学位論文要旨



No 113702
著者(漢字) 濱野,武士
著者(英字)
著者(カナ) ハマノ,タケシ
標題(和) 分子歪みを有する縮合芳香環の化学
標題(洋)
報告番号 113702
報告番号 甲13702
学位授与日 1998.03.30
学位種別 課程博士
学位種類 博士(薬学)
学位記番号 博薬第821号
研究科 薬学系研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 長野,哲雄
 東京大学 教授 柴崎,正勝
 東京大学 教授 嶋田,一夫
 東京大学 助教授 小田嶋,和徳
 東京大学 助教授 樋口,恒彦
内容要旨 【序論】

 C60に代表されるフラーレン類は、ダイヤモンド、グラファイトに続く炭素第3の同素体である。これらは近年その構造、物性、化学反応性などの基礎研究から、機能性材料や生理活性物質としての応用研究にいたるまで広範な研究が展開されている。

 C60の構造はOsO4付加物のX線結晶構造解析から直径約7Åのサッカーボール状というユニークな構造であることが実験的に示されており、また化学反応性も通常の芳香環とは異なり、電子欠損性の二重結合と類似の反応性を示すことが知られている。このようにフラーレン類は従来の有機化合物にはない特徴的な構造および化学反応性を有しているが、私はより一般的に「分子歪みを有する縮合芳香環」としてフラーレン類を捉え、歪みを有する低分子モデル化合物を用いた検討により、フラーレンの歪み構造に由来する化学反応性の特徴を説明することを試みた。

 またC60の物理化学的性質として、光依存的に高収率で一重項酸素を生成することが挙げられる。一重項酸素は癌の光線力学療法の活性本体であり、フラーレン誘導体によるin vitroでの光依存的DNA切断活性も報告されるなど応用的展開が期待される。本論後半では、付加数やフラーレン骨格上の付加位置を系統的に変化させた一連のC60誘導体群の一重項酸素生成能を比較し、フラーレン骨格の誘導化による一重項酸素生成能の変化を考察した。

【縮合芳香環の反応速度に及ぼす分子歪み効果】置換フェナンスレン系〜分子歪み効果の分離〜

 フラーレン類の芳香族性は理論的、実験的に実証されているが、電子欠損性のオレフィン的な化学反応性を示す。私はこのようなフラーレン類の化学反応性の特徴が芳香環の分子歪みに起因しているのではないかという作業仮説に立ち、縮合芳香環の反応速度に及ぼす分子歪み効果を検討した。

Figure1 置換フェナンスレンの構造

 縮合芳香環の反応速度と分子歪み効果を定量的に議論する際の最大の問題点は、歪み効果を他の電子的効果から以下に分離するかという点である。この問題をクリアすることができる数少ない系として置換フェナンスレン系を用いた。フェナンスレン環は4、5位(ベイ領域)への置換基導入によってらせん型に歪むことが知られているが、2、7-二置換フェナンスレンを平面性のコントロール化合物として用いることが可能であり、これによって他の置換基効果と分子歪み効果の分離が可能であると考えた。2、7位の置換基は反応点である9、10位に対して4、5位とほぼ同等の置換基効果(inductive効果、mesomeric効果)を有しており、また立体的にも反応点に及ぼす影響が小さいと考えられるからである。

 また、フェナンスレン環を用いる他の利点としては、置換基の種類によって歪みの大きさを変えることができるという点が挙げられる。これは分子歪み効果の定量化という目的には不可欠な要請である。合成した基質の構造をFigure 1に示す。

OsO4による反応(基質のHOMOの関与する反応)

 基質のHOMOの関与する反応としてOsO4による9、10位のシスジオール化を行った。反応は擬一次条件下、4,5-DXPと2,7-DXPの競争反応として行い、後処理後にGC/SIM法により生成物の定量を行った。分子歪みの尺度としてはX線結晶構造解析より得られたベイ領域の二面角(4-4a-5a-5)を用いた。k45/k27は、4,5-DXPと2,7-DXPの反応速度比を示す。すべての置換基においての増加に伴って4,5-DXPの反応の加速が見られた。電子吸引性基、電子供与性基に関わりなく、依存性の加速効果が得られたことは通常の置換基効果ではなく、分子歪み効果によるものであることを示唆していると考えられる。またFigure 2に示すようにln(k45/k27)はに対してほぼ直線的な伸びを示すことから、反応速度に及ぼす分子歪み効果は、Hammett則と類似の定量的取り扱いが可能であることが示唆された。すなわち、歪み角を近似的にHammett則での値として用いることによって、分子歪み効果と反応速度の関係を定量化することができると考えられる。

Figure2 OsO4による反応
Red-Alによる反応(基質のLUMOの関与する反応)

 次に基質のLUMOの関与する反応としてRed-Al(sodium bis(2-methoxyethoxy)aluminum hydride)による9、10位の還元反応を行った。X=Clの場合は、クロル基が還元されたと思われる生成物が得られた。Clを除くすべての置換基において4,5-DXPの反応の加速が見られ、また反応の加速はほぼの増加に伴って大きくなっていることが明らかとなった。本反応でも置換基の電子的性質に関わりなく加速効果が得られたことは、この加速が分子歪み効果によるものであることを示唆している。また、Red-Alによる反応ではOsO4による反応に比較して反応の加速効果が大きく、もっともの小さいX=Fの場合でも9.7倍の加速効果が得られた。また、ln(k45/k27)値をに対してプロットすると、Red-Alの反応ではOsO4の時のような直線性は得られず、=30付近で飽和しているグラフが得られた。

Figure3 Red-Alによる反応
基質のHOMO/LUMOの見積もりによる分子歪み効果の考察

 OsO4,Red-Alによる反応で得られた結果を考察するために、基質のHOMO,LUMOレベルの見積もりをサイクリックボルタンメトリーおよびUV/Visスペクトルの測定によって行った。EHOMOELUMOは、各々2,7-DXPを基準としたときの4,5-DXPのHOMOレベル、LUMOレベルを示している。これらをに対してプロットすると、メトキシ基を除いての増大に伴ってほぼ直線的にHOMOレベルの上昇、LUMOレベルの低下が見られた。これは次のように説明される。Figure4には無置換のphenanthreneのHOMO,LUMOの分布を示しが、9,10位におけるHOMO,LUMOの係数は大きく、HOMO,LUMOレベルは分子歪み効果の影響を受けやすい。またC9-C10についてHOMOでは結合間に節を持たず、LUMOでは節を持つことから、分子歪み効果によってローブの重なりが小さくなるとHOMOは不安定化、LUMOは安定化し、その結果Figure4のような結果が得られたと考えられる。

Figure4 置換フェナンスレンのEHOMO,ELUMO

 このように、分子歪み効果によって依存的なHOMOレベルの上昇、LUMOレベルの低下が起こり、その結果HOMO側、LUMO側共に依存的な反応の加速が見られたと考えられる。

 分子歪み効果を通常の置換.基効果と比較した場合、通常の置換基効果では電子供与性基を導入すると、HOMOレベル,LUMOレベルともに上昇するためにHOMO側では反応が加速、LUMO側では減速する。同様に電子吸引性基の場合、HOMOレベル、LUMOレベル共に低下するためにHOMO側で反応が減速、LUMO側では加速される。このように通常の置換基効果はHOMO側の反応とLUMO側の反応に対して反対の効果を及ぼすが、分子歪み効果ではどちらの反応も加速すると点で通常の置換基効果とは質的に異なっている。また、HOMO側の反応とLUMO側の反応とではLUMO側の加速効果が大きいが、これは序論で述べたフラーレンの反応性と一致しており、分子歪み効果がフラーレンの反応性を規定する要因となっていることの傍証であると考えている。

Figure5 分子歪み効果と通常の置換基効果の比較
【C60誘導体の一重項酸素生成能】

 フラーレン類の特徴の一つである光依存的一重項酸素生成能の検討を種々のC60誘導体を用いて行った。検討に用いたC60誘導体の構造をFigure6に示す。誘導体を隣接位付加物(エポキシド類)、遠隔位付加物(マロン酸ジエチル誘導体)に分類し比較を行った。結果をTableに示す。一重項酸素生成能は一重項酸素が基底状態に戻る際の1268nmの発光強度(I)、および発光強度を励起光波長(Arレーザー、514.5nm)での各化合物のモル吸光係数で除した値(I/)(それぞれC60に対する相対値)で示した。I/値は一重項酸素生成の量子収率と相関する値であり、この値で比較した場合エポキシド類、マロン酸ジエチル誘導体ともに付加数の増加に従ってI/が減少傾向にあることが明らかとなった。また、1と2との比較から、モノ付加体ではフラーレン骨格に付加している官能基の種類によらずI/はほぼ一定であるのに対して、ビス付加体、トリス付加体(3〜5、6〜8)については、マロン酸ジエチル誘導体に比較してエポキシド類の増感能が著しく減少していた。モノ付加体の結果から、官能基の電子的な影響は小さいとすると、付加位置によるパイ共役系のとぎれ方の違いが生成能に影響していると考えられる。また4と5ではほとんど同じ生成能を有することから、この生成能の減少は隣接位に限って起こるものである。ビス付加体についで隣接位付加と遠隔位付加を比較してみると、パイ共役系の数は等しく(56系)、sp3炭素の数もともに4個であるが、sp3-sp3結合の数は隣接位付加で3本、遠隔位付加で2本である。誘導化による歪みの解放という点から見ると、隣接位付加では2つの官能基が相乗的に歪みの解放に働いており、歪みの解放効果が大きい。これに対して遠隔位付加では歪みの解放に対して2個の官能基がそれぞれ別個に働くために解放効果が小さいと考えられる。付加数と一重項酸素生成能の相関の結果も合わせ考えると、C60骨格の歪みが解放されているほど、一重項酸素生成能が減少する、と考えられる。

Table C60誘導体の一重項酸素生成能

 また生成する一重項酸素の絶対量に対応するI値で比較した場合には、マロン酸ジエチルのビス付加体(4、5)が最大となり、実際のPDT等への応用を考える上では、付加物の数と位置の制御が重要であるといえる。

 このように、フラーレン誘導体の一重項酸素生成能は付加物の位置および数によって制御されうること、特に隣接位付加によって大きな変化が得られることを示した。これは今後様々な機能を付与したフラーレン誘導体を合成していく上で重要な知見である。

Figure6 C60誘導体の構造
審査要旨

 C60に代表されるフラーレン類は,ダイヤモンド,グラファイトに続く炭素第3の同素体である.C60は直径約7Åのサッカーボール状というユニークな構造を有しているが,濱野はこのフラーレン類を「分子歪みを有する縮合芳香環」として捉え,歪みを有する低分子モデル化合物を用いた検討により,フラーレンの歪み構造に由来する化学反応性の特徴を説明することを試みた.

 またC60の物理化学的性質として,光依存的に高収率で一重項酸素を生成することが挙げられる.一重項酸素は癌の光線力学療法の活性本体であり,フラーレン誘導体によるin vitroでの光依存的DNA切断活性も報告されるなど応用的展開が期待される.付加数やフラーレン骨格上の付加位置を系統的に変化させた一連のC60導体群の一重項酸素生成能を比較し,フラーレン骨格の誘導化による一重項酸素生成能の変化を考察した.

1.縮合芳香環の反応速度に及ぼす分子歪み効果

 フラーレン類は電子欠損性オレフィンと類似の化学反応性を示す.この化学反応性の特徴が芳香環の分子歪みに起因しているのではないかという作業仮説に立ち,縮合芳香環の反応速度に及ぼす分子歪み効果を置換フェナンスレン系を用いて検討した.フェナンスレン環は4,5位(ベイ領域)への置換基導入によってらせん型に歪むことが知られているが,2,7-二置換フェナンスレン(2,7-DXP)を平面性のコントロール化合物として用いることにより置換基効果と分子歪み効果の分離が可能である.

OsO4による反応(基質のHOMOの関与する反応)

 基質のHOMOの関与する反応としてOsO4による9,10位のシスジオール化を行った.反応は擬一次条件下,4,5-DXPと2,7-DXPの競争反応として行い,分子歪みの尺度としてはX線結晶構造解析より得られたベイ領域の二面角(4-4a-5a-5)を用いた.その結果,すべての置換基においての増加に伴って4,5-DXPの反応の加速が見られた.電子吸引性基,電子供与性基に関わりなく,依存性の加速効果が得られたことは通常の置換基効果ではなく,分子歪み効果によるものであると考えられる.

Red-Alによる反応(基質のLUMOの関与する反応)

 基質のLUMOの関与する反応としてRed-A1(sodium bis(2-methoxyethoxy)aluminum hydride)による9,10位の還元反応を行った.Clを除くすべての置換基において4,5-DXPの反応の加速が見られ,また反応の加速はほぼの増加に伴って大きくなることが明らかとなった.本反応でも置換基の電子的性質に関わりなく加速効果が得られたことは,この加速が分子歪み効果によるものであることを示唆している.また,Red-Alによる反応ではOsO4による反応に比較して反応の加速効果が大きく,もっともの小さいX=Fの場合でも9.7倍の加速効果が得られた.

基質のHOMO/LUMOによる分子歪み効果の考察

 OsO4,Red-Alによる反応で得られた結果を考察するために,基質のHOMO,LUMOレベルの見積もりをサイクリックボルタンメトリーおよびUV/Visスペクトルの測定により行った.その結果,分子歪み効果によって依存的なHOMOレベルの上昇,LUMOレベルの低下が起こり,HOMO側,LUMO側共に依存的な反応の加速が見られる事が明らかになった.

 通常の置換基効果はHOMO側の反応とLUMO側の反応に対して反対の効果を及ぼすが,分子歪み効果ではどちらの反応も加速する点で通常の置換基効果とは質的に異なっている.また,HOMO側の反応とLUMO側の反応とではLUMO側の加速効果が大きいが,これはフラーレンの反応性と一致しており,分子歪み効果がフラーレンの反応性を規定する大きな要因となっていることを示している.

2.C60誘導体の一重項酸素生成能

 フラーレン類の特徴の一つである光依存的一重項酸素生成能の検討を種々のC60誘導体を用いて行った.誘導体を隣接位付加物(エポキシド類),遠隔位付加物(マロン酸ジエチル誘導体)に分類し比較を行った.一重項酸素生成能は一重項酸素が基底状態に戻る際の1268nmの発光強度(I)を用い,その発光強度を励起光波長(Arレーザー,514.5nm)での各化合物のモル吸光係数で除した値(I/)で評価した.I/値は一重項酸素生成の量子収率と相関する値であり,この値で比較した場合エポキシド類,マロン酸ジエチル誘導体ともに付加数の増加に従ってI/が減少傾向にあることが明らかとなった.また,モノ付加体ではフラーレン骨格に付加している官能基の種類によらずI/はほぼ一定であるのに対して,ビス付加体,トリス付加体については,マロン酸ジエチル誘導体に比較してエポキシド類の増感能が著しく減少していた.この生成能の減少は隣接位に限って起こるものであった.誘導化による歪みの解放という点から見ると,隣接位付加では2つの官能基が相乗的に歪みの解放に働いており,歪みの解放効果が大きい.これに対して遠隔位付加では歪みの解放に対して2個の官能基がそれぞれ別個に働くために解放効果が小さいと考えられる.付加数と一重項酸素生成能の相関の結果も合わせ考えると,C60骨格の歪みが解放されているほど,一重項酸素生成能が減少する,と考えられる.以上,フラーレン誘導体の一重項酸素生成能は付加物の位置および数によって制御されうること,特に隣接位付加によって大きな変化が得られることが明らかになった.

 上記の研究は有機化学の基礎分野に重要な知見をもたらし,応用面への展開も期待できる.これらの点から濱野武士の研究は博士(薬学)の学位に値するものと認定した.

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