学位論文要旨



No 113699
著者(漢字) 高松,善宏
著者(英字)
著者(カナ) タカマツ,ヨシヒロ
標題(和) リガンド・受容体間結合自由エネルギーの予測
標題(洋)
報告番号 113699
報告番号 甲13699
学位授与日 1998.03.30
学位種別 課程博士
学位種類 博士(薬学)
学位記番号 博薬第818号
研究科 薬学系研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 首藤,紘一
 東京大学 教授 嶋田,一夫
 東京大学 教授 海老塚,豊
 東京大学 助教授 小田嶋,和徳
 東京大学 講師 加藤,晃一
内容要旨 【研究の目的】

 薬物開発の過程において、設計されたリガンドが標的となる生体高分子(以下受容体と呼ぶ)に特異的に結合することは活性発現の必須条件である。受容体の3次元構造情報が手に入る場合には、それに基づいて計算機上でリガンドを設計するという手法が非常に有効である。こうした情報の利用により新規リガンドの発見やその最適化過程において構造的示唆が得られるだけでなく、受容体に対する結合定数Kaを計算予測することでリガンド候補選択の労力が大幅に節約できる。Kaは結合の自由エネルギーGbindと式(1)の関係にあるため、Kaの予測はGbindの予測と等価である。

 

 現在までのところGbindの予測を目的とする手法は数多く発表されているが、そのいずれも一般性・簡便性・精度などの点で問題があり、実際のリガンド設計に応用されるに至っていない。よって私はこれらの問題点を解消したGbind予測法の開発を目的として研究を行った。

Fig.1 リガンド・受容体結合過程
Gbindの定式化】

 リガンド・受容体の結合の過程をFig.1のように分解して考える。まず分子が接触面で脱溶媒和(GdesolvES)を受ける。続く会合の過程でリガンド重心の並進と回転の自由度及び分子内自由度が消失(Gtr-rot,Gconf)し、その一方で分子間立体反発(Grep)・疎水性相互作用(GHphob)・分子間静電相互作用(GinterES)が形成される。そこでGbindを(2)式のように、各自由エネルギー項にcdE,ctr,ccf,etc.の係数をかけた和で表現することにした。

 

 式中の各エネルギー項の中身についても独自の定式化を行った。

(1)脱溶媒和エネルギー静電項GdesolvES

 分子表面の一部での脱溶媒和エネルギー静電項GdesolvESを直接測定する方法はなく、また計算に用いる理論式も一般的で簡便な形のものは確立していない。そこで本研究では部分表面についてのGdesolvESに対し独自の定式化を行い、実測可能な分子全体の溶媒和自由エネルギーGsolvのデータを利用して式中のパラメターを決定することにした。

 GdesolvESは、溶質分子表面の誘起表面電荷が分子同士の接触によって取り除かれる時のエネルギーと考える。これを計算するためまず分子表面を微小表面要素Sに分割し、要素i上での複合体形成により取り除かれる誘起表面電荷密度を今回独自に考案した(3)式で計算する。

Fig.2 実験値Gsolvと計算値GsolvESの比較

 

 ここでex(i)は要素iが属する原子の複合体形成時の露出率で、疎水コアに近いパッキングをうけている時は0、溶媒に露出している時は1に近い値をとる。0,wは各々真空中・溶媒中での誘電率、は溶質分子の原子電荷由来の電場、は表面要素に垂直な単位ベクトルである。

 GdesolvESはこの誘起表面電荷と溶質分子の原子電荷の相互作用から(4)式により計算する。

 

 (3)式で分子全体についてを計算し(4)式の符号を逆転させれば、溶質分子全体の溶媒和自由エネルギー静電項GsolvESを計算できる。溶媒和自由エネルギーGsolvのうち最も大きな寄与はこの静電項GsolvESであると考えられるので、GsolvGsolvESとしてよいであろう。この計算法は3個のパラメターを必要とするが、これらは計算値GsolvESが実験値Gsolvを再現するように決定した。Fig.2にパラメター決定に用いた120個の低分子化合物について実験値Gsolvと計算値GsolvESを比較した結果を示す。

 受容体側のGdesolvESは最終的な結果に影響しないことが確かめられたので、この項はリガンド側についてのみ計算する。

(2)リガンドの並進・回転自由度消失Gtr-rot

 リガンド重心周りの自由度消失の効果はリガンドによらないので定数とした。

 

(3)リガンド分子内の自由度消失Gconf

 リガンド分子内のsp3型bond数に比例すると考える。メチル基などの末端のbondや露出率が大きいbond、環に含まれるbondは自由度消失の効果が小さいので数えない。

 ただし7員環以上の環についてはflexibilityを考慮に入れた。

 

(4)リガンド・受容体間の立体反発Grep

 vdW potential(AMBER力場を使用)のうち12乗反発項を用いるが、induced fitを考慮に入れるため受容体側の原子の露出率でスケーリングする。

 

(5)疎水性相互作用GHphob

 これまでの方法では分子間接触表面積に単純に比例する形の定式化が一般的であった。しかし本研究では分子間接触表面積のうち相手分子のvdW表面と密着している部分をhydrophobic contact surfaceと定義して、これに比例する形での定式化を行った。

 

(6)分子間静電相互作用GinterES

 形式上は古典的なクーロン相互作用を用いる。誘電率については実験的に求められた実効誘電率関数を参考にしつつ、露出率に応じて変化する関数形を独自に考案した。

 

Gbind計算式中のパラメター決定】

 このGbind計算法には(2)式中の6個の係数、(9)式中のcEPS及び露出率計算の半径Renvの合計8個のパラメターが必要である。これらは全てGbind計算値が実験値を再現するように重回帰計算を用いて決定した。決定はArabinose binding protein9複合体、Avidin28複合体、Sialidase 17複合体、Trypsin40複合体、Dihydrofolate reductase37複合体の合計131複合体について実行した。パラメター決定の結果をFig.3に示す。また比較のため、分子力場のエネルギー項(静電項・vdW項)のみで重回帰を行った結果をFig.4に示す。図中の破線は誤差±2.0kcal/molを示す。今回開発したGbind計算法は、従来の分子力場のエネルギー項のみによる計算法に比べ実験値からのr.m.s.誤差を大幅に改善した。

Fig.3本研究での結果Fig.4従来の分子力場
【検証】

 上でパラメターを決定した(2)式を用いて、パラメター決定に用いていないThymidylate synthase24複合体、HIV-1protease42複合体、FKBP35複合体についてGbindを計算し、本方法を検証した(Fig.5)。その結果、本方法はこれらの系についてもパラメター決定に用いた系と同じ程度のr.m.s.誤差(〜1.5kcal/mol)でGbindを予測できた。結合定数Ka自体が測定法の違いなどで1桁程度(〜1.4kcal/mol)の誤差を生じうることを考えれば、充分満足すべき結果といえる。同様に分子力場計算についても上で決定したパラメターを用いてこれら3つの系で計算を行ったところ、FKBPについてはr.m.s.誤差1.2kcal/molという良い結果を与えたものの、Thymidylate synthase,HIV-1 proteaseでは各々3.0kcal/mol,3.3kcal/molという大きなr.m.s.誤差を生じた。このことからも本方法の優位性は明らかである。

Fig.5 検証例左からThymidylate synthase,HIV-1 protease,FKBP
【まとめ】

 多様な性質の受容体および多様な骨格を持つリガンドに対して、広い範囲で精度良くGbind、従って結合定数Kaを予測できる計算法を開発した。本方法は計算コストの点でも負担が少なく簡便である。この方法を予測的に用いることにより、創薬におけるリード創製・改良などの過程を大幅に効率化できると期待される。

審査要旨

 医薬開発においては標的受容体に強く結合するリガンド構造の設計がまず重要である。近年、コンピュータを利用したリガンド設計手法が進歩し、受容体の立体構造から新規のリガンド構造についての示唆が得られるようになった。しかし、さらに任意のリガンド構造について標的受容体に対する結合定数を予測する方法があれば、リード創製やリード最適化過程で無駄な合成を省き、医薬開発の効率化に役立つと思われる。これまでGbindの予測を目的とする研究は多数報告されているが、いずれも一般性・簡便性・精度などの点で問題があり、利用されていない。

 上記のような背景の下で、高松善宏は、結合自由エネルギーGbindを計算的に求める新規方法(結合定数を予測することと等価)を考案・開発する研究を行った。

 まず、図1のようにリガンドと結合の過程を脱溶媒和と会合の過程に分解し、Gbindを6ヶのエネルギー項(脱溶媒和エネルギー静電項GdesolvES、リガンドの並進・回転自由度消失のエネルギーGtr-rot、リガンド分子内の自由度消失のエネルギーGconf、リガンド・受容体間の立体反発エネルギーGrep、疎水相互作用エネルギーGHphob、分子間静電相互作用エネルギーGinterES)の和で表現することにした。

図1

 問題はその定式化である。とくに、物理的な理論付けすら確立されていない脱溶媒和エネルギー静電項GdesolvESについては、全く独自に次のような定式化を行った。分子表面の一部でのGdesolvESを直接に測定する方法はないので、本研究では、部分表面についてのGdesolvESを実測可能な分子全体の溶媒和自由エネルギーGsolvのデータを利用して式中のパラメータを決定できる計算式を考案した。溶質分子表面の微小表面要素に分割した要素毎に複合体形成により取り除かれる誘起表面電荷密度を計算し、表面誘起電荷と溶媒分子の原子電荷の相互作用からGdesolvESを計算することにした。式中の3ヶのパラメータは、120ヶの低分子化合物の溶媒和エネルギーの実測値を用いて決定した。

 次に、Gbindを計算するために、5ヶの酵素系で結合定数が既知な37ヶのリガンドについて酵素との複合体構造を用いて、各エネルギー項の係数および他のパラメータを決定した。最後に、本方法の有効性を検証するため、パラメータ決定に用いていない3ヶの酵素系(チミジル酸合成酵素、HIV-プロテアーゼ、FKBP)で、結合定数が既知な35ヶのリガンドについて、結合定数を予測し、実測値との一致を調べたところ、平均自乗偏差は約1.4kcal/mol(結合定数にして1桁程度)であった。比較のため分子力場のみを用い、エネルギー項間の重み付けを最適化して求めたエネルギー値では3.3kcal/molの誤差を生じたことからも本方法の有効性が証明された。

 以上、本研究は、多様な性質の受容体と多様な骨格のリガンドに対して、広い範囲で精度よく予測でき、計算コストも少なく簡便に計算できるなど、結合定数及び結合自由エネルギーの優れた計算法の考案・開発に成功したものであり、薬化学、医薬分子設計学の発展に寄与するところ大であり、博士(薬学)に相応しいと認めた。

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