本論文は、固形癌を形成している癌細胞に対する特異的なT細胞免疫応答を利用した、新しい癌の免疫療法を目指す研究の成果から成り立っている。癌細胞に対する免疫応答を誘導するに当たって、MUC1ムチンを用いている点に大きな特徴がある。この分子は、細胞傷害性リンパ球による認識には必須とされている抗原提示分子である主要組織適合抗原(MHC)Class Iに依存しない腫瘍抗原であることが本論文に示されている。腫瘍に対する免疫応答を利用した癌の治療法の開発は、癌の治療法として理想的ではあるものの、認識される抗原に一般性が乏しく、特に上皮系の腺癌に特異的な抗原が多くは見つかっていないこと、腫瘍細胞が抗原提示に必須と考えられているMHC Class Iを欠失させることによって癌細胞が免疫学的な認識を回避すること、などの問題点が多かった。本論文の結果は、これらの腫瘍免疫研究の現状に新たな打開の方向性を与えるだけでなく、免疫学的にも謎に満ちていたCTL誘導の機構の解明にも資するものである。論文全体は、大きく二つの部分にから成る。前半では、ヒト癌患者由来リンパ球からMUC1ムチン特異的細胞傷害性リンパ球(CTL)を誘導することが、後半では、MUC1ムチンに特異的なマウスリンパ球由来のCTLを誘導しその性質を明らかにすることが目的とされている。 前半の記述は、二例の乳癌患者と三例の卵巣癌患者のリンパ球からMUC1ムチン特異的なCTLを誘導し、それらのCTLの性質を解明することに焦点が絞られている。CTLの誘導には、リンパ球を数種のMUC1ムチン陽性培養癌細胞とサイトカイン存在下に共培養するという方法が用いられた。増殖したリンパ球の癌細胞に対する細胞障害性は51Cr遊離測定法によった。これら五例のうち、一人の卵巣癌患者由来のリンパ球が著しく増殖し、刺激後3週間目にはCD8陽性でMHC拘束的に標的細胞を認識するCTLが増殖していることが判明した。患者由来のリンパ球を用いた合計数十例の試行のうちで、最も強力なCTLが得られたこの卵巣癌患者由来のリンパ球の例では、腫瘍細胞に発現するMUC1ムチンは認識相手ではなく、むしろCTL活性に対して抑制的に機能していることが明かとなった。さらに、O-結合型糖鎖がその抑制作用に重要であることが判った。以上の実験から、MUC1ムチン特異的なヒト由来のCTLを得ることは、材料が限られていること、個体差、CTLの性質の不安定性などから容易でないという結論が導かれた。 そこで、MUC1ムチン遺伝子をVaccinia Virus(VV)に組み込んだ組み換えウイルスでマウスを免疫することにより、MUC1ムチン特異的なCTLを誘導する実験が次に試みられた。種々の条件で免疫を行って検討した結果、リコンビナントVV-MUC1(rVV-MUC1)をC57BL/6マウスに静脈注射により免疫する方法をとることとなった。免疫したマウスから3週間後に脾細胞を回収し、MUC1ムチントランスフェクタント細胞と6日間共培養して刺激している。 ここで刺激に用いたMUC1ムチントランスフェクタント細胞は若干特殊なものである。すなわち、Transport-associated protein with antigen processing(TAP)の変異体で、MHC class Iが細胞表面に発現しない細胞(RMA-S細胞)を親株としている。また、O-結合型糖鎖の伸長阻害剤である、ベンジル-N-アセチルガラクトサミニド(Bzl-GalNAc)であらかじめ処理して用いている。用いたターゲット細胞に関しても同様である。ターゲット細胞をBzl-GalNAcであらかじめ処理しないと、免疫源に用いたMUC1ムチンの効果が見られなかった。これらの結果からrVV-MUC1によってMUC1ムチンのコアペプチドを認識するCTLが誘導されたが、これらのCTLはMUC1ムチンの糖鎖が伸長していると認識できないと解釈できる。これらの細胞にはMHC class Iの発現がなくMUC1ムチン由来ペプチド断片はMHC class I上に提示されていないので、MUC1ムチンはMHC非拘束的に認識されていると考えられる。MUC1ムチンのタンデムリピート構造は、B細胞によるT細胞非依存性抗原認識の場合と類似の、MHC非拘束性の認識を可能にしているのかもしれないとの提案がなされている。 本研究では、ヒトとマウスのリンパ球からMHC非拘束性のMUC1ムチン特異的CD8陽性CTLを誘導することが試みられたが、リコンビナントワクシニアウイルスを用いてマウスに免疫するという方法を用いることによって、MHC非拘束性でMUC1ムチンに特異的なCTLの存在が初めて明らかにされたことは、極めてインパクトの高い成果である。細胞表面のムチンというよく知られた腫瘍抗原を介する、宿主免疫系による癌細胞の認識と免疫学的な除去の機構を解明するうえでの、重要なマイルストーンを残したといえる。これらの研究成果は腫瘍学及び免疫学に資するところが大であり、本論文の提出者は博士(薬学)の学位を受けるに十分であると判断した。 |