。また、日本人妊婦のクラミジアトラコマティス抗体保有率と関連を有する因子について学歴や中絶経験にまでおよぶ検討、解析を行っており、今後のクラミジアトラコマティス感染を研究していく上で、重要な貢献をしたと考えられ、学位の授与に値するものと考えられる。

UTokyo Repositoryリンク http://hdl.handle.net/2261/54020